アイヌは、北海道・樺太・千島列島およびロシア・カムチャツカ半島南部にまたがる地域に居住していた。母語はアイヌ語。現在、日本とロシアに居住する。アイヌは、元来は狩猟採集民族である。文字を持たない民族であったが、生業の毛皮や海産物などをもって、現在のロシアのハバロフスク地方アムール川下流域や沿海州そしてカムチャツカ半島、これらの地域と交易を行い、永く、このオホーツク海地域一帯に経済圏を有していた。1855年日露和親条約での国境線決定により、当時の国際法の下、各々の領土が確定した以降は、日本国民またはロシア国民となった。21世紀初頭の現在、日本国内では、北海道地方の他に首都圏等にも広く居住している。アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、もともとは「カムイ」(自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称)に対する概念としての「人間」という意味であったとされている。世界の民族集団でこのような視点から「人間」をとらえ、それが後に民族名称になっていることはめずらしいことではない。これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、大和民族(和人、シサム・シャモ)とアイヌとの交易量が増加した17世紀末から18世紀初めにかけてとされている。アイヌの社会では、「アイヌ」という言葉は本当に行いの良い人にだけ使われた。丈夫な体を持ちながらも働かず、生活に困るような人物は、アイヌと言わずにウェンペ(悪いやつ)と言う。アイヌ語では、東を「メナシ」、住民や部族を「クル」と呼ぶことから、北海道東部に住したアイヌ部族は「メナシグル」と称し、同様に西部のアイヌは「シュムグル」(シュムは西を意味する)、千島のアイヌは「チュプカタウダシ」と呼ばれるなど出身部族で互いを呼びわけていた。大和民族(和人)は、アイヌのことを「蝦夷」・「土人(土着人の意味)」と呼び、大和民族と混血したアイヌのことを「アイノ」(日本語の「アイノコ」の略語)と呼んでいた。しばしばアイヌの民族呼称として用いられることもあるウタリの本来の意味は、アイヌ語で人民・親族・同胞・仲間であるが、現在ではアイヌ人自身の民族の呼称としても用いられる。中世以降、大和民族(和人)はアイヌを蝦夷(えぞ)、北海道・樺太を蝦夷地と称してきた。アイヌを東北地方あるいは日本全土の原日本人の一つとする説もある。東北地方の稲作遺跡を発掘した伊東信雄は、朝廷の「蝦夷征伐」など、古代からの歴史に登場する「蝦夷(えみし)」、あるいは「遠野物語」に登場する「山人(ヤマヒト)」らは、文化的には大和民族であるものの、人種的にはアイヌであるとしている。東北の蝦夷(えみし)は和人により古代から征討の対象とされ(蝦夷征討)、鎌倉時代までには東北地方北端まで平定され和人と同化した。東北地方は弥生時代から稲作文化が流入していた一方、古墳時代にアイヌが寒冷化による東北地方に南下するなど、歴史的にも和人、アイヌの混交の地であった。一方で北海道、樺太は室町時代に和人の入植が始まるまでは、和人政権からは化外の地と見なされていた。また、北方の民族からはアイヌは骨嵬(クギ)などと呼ばれてきた。アイヌの祖先は北海道在住の縄文人であり、続縄文時代、擦文時代を経てアイヌ文化の形成に至ったとみなされている。しかし、特に擦文文化消滅後、文献に近世アイヌと確実に同定できる集団が出現するまでの経過は、考古学的遺物、文献記録ともに乏しく、その詳細な過程については不明な点が多い。これまでアイヌの民族起源や和人との関連については考古学・比較解剖人類学・文化人類学・医学・言語学などからアプローチされ、地名に残るアイヌ語の痕跡、文化(イタコなど)、言語の遺産(マタギ言葉、東北方言にアイヌ語由来の言葉が多い)などから、祖先または文化の母胎となった集団が東北地方にも住んでいた可能性が高いと推定されてきた。近年遺伝子 (DNA) 解析が進み、縄文人や渡来人とのDNA上での近遠関係が明らかになってきて、さらに北海道の縄文人はアムール川流域などの北アジアの少数民族との関連が強く示唆されている。擦文時代以降の民族形成については、オホーツク文化人(ニヴフと推定されている)の熊送りなどに代表される北方文化の影響と、渡島半島南部への和人の定着に伴う交易等の文物の影響が考えられている。自然人類学から見たアイヌは、アイヌも大和民族も、縄文人を基盤として成立した集団で、共通の祖先を持つとされる。南方系の縄文人、北方系の弥生人という「二重構造説」で知られる埴原和郎は、アイヌも和人も縄文人を基盤として成立した集団で、共通の祖先を持つが、本土人は、在来の縄文人が弥生時代に大陸から渡来した人々と混血することで成立した一方、アイヌは混血せず、縄文人がほとんどそのまま小進化をして成立しとされる。アイヌは、大和民族に追われて本州から逃げ出した人々ではなく、縄文時代以来から北海道に住んでいた人々の子孫とされる。アイヌは古モンゴロイドに属し、周囲のモンゴロイドと大きく異なる形質を持っており、人種的にはアイノイド(Ainoid)と呼ばれる。和人など周囲のモンゴロイドと比較して、北海道アイヌは次のような特徴をもつ。以上に挙げた特徴は、北海道アイヌ、樺太アイヌ、千島アイヌにもほぼ共通して認められるが、樺太アイヌは北海道アイヌに比べてやや顔高が大きく、千島アイヌはやや低身で短頭という傾向がある。頭毛の形状、体毛の発達、瞼の形態、指紋型や湿型耳垢の頻度などでは、ネグロイド、コーカソイド、オーストラロイドなどとの共通性が認められるが、様々な遺伝子の研究により、アイヌは遺伝的にこれらの人種とは隔たりが長く、非常に独立的な系統であることが分かってきている。形質的には古モンゴロイド(アイノイド)に属すとされ、また縄文人もアイノイドに属していたと考えられる。中世以降、日本人はアイヌを蝦夷、北海道を蝦夷地と称してきた。北方の民族からはクギなどと呼ばれてきた。朝廷の「蝦夷征伐」など、古代からの歴史に登場する「蝦夷」、あるいは「遠野物語」に登場する「山人(ヤマヒト)」をアイヌと捉える向きもあり、アイヌを東北地方以北の全土に住んでいた原日本人の一つとする説もある。これまで起源論や日本人との関連については考古学・比較解剖人類学・文化人類学・医学・言語学などからアプローチされてきたが、近年DNA解析が進み、縄文人や琉球民族、日本人と近縁であることが判明し、コーカソイド由来のDNAは全く検出されていない。ただし、明治以来、アイヌは他のモンゴロイドに比べて、彫りが深い、体毛が濃い、四肢が発達しているなどの身体的特徴を根拠として、人種論的な観点からコーカソイドに近いという説が広く行き渡っていた時期があった。20世紀のアイヌ語研究者の代表とも言える金田一京助も、この説の影響を少なからず受けてアイヌ論を展開した。近年の遺伝子調査では、アイヌとDNA的にもっとも近いのは琉球民族で、次いで大和民族であり、大和民族とアイヌ人の共通性は約30%程である。他の30人類集団のデータとあわせて比較しても、日本人(アイヌ、琉球民族、大和民族)の特異性が示された。これは、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成、おそらく縄文人の系統を日本列島人が濃淡はあるものの受け継いできたことを示している。アイヌ集団にはニヴフなど大和民族以外の集団との遺伝子交流も認められ、これら複数の交流がアイヌ集団の遺伝的特異性をもたらしたとされる。アイヌ人の父系系譜を示すY染色体ハプログループの構成比については、日本列島固有のハプログループD1bが87.5%(うちD1b*が13/16=81.25%、D1b1aが1/6=6.25%)と大半を占める。ハプログループD1bは日本列島以外ではほぼ確認されず、縄文人特有の系統であったと考えられている。これは琉球民族で50%弱、大和民族で30%ほどであるため、アイヌ人は現代日本人の中では縄文人の遺伝子を最も色濃く引き継いでいると言える。他に北方シベリアから樺太を経て南下してきたと考えられるC2が2/16=12.5%と報告されている。母系系譜を示すミトコンドリアDNAを用いた系統解析により、北海道の縄文・続縄文時代人の系統の頻度分布は、本土日本人を含む現代東アジア人集団における頻度分布と大きく異なっている。また坂上田村麻呂侵攻以前の東北地方古墳時代人に北海道縄文・続縄文人に多くみられる遺伝子型が観察され、東北地方縄文人についても北海道縄文・続縄文人と同様の母系を持つ可能性が指摘され、東北地方縄文時代人と北海道縄文時代人DNAと比較した結果、ハプログループN9bおよびM7aが北日本の縄文人のミトコンドリアDNAの遺伝子型の中心とされた。北海道縄文人集団にはN9b、D10、G1b、M7aの4種類のハプログループが観察されている。このうちN9bの頻度分布は64.8%と極めて高いのが特徴であるが、N9bはアムール川下流域の先住民の中に高頻度で保持されている。D10も、アムール川下流域の先住民ウリチにみられ、主に北東アジアに見られるハプログループGのサブグループG1bはカムチャッカ半島先住民に高頻度でみられるが、現代日本人での報告例はない。近年の研究で、オホーツク人がアイヌ民族と共通性があるとの研究結果も出ている。樺太(サハリン)起源とされるオホーツク文化は5世紀ごろ北海道に南下したが10世紀ごろ姿を消している。。2009年、北海道のオホーツク文化遺跡で発見された人骨が、現在では樺太北部やシベリアのアムール川河口一帯に住むニヴフに最も近く、またアムール川下流域に住むウリチ、さらに現在カムチャツカ半島に暮らすイテリメン族、コリャーク人とも祖先を共有することがDNA調査でわかった。また、オホーツク人のなかに縄文系には無いがアイヌが持つ遺伝子のタイプであるハプログループY遺伝子が確認され、アイヌとオホーツク人との遺伝的共通性も判明した。アイヌ民族は縄文人や大和民族にはないハプログループY遺伝子を20%の比率で持っていることが過去の調査で判明していたが、これまで関連が不明だった。天野哲也北海道大学教授(考古学)は「アイヌは縄文人の単純な子孫ではなく、複雑な過程を経て誕生したことが明らかになった」とコメントした。増田隆一北大准教授は「オホーツク人と、同時代の続縄文人ないし擦文人が通婚関係にあり、オホーツク人の遺伝子がそこからアイヌ民族に受け継がれたのでは」と推測した。この北大研究グループは、アイヌ民族の成り立ちに続縄文人・擦文人と、オホーツク人の両者がかかわったと考えられると述べた。人類学的には日本列島の縄文人と近く、北海道にあった擦文文化を基礎に、オホーツク文化と本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。本州では農耕文化が始まるが、北海道では狩猟採集の文化が継続し、7世紀には擦文文化が始まる。擦文文化やオホーツク文化はアイヌ文化に影響を与えている。13~14世紀になると、農耕も開始され、海を渡った大和民族との交易も行われた。またアイヌからオロッコと呼ばれたウィルタともアイヌは交易していた。1457年には大和民族アイヌ間でコシャマインの戦いが生じ、勝利した蠣崎氏が台頭した。蠣崎氏を祖先とした松前藩はアイヌとの交易を独占し、アイヌから乾燥鮭・ニシン・獣皮・鷹の羽(矢羽の原料)・海草や清からアイヌに伝わった衣服(蝦夷錦)などを輸入し、鉄製品・漆器・米・木綿などで支払っていたが、1669年のシャクシャインの戦い後には、交易はアイヌにとって不利な条件となった。江戸幕府はロシアからの軍事圧力に対抗して蝦夷地を幕府直轄地とした。明治2年(1869年)、蝦夷地は北海道と改称され、同時に開拓が本格的に開始される。屯田兵や一般の農民が次々と入植し、大和民族人口が増加した。アイヌ人は「平民」として戸籍制度の中に組み入れられるが、「土人」とも呼ばれ、宗教儀礼や入墨、耳環などアイヌ伝統の文化は「陋習」とみなされた。同時に「旧土人学校」(アイヌ学校)が各地に設立され、教育は日本語で行われた。地租改正により大和民族に土地の所有権を奪われて移住を余儀なくされ、アイヌの伝統な生業である狩猟、漁撈も制限される過程で、生活も困窮の道をたどる。政府は勧農政策を実施し、北海道旧土人保護法では土地の無償下付や農具の給付など優遇制度を実施したが、既に和人がいい土地(この土地ももともとはアイヌのもの)を取得してしまったあとで与えられた土地は農地に適していなかったり、十分農業指導が行われなかったりで、アイヌの人々の生活改善には効果がなかった。アイヌの宗教は汎神論に分類されるもので、動植物、生活道具、自然現象、疫病などにそれぞれ「ラマッ」と呼ばれる魂が宿っていると考えた。この信仰に基づく儀礼として、「神が肉と毛皮を携えて人間界に現れた姿」とされる熊を集落で大切に飼育し、土産物を受け取った(殺した)上でその魂を持つ(カムイ)を天界に送り返す儀式イオマンテがある。祭壇はヌサとよばれ、ヒグマの頭骨が祀られた。千島列島に住むアイヌ人はロシア正教会の神父コウンチェウスキーによって、1747年最初に正教に改宗する者が出た。北千島には聖堂が建てられ、ロシア人宣教師は狩猟民族であったアイヌと一緒の生活を送り、季節毎に島々を移動した。1800年代には、北千島の千島アイヌ160人全てが正教徒になっていた。その後、北千島は日本の領土になり、北千島の住民は色丹島に移住させらた。色丹島のアイヌに対して最初日蓮宗僧侶が改宗を試みたが失敗した。その後、政府に雇われたロシア正教会の神父が色丹島を訪れ、色丹島のアイヌ人はこれを歓迎し、手厚くもてなした。また、アイヌの父として知られる聖公会の宣教師ジョン・バチェラーは自身の遺稿の中で、アイヌが和人との混血が急速に進んでいることや、アイヌの子供が和人と同様に教育を受け、法の下に日本人となっていることから「一つの民族として、アイヌ民族は存在しなくなった」と記述している。アイヌの伝統的な家屋はチセとよばれる、茅葺の掘立柱建物である。家の周囲にはプー(高床式倉庫)、アシンル(便所)、ヘペレセッ(熊飼育用の檻)などが設けられ、数家族が寄り集まってコタン(集落)を営んでいた。アイヌの集落にはチセの他に、チャシと呼ばれる壕や崖などで囲まれる空間が造営されることも多かった。造営の目的は未解明な部分が多いが、防御用の砦であったという説などがあり、これまでに北海道内で500箇所以上のチャシ跡が見つかっている。アイヌの伝統衣装はアミプと呼ばれ、特にオヒョウやシナノキの樹皮から取った繊維で織った生地で仕立てた衣装をアットゥシと呼ぶ。仕立ては和服に似ているが、筒袖で衽(おくみ)が無い。装飾として、木綿の生地をアップリケし、さらに刺繍を施すが、模様は北海道各地に系統だったものが存在する。道南地方、特に噴火湾沿岸地方では長方形に裁断した綿布をアップリケして刺繍した「ルウンペ」。日高地方では紺地の綿布に白い綿布をアップリケして、曲線を多用した模様を描いた「カパリアミプ」がある。また、綿布の流通が乏しかった石狩川の上流部や十勝地方では、生地に直に刺繍することで模様を描いた「チヂリ」が存在する。さらに繊維用の森林資源にも乏しかった千島列島では、鳥の皮で作られた外套「チカプウル」がある。江戸時代中期以降は、和人との交易で入手した小袖や陣羽織が、儀礼用の衣装として着用された。アイヌは伝統的に文字を使用せず、生活の知恵や歴史はすべて口承で伝承された。口承文芸としてはウエペケレ(散文の昔話)やユーカラ(叙事詩)がある。明治時代、アイヌ出身の知里幸恵がローマ字表記のユーカラと日本語訳を併記して紹介した『アイヌ神謡集』を出版したほか、金田一京助が長大なユーカラ研究を発表している。現在、保存運動によって若手の語り手が育成されている。祭事や祝宴などで演じられた伝統的な踊りで、「ウポポ(歌)」に合わせた「リムセ(輪舞)」がよく知られている。地域によって曲目や舞い方は異なる。1984年に国の重要無形民俗文化財に指定され、2009年にユネスコの無形文化遺産に登録。また、アイヌ刀を用いた剣の舞もある。アイヌの言語であるアイヌ語は、北海道、樺太、千島列島に分布していたが、現在ではアイヌの移住に伴い日本の他の地方(主に首都圏)にも拡散している。しかし母語話者は極めて少なくなっており、ユネスコによって2009年2月に「極めて深刻」(critically endangered) な消滅の危機にあると分類された、危機に瀕する言語である。危険な状況にある日本の8言語のうち唯一最悪の「極めて深刻」に分類された。系統的には「孤立した言語」とされており、縄文時代の言語をそのまま残しているという説もある。北海道はもとより、東北地方北部にもアイヌ語地名が多数残っていることから、かつては分布域が東北北部まで広がっていたと考えられている。アイヌの伝統的な分布地は、北海道、樺太、千島列島、カムチャツカ、東北地方北部である。なお、北海道、千島列島に残る地名の多くは、アイヌ語の地名に当て字をしたものである。1756年に弘前藩勘定奉行であった乳井貢が、津軽半島で漁業に従事していたアイヌに対し同化政策を実施。以後、本州からアイヌ文化が急速に失われる。1875年の樺太千島交換条約後、物資の補給と防衛上の理由から、千島のアイヌはそのほとんどが当地を領有した日本政府によって色丹島へ移住させられた。1945年にソビエト連邦が日本に参戦し、南樺太と千島列島を占拠、現地に居住していたアイヌは残留の意志を示したものを除き本国である日本に送還された。江戸時代のアイヌの人口は、記録上最大26800人であったが、天領とされて以降は感染症の流行などもあって減少した。1897年のロシア国勢調査によればアイヌ語を母語とする1,446人がロシア領に居住していた。現在、国勢調査ではアイヌ人の項目はなく、国家機関での実態調査は行われていないに等しい。そのため、アイヌ人の正確な数は不明である。2006年の北海道庁の調査によると、北海道内のアイヌ民族は23,782人となっており、支庁(現在の振興局)別にみた場合、胆振・日高支庁に多い。なお、この調査における北海道庁による「アイヌ」の定義は、「アイヌの血を受け継いでいると思われる」人か、または「婚姻・養子縁組等によりそれらの方と同一の生計を営んでいる」人というように定義している。また、相手がアイヌであることを否定している場合は調査の対象とはしていない。1971年調査で道内に77,000人という調査結果もある。日本全国に住むアイヌは総計20万人に上るという調査もある。北海道外に在住するアイヌも多い。1988年の調査では東京在住アイヌ人口が2,700人と推計された。1989年の東京在住ウタリ実態調査報告書では、東京周辺だけでも北海道在住アイヌの1割を超えると推測されており、首都圏在住のアイヌは1万人を超えるとされる。また、日本・ロシア国内以外にも、ポーランドには千島アイヌの末裔がいると1992年に報道されたが、アレウト族の末裔ではないかとの指摘もある。一方、アイヌ研究の第一人者で写真や蝋管など膨大な研究資料を残したポーランドの人類学者ブロニスワフ・ピウスツキがアイヌ女性チュフサンマと結婚して生まれた子供たちの末裔はみな日本にいるとしている。北海道においては、アイヌ居留地などは存在しないが、平取町二風谷等をはじめとする「全道各地」に多数が居住するほか、白老や阿寒湖温泉では観光名所としてアイヌコタン(コタンは集落を意味する)が存在する。平成18年の北海道の調査によれば、かつて差別を受けたことがあるかという問いに、はい、と答えた人が16.8%、そのほかに別の誰かが受けたことを知っていると答えた人が、19.8%であった。このうち、直近7年間に自分が差別を受けたという人は2%程度であり、平成25年の調査でも同様である。また、平成23年の北海道外での調査においても、同様に数%にとどまっている。明治以降は大和民族との通婚が増え、両親がともにアイヌであるアイヌは減少しているが、大和民族との通婚が増えている理由として西浦宏巳は1980年代前半に二風谷のアイヌ調査で、和人によるアイヌ差別があまりにも激しいため、和人と結婚することによって子孫のアイヌの血を薄めようと考えるアイヌが非常に多いと指摘している。アイヌと和人の両方の血を引く人々の中にも、著名なエカシ(長老)の一人である浦川治造のように、アイヌ文化の保存と発展に尽力する者は少なくない。また、浦河町のエカシである細川一人は、和人の両親から生まれたが幼少時に父親と死別し14歳の時に母親がアイヌの男性と再婚したためにアイヌ文化を身につけたという。長い間、和人による差別や蔑視をうけた事により、アイヌであることを肯定的に捉える人は少なく、大和民族への同化とともに出自を隠す傾向が強かった。しかし、近年は自らがアイヌであることを肯定的にとらえる傾向も、徐々にみられるようになってきた。北海道以外に住むアイヌ民族の活動も盛んになってきており、世界中の先住民族との交流も行われている。1950年代のアメリカ合衆国で先住民族の権利主張が取り上げられるようになり、日本でも権利回復運動が行われた。1997年、アイヌ文化振興法施行によって北海道旧土人保護法は廃止された。しかし、このアイヌ文化振興法ではアイヌを先住民族と認定されなかった。またアイヌ文化振興法によるアイヌ民族共有財産の返還手続きに対してアイヌ民族共有財産裁判が行われたが、2006年に最高裁で原告敗訴が確定した。2007年9月13日に国連総会で採択された先住民族の権利に関する国際連合宣言を踏まえて、2008年6月6日、アイヌを先住民族として認めるよう政府に促す国会決議が衆参両院とも全会一致で可決された。北海道アイヌ協会が北海道の区域外に居住するアイヌ認定事業をアイヌ政策関係省庁連絡会議申合せに基づき実施している。その際には、家系図や戸籍謄本、除籍謄本等を判断資料としている。2008年5月12日に鈴木宗男が国会に提出した「先住民族の定義及びアイヌ民族の先住民族としての権利確立に向けた政府の取り組みに関する第3回質問主意書」に対し、5月20日の政府答弁書で「アイヌの人々は、いわゆる和人との関係において、日本列島北部周辺、取り分け北海道に先住していたことは歴史的事実であり、また、独自の言語及び宗教を有し、文化の独自性を保持していること等から、少数民族であると認識している。」と答弁している(ただし「先住民族」との認識ではない)。6月6日には、衆参両院の全会一致で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」がなされた(ただし、「求める決議」で「認める決議」ではない)。2014年8月に東区選出の札幌市議会議員で自由民主党所属の金子快之がTwitterで「アイヌ民族なんて、いまはもういないんですよね。せいぜいアイヌ系日本人が良いところですが、利権を行使しまくっているこの不合理。納税者に説明できません」とアイヌ民族は今は存在しないと受け止められる書き込みを行っていたことが判明、アイヌの団体などから批判され、自民党の市議会会派から除名された後、同9月に市議会からは議員辞職勧告決議をうけた。金子議員は、北海道アイヌ協会がアイヌ民族の認定を独占的に行っていることに対し「アイヌ民族であることを法的に証明する手段が現状存在しない」とし、「アイヌ民族であることを『証明』している北海道アイヌ協会が「アイヌの血を受け継いでいる『と思われる』人」という曖昧な基準で認定しており出自がアイヌでなくとも養子や婚姻といった手段で認定してもらえればアイヌとしての優遇措置を受けられる、北海道アイヌ協会自体に数々の『不正行為』が存在しているなどを市役所の決算から市議会で告発した。アイヌの文化や歴史自体を否定するものではないとし、アイヌに様々な苦労があったことを認めつつも、利権の問題には今後も取り組んでいくと述べた。しかし一方で除名処分に際し『アイヌ民族は先住民族』とした国会決議の内容は認めない」との趣旨の発言があったとされ、また発言も撤回していない。その後の金子は辞職を拒否して保守系無所属の市議となり、札幌市のアイヌ政策に関する「官製談合」が存在したとして市議会で追及した後、2015年の札幌市議選では東区選挙区から再選を目指したものの、落選した。ただし官製談合そのものは実際に何度も行われている事が判明している。札幌市役所は市民へ謝罪した。。2007年、先住民族の植民地支配を正す権利の回復のため謝罪と賠償を含めた署名が行われている。以下が呼びかけ人である。金時鐘 (詩 人)佐高信 (週刊金曜日編集委員)辛淑玉 (人材育成コンサルタント)田中優子 (週刊金曜日編集委員)中山千夏 (作 家)朴慶南 (エッセイスト)針生一郎 (丸木美術館館長)藤崎良三 (全労協 議長)丸山未来子 (おんな組事務局)
出典:wikipedia
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