LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

第1次近衛内閣

第1次近衛内閣は、元老・西園寺公望の奏薦を受けて貴族院議長の近衛文麿に大命が降下し、組閣した実質的挙国一致内閣である。内閣発足の1ヶ月後に勃発した盧溝橋事件については、当初、拡大方針を見送っており、現地軍も停戦交渉を行っていたが、その後の閣議で北支居留民保護のために派兵を決定し、国内世論統一のために新聞・通信関係者代表らに協力を依頼した。援兵の派兵によって中国側は交渉態度を硬化させ、さらに第二次上海事変で交渉は決裂、これらによって日中戦争(支那事変)が拡大していった。さらに、同年11月から行われたドイツによる対中和平工作、トラウトマン工作も最終的に打ち切られることとなり、翌1938年(昭和13年)1月には「爾後国民政府を対手とせず」という、いわゆる「近衛声明」(第一次近衛声明)を発表し、対中講和の道が閉ざされた。その後、同年4月には国家総動員法を制定して戦時体制を整え、同年11月に「東亜新秩序建設」を戦争目的と規定する声明(東亜新秩序声明、第二次近衛声明)を発表し、同年12月には親日派の汪兆銘の重慶脱出を受けて「近衛三原則」(善隣友好、共同防共、経済提携)を日中和平の基本方針として呼びかける声明(第三次近衛声明)を発表した。また、新体制運動を唱え大日本党の結党を試みるものの、この新党問題が拡大し1939年(昭和14年)1月に内閣総辞職した。以下表中、「留」は前内閣からの留任(同じ大臣に再任)、「転」は前内閣からの転任(別の大臣に横滑り)、また出身母体の「貴」は貴族院、「衆」は衆議院、「官」は官僚、「財」は財界、「研」は私的政策研究団体、「軍」は軍部、そして軍階級の「予」は予備役であることをそれぞれ示す。なお混乱を避けるため字体は新字体で統一した。国務大臣を補佐しつつ政府(内閣)と議会との連絡を取ることをその職掌とした、政務次官・参与官の両政務官が置かれたのは1924年(大正13年)8月、護憲三派内閣の時だった。その後も内閣が変わるごとに時の政府が与党とたのむ両院の会派の中から若手の議員たちがこれら政務官に任用されていった。やがて五・一五事件や二・二六事件を経て憲政の常道が崩れ中間内閣の時代が到来すると、一内閣における政党枠の大臣数は大幅に減った。するとこんどは大臣適齢期になった中堅の議員たちが、政務次官や参与官を大臣に次ぐポストとして垂涎するようになった。このため政務官は次第に両院議員たちの猟官運動の対象と化してゆき、やがてそれは有害無益なものではないかという批判までが起こるようになっていった。そうした中で林銑十郎が総理になると、少数閣僚内閣による実力内閣を標榜した林はこうした政務官への批判を絶好の機会と捉え、政務官の弊害を過剰に問題視してその任用を一切とりやめてしまった。政務官という議会との連絡役を自ら断ち切ってしまった林内閣は、その当然の帰結として衆議院で民政党と政友会の二大政党からそっぽを向かれることになり、これが4か月後の林内閣瓦解につながった。その林のあとに総理となった近衛は迷わずこれらの政務官を復活させたばかりか、国民の代表を積極的に国政に関与させるという名分のもとに、田中義一内閣以来10年ぶりにすべての政務官を衆議院議員から任用した。ただしその顔ぶれはというと、近衛の私的政策研究団体である昭和研究会に所属する者や、近衛と個人的にも近かった親軍的な中島知久平鉄相が率いる政友会中島派の面々が大多数を占め、逆にそれまで長年政友会の中心にあった自由主義的な鳩山一郎率いる政友会鳩山派がほとんど排斥されたかたちとなっており、そこにはすでに政友会の分断と解党に向けて張られた伏線を見て取ることができる。なお政務官の任命は、通常は新内閣の発足後、数日から数週間程度の日を置いて行われた。またその退任も、次の内閣が発足してそのもとで新しい政務官が任命されるのを待って行われた。このため政務官の在任期間は日付上は二つの内閣にまたがるかたちとなる。しかし政務官はあくまでも政治任用官であり、その時々の政府が独自にこれを選任するので、その職責は彼らを任命した内閣が総辞職した時点で実質的に消滅した。前の内閣が任命した政務官は次の内閣発足後も暫時その職に留まるものの、基本的にその仕事といえば事務の引継ぎのみだった。以下混乱を避けるため字体は新字体で統一した。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。