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九六式軽機関銃

九六式軽機関銃(きゅうろくしきけいきかんじゅう)は、1930年代前中期に開発・採用された大日本帝国陸軍の軽機関銃。日露戦争から第一次世界大戦にかけて日本陸軍内での機関銃の重要性は高まりを見せた。当時の機関銃の形態は銃自体を三脚にのせ、重量も50kgはゆうに超えていたため機動戦には不向きであった(重機関銃)。また前線において設置や発射など手間がかかり扱いも非常に難しかった。また第一次大戦後、歩兵による戦闘も中隊規模から徐々に小隊規模へ変わっていき、それに伴い、陸軍は一歩兵が簡単に携帯できる軽機関銃の開発に着手した。そして1922年(大正11年)に十一年式軽機関銃を制式採用し、翌1923年(大正12年)の春から各部隊に配備していった。当時において陸軍での軽機の配備は諸外国に比べても早く、そのため各国ではその先進性は評価された。満州事変で初陣を飾った十一年式軽機であるが構造上砂塵に弱く、特に機関部に入り込んだ砂塵により故障が相次いだ。十一年式軽機の不具合に対し、既に制式化された実包を使用し、信頼性が高く性能良好な扱いやすい新型軽機の開発が陸軍によって1931年(昭和6年)に着手された。1932年(昭和7年)から開発が始まったが、当初は陸軍造兵廠小倉工廠および、東京瓦斯電気工業、日本特殊鋼、南部銃製造所(1936年に中央工業へ社名変更)の各社による競作であった。1933年(昭和8年)に各社の試作銃の比較審査を行い、その中から小倉工廠と南部銃製造所に試作銃の改良が指示された。開発促進のため南部側に陸軍技術本部が加わり、前述の小倉工廠と南部銃製造所による各試作銃の長所を取り入れて改良設計したA号銃を南部が製作、B号銃を陸軍造兵廠が製作した。このうちB号銃はチェコスロバキア製ZB26軽機関銃とよく似ており模倣・コピーとされ、ZB26と同じく機関部下部から排莢する。事実、A号・B号両銃の試験資料において、参考として十一年式軽機と共に挙げられているチェッコ機銃(ZB26と思われる)の項目にある復座バネの詳元表記は「B号銃と同じ」となっている両銃は1934年(昭和9年)11月までに納入され、同年11月より1935年(昭和10年)5月まで各種比較試験が繰り返された。南部銃製造所のA号銃(弾倉を除く総重量7,980g)の方が、B号銃(弾倉を除く総重量9,000g)より1,000g以上軽量かつ耐久性・機能性など技術的に優れていたため、同年8月の陸軍技術研究本部の審査会によりA号銃の採用が決定され、以降は南部銃製造所(中央工業)が主体となって、A号銃に更なる改良を加えた試製軽機の開発が進められた。1936年1月に陸軍技術研究本部の審査会によりA号銃は試製九六式軽機関銃と命名され、1937年(昭和12年)7月に仮制式制定上申を経て、1938年(昭和13年)6月に九六式軽機関銃として制式制定された。なお採用されなかったB号銃は九七式車載重機関銃の開発へ繋がることになる。九六式軽機(A号銃)の開発には、中国国民党軍が使用していた「無故障機関銃」こと、ZB26や改良型ZB30を模倣したとされることがある。外見がよく似た面が多くあるものの、ZB26に類似したレイアウトは本銃だけではなく、フランスのFM mle1924/29軽機関銃でも採用されている。本銃とZB26系とを比較すると、ガス作動機構に南部麒次郎が開発担当した多くの機関銃と同様にホチキス機関銃の影響が強く、ボルトロック機構が異なる、メインスプリングの配置が異なるなど相違点が多い。また、B号銃やZB26系とは異なり機関部右側面より排莢する方式を採用しており、ZB26やイギリスのブレン軽機関銃のコピーではない。銃身の空冷加工も、ZB26では環形のフィンが銃身軸に対して直角に刻まれているのに対し、九六式では十一年式と同じく、連続したらせん形状となっている。一方で照尺転輪としてはZB26に類似した様式のものが採用された。南部麒次郎は開発期間中の1935年2月にZB26系とは異なるボルトロック構造に関する特許を、また1936年3月には安全装置に関する特許などを出願し、これらは九六式軽機やのちの新型軽機の開発にも生かされている。銃身は銃腔の磨耗対策としてクロームメッキ塗装が施され、レシーバー先端のラッチレバーを回して解放することにより簡単に銃身の交換が出来た。弾薬は口径6.5mmの三八式実包を使用。装弾数はZB26が20発であるのに対し九六式軽機は30発の箱型弾倉を採用した。箱型弾倉の採用に加え薬莢蹴出窓・弾倉口に防塵用蓋板を備え、十一年式では剥き出しだった蹴子にも防塵カバーが設けられたため、機関部に砂塵やゴミの混入が少なくなったことから銃本体の塗油装置は廃止された(設計要領では可能ならば装弾器に給油装置を設け、弾倉に実包を装弾する際に塗油されるよう要求していた)。弾倉の背面には丸い小窓があり、残弾が4発以下になると、射手に弾切れを予告する表示が出た。また、点射による狙撃を主とする運用上必要な眼鏡(照準眼鏡、スコープ)をオプションとして装着できた。銃の真上に弾倉が配置されるため、照門・照星(アイアンサイト)は射手から見て弾倉の左にオフセットして設置される。一方眼鏡の本体・接眼部は弾倉の真後ろに装着されるが、対物レンズはプリズムを使うことで、射手から見て弾倉の右にオフセットされる。開発当初の要求仕様では軽三脚架での運用を主とする旨が明記されていたが、最終的には十一年式と同じく二脚を標準装備する形態に落ち着いた。この二脚は地上目標に対する射撃時は勿論の事、航空機の襲来の際にも兵士一名が射手に正対して正座し、二脚を肩に乗せる姿勢を取る事で対空射撃に用いられた。歩兵操典においては、地上部隊の脅威となる敵航空機に対しては専用の高射砲や高射機関砲を運用する高射砲兵・機関砲兵に限らず、野戦では歩兵も小銃・軽機関銃・重機関銃をもって全力で対空射撃(九九式短小銃#対空射撃)にあたるものとされていた為である。実際に当時の戦闘風景を捉えた写真では、三八式歩兵銃を装備した多数の兵士と共に、この射撃姿勢で対空射撃に当たる九六式軽機関銃のカットが残されている。支那事変に実戦投入された九六式軽機は、その後ノモンハン事件・太平洋戦争(大東亜戦争)を通して活躍した。帝国陸軍のみならず海軍陸戦隊でも使用され(海軍では"九六式軽機銃"として制式)、また満州国軍など同盟国軍にも供与されている。粉塵対策を行った本銃は十一年式軽機に比べ信頼性が高くなり、第一線部隊では非常に好評であった。生産においては当時の日本は基礎工業力が低く、加工精度も諸外国に比べて劣っていたため最終調整は熟練工に頼った。そのためか射撃時においてはガタ付が少なく命中精度は非常に高かった反面、弱装薬実包故のガス圧不足による遊底後退量不足による排莢不良や、諸外国に比べて薬莢が僅かに薄いことにより膨張した薬莢が薬室内に貼り付き千切れること(薬莢裂断)による排莢不良、更にそこへ次弾を装填してしまういわゆる突込みといった故障を度々起こした。その後、長年の懸案であった高威力の7.7mm弾薬を主力実包とすることとなり、九六式軽機に7.7mm弾を使用出来るように改良した九九式軽機関銃が開発され、1940年(昭和15年)に制式採用されても引き続き九六式軽機は生産が継続され、1943年(昭和18年)に打ち切られるまでの6年間で約41,000挺が生産された。九六式軽機は、軽機としては珍しく銃身下に銃剣の着剣装置を持つ。このことは同じ特徴を持つ九九式軽機と同様にたびたび論争の的になっている。着剣装置が設計に追加された時期は現時点で定かではないが、1937年(昭和12年)の改正歩兵操典草案が編纂される経緯を追っていくと、おそらくは1935~1936年前後であると見られる。これ以前の1928年(昭和3年)の歩兵操典では、軽機は専門の独立した分隊を編成し、小隊内の他の小銃分隊の火力支援を行う編制を採っている。従って、この配備運用方式に基づいていた1932年の開発当初段階では軽三脚架での使用が主であると考えられていた。当然、最初の要求仕様や開発経緯に着剣装置の文言は出ていない。むしろ歩兵用には肩付銃床は不要(騎兵用には必要)であるとまでされており、実際に九六式軽機が完成した姿とはかなりの隔たりがある。いわばアメリカ軍のM1919機関銃と類似するような形状が要求されており、満洲事変以降の実戦をまだ経験していない、この時点での陸軍の軽機運用の方針は未だ固まったものとはなっていない様子が窺える。これが1937年歩兵操典草案になると軽機は小銃分隊に編合配備され、一般によく知られている軽機運用法に進化し、小隊内の第1~3分隊に1挺ずつの装備が定数となった。ここに至り、軽機は従来と異なり小銃手と全く行動を共にしなければならなくなった。つまり、確固とした技術上や用兵上の理由があって追加したわけではなく、もしかしたら使うかもしれないから、大した手間でもないし取り敢えず付けてみたという程度のものだったという可能性もある。だからこそ、制式制定審査経緯にも着剣装置の追加に関する記述がないとも考えられる。なお、銃剣を付けた状態だと命中精度が上がるとの旧軍兵士や元アメリカ軍人の証言があり、2000年代初頭に須川薫雄ら米国在住の研究グループが行った射撃実験でも、着剣状態の方が命中精度が上がっている事が確認された。このことを考慮すると、重心が後ろに傾いている九六式軽機・九九式軽機のバランサー、銃身部のウエイトとして振動抑制の役目と、駐屯地や検問所などでの威圧が目的であるとも考えられる。当時の分列行進を写した写真には、銃手が着剣した九六式軽機または九九式軽機を「担え銃」の姿勢で保持しているカットが残されている他、支那派遣軍を撮影したアルバムにも擬装網を着用した兵士が着剣状態の九六式軽機を掩体から射撃する様子を捉えた写真が残されている。

出典:wikipedia

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