『ラデツキー行進曲』(ラデツキーこうしんきょく、、作品228)は、ヨハン・シュトラウス1世が作曲した行進曲で、世界的に知られる彼の代表作である。この曲が作られる以前はワルツ『ローレライ=ラインの調べ』が代表作と見なされていたが、この曲の誕生によって『ローレライ=ラインの調べ』を含むすべてのヨハン1世の曲が埋もれてしまった。1848年にオーストリア帝国領北イタリアの独立運動を鎮圧したヨーゼフ・ラデツキー将軍を称えて作曲された。現在ではそうした経緯は関係なく、イタリア人指揮者によってもわだかまりなく演奏される。近年、シュトラウス楽団に所属していたフィリップ・ファールバッハ1世が真の作曲者であるとする説も出ている。1848年、国王ルイ・フィリップを亡命に追い込んだフランス2月革命が全ヨーロッパ中に飛び火し、1848年革命が勃発した。当時ウィーンの宮廷舞踏会音楽監督を務めていた「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス1世であったが、そんな彼も革命運動に与してクレメンス・フォン・メッテルニヒ宰相の抑圧体制を打破しようとした。メッテルニヒ失脚直後、シュトラウスはこれを歓迎して『自由行進曲』などを作曲し、相次いで発表している。ところが、革命運動は次第に先鋭化していき、「君主制の打倒」を唱える勢力に革命推進主体が移り変わっていった。よりリベラルな体制を望んでいただけで、ハプスブルク家を玉座から追い落とそうなどとは考えていなかった大多数の市民たちは、変質してしまった革命運動に困惑し、これと対立するようになった。シュトラウスもこうした変質した革命運動に危機感を抱いた市民の一人であった。当時イタリア半島では民族統一運動が盛んで、オーストリア帝国領であった北イタリアでは「ドイツ民族からの独立」を目指して激しい闘争が繰り広げられていた。ヨーゼフ・ラデツキー将軍の率いるオーストリア陸軍がこれの鎮圧に成功したことを受けて、シュトラウスは将軍を称える行進曲の作曲を思い立った。ラデツキー将軍による北イタリア鎮圧から一月後の8月31日、シュトラウスは「イタリアでの勇敢な軍隊の名誉と、負傷した兵士への支援のために」と題したコンサートを開き、将軍の名を冠した『ラデツキー行進曲』を初演した。以後シュトラウスのコンサート会場は、多くの士官と国民自衛団の市民で埋め尽くされたという。この行進曲のおかげで政府軍の士気は大いに高揚し、「ウィーンを革命から救ったのは、ヨハン・シュトラウスである」とまで言われるようになった。こうした経緯からオーストリア帝国の「愛国の象徴曲」とされ、息子ヨハン・シュトラウス2世の行進曲『ハプスブルク万歳!』や、ヨハン2世とその弟ヨーゼフの合作『祖国行進曲』などに主題が引用されている。ハプスブルク君主国崩壊後の1932年に、オーストリア人作家ヨーゼフ・ロートが同名の長編小説『』を発表しているが、これは熱心な王党派であったロートが帝国時代への回帰を呼びかける意味もあって付けた題名である。共和制に移行した現在のオーストリアでも、国家的式典の場でしばしば演奏されている。主題にカドリーユが用いられている。オーストリア=ハンガリー帝国の流れを汲むリズム(ダタダンダタダンダタダンダンダン と後ろの拍にアクセントが置かれている)およびその転回で曲が構成されている。前奏→主題→展開部→中間部→前奏→主題→展開部の構成。ニ長調。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートにおいて、アンコールの掉尾を飾る曲として伝統的に使用されているが、この版は長年にわたって楽団員たちが手を加え続けたものであり、原典版とは大きく楽器法や音の強弱などが変化している。2001年には、ニコラウス・アーノンクールにより、コンサートの冒頭を飾る曲として初めて原典版が演奏された(アンコールでは通常演奏される版が演奏された)。2005年には演奏されていないが、これは前年末に起こったスマトラ島沖地震の犠牲者へ弔意を示し復興の支援を進めるためである。
出典:wikipedia
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