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ハウス (映画)

『HOUSE ハウス』は、1977年公開の日本映画。ファンタジータッチのホラー・コメディ作品。CF監督として活動していた大林宣彦の初劇場用映画監督作品。元祖"Jホラー(ジャパニーズホラー)"とも、元祖"アイドル×ホラー"とも評される。大林宣彦はのちに尾道三部作『転校生』(1982年)、『時をかける少女』(1983年)、『さびしんぼう』(1985年)を制作して代表作とする。当時は東宝のようなメジャーな映画会社の映画を、映画会社の社員でない監督が製作するというのは有り得ない時代。とかくテーマ主義に走り、映像への配慮があまりなされていなかった当時の日本映画の中でポップな色彩とおもちゃ箱をひっくり返したような華麗な映像世界は世の映画少年を熱狂させた。客層は15歳以下だった。本作の成功は日本映画界に、助監督経験なし、自主映画出身、CMディレクター出身の映画監督の出現という新たな流れを生み出した。なお、当作品では大林はプロデューサーも兼ねているが、純粋の東宝映画を資金分担しない監督にプロデューサー兼任させるのは異例中の異例であり、特にプロデューサーシステムの総本山である東宝ではなおさらであった。わずかに市川崑のみが(この後十年程度にわたって)この待遇を得ているが、監督歴30年の大功労者と同じ待遇を思い切って外部新人に与えた東宝の、いわば大きな権限をもって大林に存分に腕を振るうことへの期待が現れている。撮影監督や特撮スタッフを東宝社外から導入することができたのも、その結果のひとつである。原案者の大林千茱萸(ちぐみ)は大林監督の実娘で当時12歳の女子中学生だった。娘が風呂上りに鏡台の前で髪をとかしながら「鏡の中の私が私を食べに来たら怖いわよ」と言ったことにヒントを得て、『ジョーズ』を始め、当時流行していた動物が人を襲うアメリカのパニック映画と合わせ、家が丸ごと妖怪で、人を食べるというアイデアを思いついた。この頃、日本映画は大作洋画に押されて振るわず、特に若い観客は日本映画から離れていた。原作がベストセラーか、人気漫画か、大スターが主役でないと映画化はされない、流行の後ばかり映画は追いかけていた。大林自身「日本映画を見て育った人間としてそれじゃ淋しい。CMをそれまで作ってきた長い間に、僕と東洋現像所で開発した色んな技術を全部使って、今までにない日本映画を作ってやろうと思った」という製作の動機を話している。このため、映画のほとんど全シーンに何らかの特殊効果が使われており、製作過程ではどんな映像が出来上がっているか判然とせず、製作担当者がやきもきしたといわれる。本作で用いられた特殊効果の技術の大部分は当時の東宝撮影所には無く、光学撮影技師の宮西武史を除いては、CMを手掛けてきた外部スタッフを使った。パナビジョンのキャメラを日本で初めて入れたり、またコーディネイターという職種を導入したり、今でいうスタイリストが映画に就いたのも本作が最初といわれる。内容は羽臼(ハウス)屋敷を舞台にしたホラー映画。7人の美少女が夏休みを屋敷で過ごそうとやってくるが、実はその屋敷は人を喰らう妖怪であり、少女達は1人また1人と屋敷の餌食にされていく。少女が1人食べられるごとに屋敷の女主人は若返り、花嫁衣装を着られる様になる。ただし少女達が食べられる際、大抵はシュールかつチープな特撮技術で処理しており、ダイレクトな流血シーンは少ない。大林は「作品を自分で売りたい」と、本作の監督と同時にプロデューサーを兼ね、多くのマスメディアに登場して作品を売り込んだ。また主要出演者の7人は「ハウスガールズ」と呼ばれ、映画の宣伝の為TVや雑誌に登場。それ以外では、南田洋子が今までの経歴からは想像できない様な役柄を演じ、歌手の尾崎紀世彦も三枚目キャラを演じた。更に、当時既にスターだった三浦友和や檀ふみは、1分に満たないシーンではあるが、ストーリー上重要な役柄で友情出演している。また、大林監督の家族や小林亜星などの製作スタッフも作品に登場している。劇中でファンタが井戸から逃げてきた際にメロディーが「泥だらけの純情?」と言うシーンがあるが、これは、当時本作と同時上映されていた山口百恵・三浦友和主演の映画タイトルでもある。一方、その『泥だらけの純情』にも、モブシーンでハウスのTシャツを着た若者(エキストラ)が登場する。他社の映画会社作品のパロディー〔原一平扮する寅さんそっくりの男→『男はつらいよ』(松竹)中盤でラーメンを食べる男がトラック野郎→『トラック野郎』(東映)等〕が含まれたり、少女達のニックネームに商品名(ファンタ、メロディー等)が使用されている事から、2010年代以降の地上波での放送はされていない。「HOUSE」という横文字の映画タイトルも当時は珍しく画期的であった。10年後の1987年頃、続編の話が出て脚本段階までいったが、「"HOUSE"は一回限りのイベントだろう」と考えやめたという。東京郊外のお嬢様学校に通う快活な現代っ子のオシャレは、ある日突然帰国した父から再婚相手を紹介されショックを受ける。夏休みに父や再婚相手と軽井沢に行きたくない彼女は、所属する演劇部の合宿先に長年会っていなかった“おばちゃま”の家を提案してしまい、後からおばちゃまに訪問したい旨を手紙で伝え、許可をもらう。そして夏休み、オシャレとその仲間達は羽臼屋敷に向かう。7人はおばちゃまに歓迎されるが、その後降り掛かる惨劇の事は予想だにしていなかった――。オシャレ達の通う女子高は東京の郊外にある。少なくともオシャレは通学しており、他のメンバーも通学しているものと考えられる。一方、羽臼邸は具体的な場所は不明だが、人里離れた山奥にある事だけは確かである。羽臼家はその昔開業医だったが、戦後過疎の為もあって屋敷の周辺は開発から取り残され、事実上交通手段を失ってしまった。7人の少女達はまず東京駅から特急か快速電車に乗り、次に路線バスに揺られ、森の中を徒歩で屋敷まで向かった。また、涼子は次の日の早朝、車で屋敷に向かった。前者はオシャレが屋敷の場所を知っていた為、後者はオシャレの父親から道順を聞いたらしく、いずれも無事到着できたが、東郷先生は途中道に迷い、結果到着できなかった。一説によると、羽臼邸は未婚の娘にしか見えないと言う。本作の7人の美少女の役名はあだ名であり、それまでの映画にはないユニークなものであった。当時、演じる女優の所属事務所から「何とか名前を付けてもらえませんか。キャスティングできません」と言われたと大林は話している。以下ノンクレジット大林に映画製作の話を持ちかけたのは、東宝映像企画室長の角田健一郎であった。新しい企画を探していて、東宝スタジオでCF撮影を行なっていた大林に目をつけていたという。大林の持ち込んだ脚本を見た松岡功東宝企画部長(当時)は「こんな無内容な馬鹿馬鹿しいシナリオを初めて見ました。でも私が理解できるいいシナリオはもう誰も観てくれません。だから私には理解不可能なシナリオをそのまま映画にしてくれませんか」と大林にいったと言い企画としては1975年に東宝の会議を通っていた。東宝は長く映画部門を統括していた藤本真澄プロデューサーが、児玉隆也の映画の製作を中止させられて揉め1975年に退任。副社長になった松岡功を中心として企画委員会が設立され、その新体制のもとで生まれた企画が『HOUSE』だった。しかし撮影所の助監督を経験していない大林が監督することに、当時の東宝の助監督たちは反対した。CM撮影では東宝撮影所にいつも出入りしていたのに、映画を撮るとなると話は別で、撮影所の入口ですれ違った恩地日出夫に「大林さん、ぼくらの職場を荒らさないで下さいね!」と釘を刺された。それに対し、「我々が映画を作っても、ヒットしない。ここは、外部の人にやらせて、どれだけのものができるかを知ろうではないか」と説得したのが、東宝出身の映画監督である岡本喜八であった。1976年6月には準備稿台本が完成し製作についての報道もされたがすぐに製作開始とはならず、宙吊り状態になっていた。大林は映画化されるまでが一つの挑戦と考え。作品を自分で売るという気持ちから、監督と同時にプロデュース権を持ち「『HOUSE』映画化を実験するキャンペーン」と銘打って、CM製作で付き合いのあったテレビやラジオに自身を売り込み、『11PM』など積極的にテレビ出演やインタビューに応じるタレント活動のような事をやった。CM関係の代理店や知人に呼びかけて、出演する女の子を推薦してもらってオーディションを行い、200人の中から7人を選んだ。池上季実子以外は全員新人で平均年齢は18歳だった。当時一番売れていた週刊少年マガジンに売り込み、グラビアにレオタード姿の7人を掲載し"ハウスガールズ"と名づけ売り出した。水着姿の7人を登場させ大磯ロングビーチでキャンペーンを行ったり『HOUSE』のイラスト入りの大きな名刺を作り、会う人ごとに渡した。しかし映画製作はなかなか進まず、プロモーションに2年を要した。ニッポン放送「オールナイトニッポン」枠で生放送されたラジオドラマ『オールナイトニッポン特別番組 ラジオドラマ ハウス』は、映画製作が進めてもらえないため、映画製作より先に『HOUSE』ブームを起こしてやろうと大林が仕掛けたものだった。大林自身「『HOUSE』での仕事は八割がプロデューサーとしてのもので監督としての仕事は全体の二割くらいだった」と述べている。先の『HOUSE』のイラスト入り名刺を見た角川春樹は「こういうことをしている監督がいるのか」と興味を持ったと話している。既存の映画界とは別のところで仕事をしていた大林と角川は、ほぼ同時期にそれぞれの方法で「メディアミックス」を仕掛けていた。東宝の富山省吾は、当時宣伝部の一番の若手であったが、富山から「あれはつまり、一人クロスメディアでしたねぇ」と言われたという。ラジオドラマがオールナイトであるにも関わらず、高い聴取率を挙げ、三大新聞がこの評判を報道したことが最終的に映画の製作開始へ至る。当初は『東宝チャンピオンまつり』の一本として公開することも検討されていた。初期の大林作品らしく、登場人物が脱ぐシーンが多い。主演の池上季実子が入浴シーンでヌードになった他、ラスト近くでファンタを襲うシーンでもセミヌードになった。ガリ役の松原愛も水中ヌードを披露した。池上は「従来の役柄のイメージを払拭したい」と言う意向から脱ぐ事を快諾、その結果、実力派女優への脱皮に成功している。また、「火が噴く程恥ずかしかったけど、他の皆さんが頑張っていたので自分も一発奮起した」と語る松原は脱ぐだけでなく潜水の必要があった為、都内のプールで2日間猛特訓を受けた。更に湯気が出るのを防ぐ為、水温10℃の中での撮影だったが、適温のお湯の入ったドラム缶で暖を取りながら撮影に臨んだ。その甲斐あって、水中シーンはどれもほぼ一発でOKが出ている。南田洋子は大林とはカルピスのモノクロCMを作っていた時代からの付き合いで、当時まだ40代半ばであったが老婆役で出演した。「日活の女優魂をお見せします」と、若い池上がヌードシーンにたじろいでいると「着物はさっとこう脱げばいいのよ」と自らも初ヌードを披露した。池上はデビュー4年目での初主演映画。当時は演出家と役柄の確認をしながら芝居をしていた。演じる役柄の気持ちになり切らないとうまく芝居はできないという自身の演技法であったのだが、大林の極めて独特の演出法に戸惑った。「笑って」という指示に「嬉しそうに笑えばいいんですか? それとも面白そうに笑えばいいんですか? それによって笑い方も違ってくると思います」と聞き返すと、「いいから、とにかく笑ってください。笑ってくれさえすれば、こちらで判断します」と言われ、いろんな笑いの表情、パターンを撮られ、消化不良の連続。池上は、女優デビュー40周年を回顧しても「この映画ほど悩んだり、葛藤した作品はなかった」と述べている。また「自分では納得できる芝居ではなかったが、この映画の評価が年を追うごとに上がっていったことで、振り返ってみると、時代感覚を先取りした大林監督のデビュー作に主演できたことはいい思い出になっている」と話している。大場久美子は当時、映画と同じ名前で協賛していたハウスのCMに出ていたが、アイドルとして歌手デビューする直前でまだ無名だった。ラジオ版の岡田奈々の代役として大役をつかんだ。映画も1976年の『遺書 白い少女』(桜田淳子主演)の小さな役で映画デビューしていたが、ちゃんと演技をする役は本作が初めてだった。アイドルのため一切脱がなかったが、その分泥まみれになったり、水浸しになったりとイメージを壊さない範囲内で相当ハードなシーンをこなした。水のシーンは東宝の汚いプールに入り浮かべた畳にしがみつき、寒い上に本物の家具をバンバン投げ込まれ、演技じゃなくギャーギャーと本当に泣いた。撮影終了後すぐ東宝の風呂に池上と一緒に飛び込んだ。二ヶ月くらい撮影にかかり最後は疲労で熱が出たという。「映画をやったな、という充実感を感じるのは今でもこの映画ぐらいしかない。大林監督がこの後、色んな女優の映画を撮るので、どんなふうに女優を撮っているのか気になって、ジェラシーさえ感じた」などと話している。また、マック役の佐藤美恵子は、生首の模型を作る為の型取りで苦労した。呼吸だけはできる様にしてあったものの、頭部に石膏を流し込まれ、2時間そのまま保持しなければならなかった。その後、型にゴムが流し込まれ、完成した。大林とともに特撮を担当したのは後に『ALWAYS 三丁目の夕日』などを手掛ける島村達雄である。打ち上げパーティで助監督だった小栗康平が桂千穂に「こういう映画は日本映画を30年遅らせる」と喰ってかかった。「他の映画に較べるとまだマシな方だが」との言葉もあったため、桂は気分を害さなかった。撮影中、ある女優がいい芝居をして小栗はそれを使いたかったが、大林が「僕の生理に必要ない」とチョンチョンと切った。小栗はラッシュを見ながら「俺が監督になったら..」と悔しい思いをしていたという。『HOUSE ハウス』が公開された1977年は、日本映画が斜陽した時期で、この年の新人監督の登用は、ピンク映画以外では大林ただ一人だった。既存の日本映画から大きく飛躍した異色映画の登場は若い観客を中心に好意的に迎えられたが、批評家の評価はさほど高くなく、目立った映画賞は受賞していない。ただ、直後のキネマ旬報は森卓也の、上滑りな部分、しつこすぎる描写を具体的に指摘しつつ全体を高く評価する一文、さらには自主映画時代から大林と親しい佐藤重臣の「時間が停止してしまった少女の匂いが、ジャスミンのように鼻を刺激する」など感覚面に切り込んだ一文を並べ、いわば理と情の両面から立体的に論じ、後年の作品にまで通底する先見を示した。2009年春、本作は初めて北米巡回興行を開始。興行形態は、一般映画の様に単館、もしくは数千館一斉同時公開という形ではなく、1ヶ所づつ、毎週末、違う都市で巡回興行して行く。既に追加興行を含む100都市以上が公開予定にリストアップされている。北米での配給は1950年代からニューヨークに本拠を置く老舗配給会社のJanus Filmsが行っている。アメリカの会社でありながら、扱うタイトルは主に欧州作品で、黒澤明、小津安二郎、大島渚作品等、数多くの日本映画、クラシック作品の配給を手がけている。日本公開から30年以上経っての全米公開は異例で、数年前にある中国系アメリカ人のファンが本作をネット上で発見し、Janus Filmsに配給を促したとされる。開始から1年経った2010年春も全米公開は続いている。同作は既に2009年、英国でDVDリリースされ、北米ではJanus Filmsの系列会社クライテリオン・コレクション社が2010年10月26日にリリース。日本では指摘されたことはないが、アメリカに行くといつも最初に「あのおもちゃみたいな、ゴム風船みたいな原子爆弾はどういう意図で描かれましたか?」と質問されるという。2016年4月、北イタリアウーディネで第18回ウーディネ極東映画祭『ゴジラ』以外の日本のSF映画にスポットを当てた特集上映「BEYOND GODZILLA: ALTERNATIVE FUTURES AND FANTASIES IN JAPANESE CINEMA」(「ゴジラを超えて: 日本映画におけるオルタナティブとファンタジー」)が開催された。特集では『ゴジラ』以外の本多猪四郎監督作品と、本作『HOUSE ハウス』を含む大林の初期作品を中心にした10作が上映された。大林作品が欧州で大々的に取り上げられるのは初めてとなる。1977年6月25日に同映画のサウンドトラックが、ゴダイゴのアルバムとしてリリースされた(品番:YX-7177)。ただし、オリジナル・アルバムとしてはカウントされない。シングル・カットとして、同年6月1日には『LOVE THEME(ハウスのふたりーハウス愛のテーマ)/MAIN THEME(ハウスーハウスのテーマ)(品番:YK-87)』が、9月1日には『CHERRIES WERE MADE FOR EATING(君は恋のチェリー)/YES, I THANK YOU(イエス・アイ・サンキュー)(品番:YK-91)』がリリースされた。なお、『YES, I THANK YOU』は、前記のシングルのみの収録曲(当時)。当時はまだ無名だったゴダイゴ起用の経緯はCM時代の古くから付き合いのあった小林亜星から、「早く映画を作ってよ、僕が音楽やるから」と言われていたため、小林に音楽を依頼したら、「遅過ぎたよ、もう若い音楽は書けない。曲は作るけどアレンジや演奏は彼らにやってもらおう」とゴダイゴを紹介された。東宝から映画化決定の報を受け、レコード会社が映画製作の前にレコードを製作した。映画より先にレコードが出来たのは日本映画でおそらく初めてといわれる。ゴダイゴの曲をかけながら撮影した。映画本編公開に先駆け、1976年11月27日にニッポン放送の「オールナイトニッポン」において、4時間生放送のドラマとして『オールナイトニッポン特別番組 ラジオドラマ ハウス』が放送された。大林宣彦と上野修の共同演出、主な出演は岡田奈々、林寛子、木之内みどり、松本ちえこ、三木聖子、秋野暢子、松原愛(彼女は映画本編にも出演)。ナレーションは若山弦蔵が務めた。総合司会は堺正章、テーマ音楽は小林亜星、演奏はゴダイゴ、その他に放送当時の番組ナレーションでは音楽 成毛滋、つのだ☆ひろ、と紹介された。このラジオドラマが映画化への直接の引き金になった。話の内容は、映画版とは若干異なっている。ある日、東郷と名乗る新人教師が、実地学習の一環として田舎のクロガミ邸へ七人の少女を誘い出す。その家には、戦争で弟のクロガミゴウスケ中尉を亡くした老女が住んでおり、弟の死に関係している七人の男たちの血縁である少女達を殺していく。ところがクロガミ中尉の死は誰のせいでもなく、たった一人の肉親であった老女が彼の死を美化した結果の惨劇(逆恨み)という、非常に後味の悪い話として終わる。

出典:wikipedia

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