大須演芸場(おおす えんげいじょう)は、愛知県名古屋市中区大須にある寄席・劇場。大須観音のすぐそばにある。中京圏で唯一の寄席として知られる。落語や色物などを毎日上演する常設の寄席である。木造の2階建てで1階は椅子、2階は座敷席となっている。座席数は2014年までは1階:約150席、2階:約80席の計250席だったが、2015年の再オープン後は1階:131席、2階:48席の計179席に減少した。ビートたけしや明石家さんまらがまだ売れない駆け出し時代に出演している。客が少ないことでも有名で、客が1人しかいない中で上演されることもあった。常に経営難で、大須演芸場の苦境を知って、古今亭志ん朝が独演会を開いて応援するなど、救いの手をさしのべる人たちによって閉鎖の危機を乗り越えたことでも知られる。戦後の名古屋でほぼ唯一の常打ちの寄席だった。名古屋に限らず中京地区唯一の寄席で、落語・漫才・手品などの演芸や、年2回のロック歌舞伎スーパー一座による公演が行われ、大須大道町人祭の会場としても使われていた。2015年9月22日一般社団法人としてリニューアル開場し、毎月1日〜10日の上席のみ寄席を開催残りの11日〜末日は貸席として演芸に関する催し物、非公開の企業セミナーなどとしても利用が可能。現在は大入り袋が出るなど順調に継続中。前身は大正期から同地とその南側までの1区画にあった映画と演劇の中規模劇場だった港座。戦後の1947年に再開されてからはストリップ劇場になり、1957年からの日本映画を上映する大須劇場を経て、最後はストリップ劇場の「港ミユウジック」となっていた。ストリップの合間にはコントが上演されていた。この港座時代にショーやコントの台本を書くスタッフとして住み込みで働いていた中には後に脚本家となる山田信夫がいた。1963年に港座が閉館して建物の半分は取り壊され、残った楽屋部分を改築し、1965年10月1日に落語とコントと漫才を上演する寄席として、樋口君子を席亭に大須演芸場がオープンした。ストリップ小屋の経営者の夫が死んだことがきっかけの衣替えだった。戦前の名古屋には多数の演芸場があったが空襲によって焼失し、戦後は納屋橋の富士劇場が1年ほど営業していた程度で、約20年ぶりに出現した名古屋の常打ち寄席だった。開館当初は、三遊亭圓生、柳家小さん、三笑亭夢楽、横山やすし・西川きよし、コント55号、チャンバラトリオなど著名な落語家や人気芸人が出演。開場当初は、31日には演芸余一会という落語会を開催していた。1966年7月21日からはレギュラーの中継録画番組『東西お笑い大須寄席』の放送が名古屋テレビでスタート。1967年1月からは『東西デラックス寄席』の番組名となり、1968年8月から司会が東京二・京太から内海カッパ・今宮エビスに交代。日曜日の午後に放送されていた。開場して数年は毎月大入り袋がでる大盛況ぶりで、これに刺激されて大須が開場した翌年の1966年には中村区に中村演芸場が、今池には今池演芸ホールが開場したが、中村は半年で、今池は約20日間で閉鎖した。1967年1月には地元の資産家が近くに新たに定員234名のシネラマ演芸場を開設したことから、危機感を抱いた樋口は芸人を拘束して出演機会を増やしシネラマへ出演できなくしようと新たな演芸場を開設した。1967年3月1日に名古屋市中川区の尾頭橋に誕生した尾頭演芸場がその姉妹館である。しかし立地条件の悪さから定員140名の尾頭は集客がうまくいかず、常打ちをやめて同年6月から全指定席の日曜寄席にし、最終的には9月で閉館になった。シネラマ演芸場を6月限りで閉鎖に追い込むことには成功したが、尾頭演芸場の失敗で赤字を抱え、大須演芸場の資金繰りにまで窮するようになった。そして大須演芸場は再び名古屋唯一の常打ちの寄席になった。樋口君子の後を継いで1973年11月1日より席亭となったのが、以後40年以上にわたって席亭を務めた名古屋市中区出身の足立秀夫である。足立は大阪の不動産業で財産を築き、生来の寄席好きから芸能プロダクションも経営していた人物。樋口から依頼で不動産会社と芸能プロダクションを閉め、運営資金として1億円を用意し、名古屋へ戻って経営を引き継いだ。大須演芸場の地権者は大須観音で、営業権を取得した足立は建物も購入しようとしたが、前の経営者による税金滞納のため国や県・市による差し押さえや金融業者からの差し押さえ付いていたことが判明したために購入は断念して、建物は賃貸で運営していくことにした。足立が席亭になった当初は運営資金の1億円があったことから、東西の人気芸人を呼んで繁昌していたが、その出演料は高く、また大勢のスタッフを雇っていたためにその人件費の負担が大きかった。放漫経営、丼勘定で赤字の興行が続き、資金難に陥ると従業員もどんどん辞めていき2、3名となった。ギャラの高い有名芸人も呼ぶことが出来なくなり、ギャラの安い芸人や新人芸人しか呼べなくなって、客席には閑古鳥が鳴くようになった。この時代には、後に有名になった芸人が若手時代に出演しており、漫才コンビのB&Bが1972年にここで初舞台を踏んだ。ツービートはこの大須演芸場からの出演依頼がきっかけとなって誕生した。当初はビートきよしが他の相方とコンビを組んで出演する予定だったが立ち消えとなり、急遽誘ったのがビートたけしである。ビートたけしは下積み時代に大須演芸場で経験した思い出話を語ることがある。(詳細はツービートの該当記事を参照)。楽屋化粧前の台の裏側には1975年に書かれたであろう明石家さんまの落書き(サイン)があり、そこには「今日も客なし 明日は?」と書かれている。なお、当時のツービートのギャラは2人合わせて1日4千円、明石家さんまのギャラは1日1000円であったという。この他にも泉ピン子、笑福亭鶴瓶らが新人時代に出演した。足立が経営を引き継いだ2年後の1975年についに資金が底をつき、以後は入質して運営資金を捻出していた。1978年頃にはその質草もなくなって金融業者から借金するようになった。1978年6月には借金2千万円で経営難が報じられた。翌月には事実上倒産したとされて、大須商店街の商店主らを中心に新会社を設立して、名古屋演芸場として再発足することで話がまとまりかけたが、最終的には流れた。打開策として芸人のギャラを削減するため、1978年8月1日より売り上げに応じてギャラを配分する割り興行のスタイルをとった。対外的には席亭の足立が資金繰りのため行方知れずで不在とし、芸人たちによる自主興行という形で危機をアピールしてマスコミの注目を集めたが、実際には席亭の足立が裏で全てを仕切っていた。表向きに興行主として表に出ていたのは吉本新喜劇出身のコメディアン奥津由三で、奥津のつてで藤田まことやディック・ミネが自主興行時代に友情出演した。その後、1979年頃からの漫才ブームで一息つくも1981年後半から再び客足が落ち、1983年8月から芸人の自主興行の形の割り興行から元の寄席経営のスタイルに戻した。その後も経営難の連続で、1985年には3年間の家賃滞納で最初の強制執行を受けた。このときは話し合いで9月1日より未払いの家賃を毎日1万円払うことで合意して営業を継続。『中日新聞』で強制執行による閉鎖危機を大きく報じられ、強制執行にはマスコミが殺到。これが逆に宣伝となって、1986年の冬まで漫才ブーム以来の大入りが続き、そのおかげで借金を返済できた。同年には東海テレビが支援に乗り出し、2月26日から寄席を中継録画した『名古屋爆笑寄席 大須演芸場」を毎月最終火曜日の深夜0時30分から1時にレギュラーで放送した。1987年から再び1日の来客数が10名未満という閑古鳥状態に戻り、1990年代には東西の大物の好意の出演で窮状を救われた。1990年からの10年間、3日連続で古今亭志ん朝は格安の出演料で独演会を引き受け、ミヤコ蝶々も1993年からの3年間をノーギャラで出演した。特に志ん朝の独演会は東京では行われないため、立ち見が出るほどの盛況で、東京在住の作家の小林信彦やエッセイストの中野翠はわざわざこのためだけに泊まりがけで名古屋に滞在するほどであった漫才コンビの正司敏江・玲児も、1985年3月と1991年の2度にわたって大須演芸場を助けようと連日出演。志ん朝や蝶々と並んで足立が苦境を救ってくれた恩人と呼ぶ存在である。正司敏江は、2014年1月の閉鎖を知ったときも、大阪での舞台をキャンセルして、大須演芸場に駆けつけ10日間の正月興行に参加した。2000年になり建物の所有者の負債を処理するため演芸場の建物は競売にかけられ、舞台美術を手掛ける地元企業が所有権を落札。新たな建物所有者とは月額30万円の賃貸契約で営業が続いた。平日の客入りは10人程度前後で、売上は1万円から2万円。芸人の出演料の3万円を支払うと赤字で、その穴埋めのために専属芸人の営業斡旋(「出張演芸」と称す)や席亭自らの講演料等によって、興行収入の減少を補っていた。建物の所有者は地権者に土地代を払いながら、大須演芸場の家賃滞納に悩まされ続け、2011年には30万円の賃貸料を20万円に値下げしたが、芸人への支払いを優先して賃貸料は支払われず滞納は改善されなかった。大家側は貸し小屋事業では収益を確保できていながら未払いを続けているとみて強制執行の申し立てをし、2014年2月3日に建物明け渡しの強制執行がなされ、営業が終了した。席亭の足立は以後も同演芸場の住居部分に居住していたが、2月25日に近隣のマンションに引っ越したため、3月3日に正式に所有者に建物が引き渡された。営業終了翌日の2月4日に高須克弥が席亭の足立に対する営業支援を表明するが、所有者側はそれを断り、5月始めまでに建物の現状確認を行った上で耐震等の補強工事を行い、新たな席亭を立てて「年内に新生演芸場の第2幕が開けられる状態にこぎ着けたい」との意向を示し、新たな席亭による営業再開に意欲を見せた。改修工事にあてる寄付金が集まらず工事は予定より長引いたものの、2015年6月には新しい席亭に建物所有者の妻である土井恵が就き、最高顧問に初代林家三平の妻・海老名香葉子を迎えて、同年9月22日に再オープンすると発表した。2015年9月には「一般社団法人 大須演芸場」を設立。従来の席亭制度を廃し、社団法人理事による合議制により演芸場を運営する。海老名香葉子は引き続き最高顧問に留まる。落語、曲独楽、ものまねなどの演芸を中心に、休日には演歌も上演。毎月ごとに出演者・演目が入れ替えられ、出演者は月中でも交替することがあった。1 - 10日を上席、11 - 20日を中席、21 - 30日を下席とし、原則として10日間同じ番組だが、出演者の都合(病欠、営業、テレビラジオなど他の仕事など)によって変更する場合があった。開演は平日が12時から2回公演、土日祝日は11時から3回公演。いずれも出演者は同じで、入れ替え無しの出入り自由。客入り具合で途中打ち切りもあり。3回公演の場合、3回目に全員が出ない場合がある(2回半公演)。一組の持ち時間はおよそ20分で、6組2時間が一公演の標準。1 - 2か月に1度くらいの割で不定期で18時開演の夜席が行われていた。2008年までは7月にはスーパー一座の『大須オペラ』を、12月には『大須師走歌舞伎』を上演していた。毎年9月には落語芸術協会による『芸協まつり』が実施されて、浅草演芸ホールや新宿末広亭、また、テレビでおなじみのメンバーが出演していた。この他、本公演以外に各種イベント会場として使用されることもあった。2006年の4、5月には、今池の大衆演劇専門劇場(今池アカデミー劇場)閉鎖に伴い、貸し小屋となり大衆演劇が上演された。落語、漫才、講談、色物をメインとしている。定席寄席は毎月1 - 10日で、毎月ごとの出演者・演目入れ替えは2014年2月以前を踏襲している。出演者は定席寄席期間中でも交替することがある。番組編成は11時および14時30分開演の2回公演が基本であるが、寄席期間中の金曜日のみ夜席(18時開演)が行われるため、3回公演となる。出演者は一日同じ。一組の持ち時間はおよそ20分、6組2時間が一公演の標準。これも2014年2月以前と同様である。以前と比べ、東京・大阪からの落語家・芸人が招聘されることが多くなっているが、名古屋を拠点とする落語家・芸人も引き続き出演するなど、東西の枠にこだわらない編成となっている。毎月11 - 末日と定席寄席期間中の18時 - 21時30分までは貸席としており、独演会や演劇、舞踊、コンサートにも開放される。大須演芸場専属の落語家ならびに色物芸人が主に出演。東京や上方からも客演があった。かつて、大須演芸場を拠点としていた落語家・芸人も含む。いずれも、2015年11月現在。当日券。特別興行の場合などには変更あり。1980年12月から半年で5,000円、1年で9,000円(学生割引、老人優待券あり)の定期券が存在したが、2年ほどで廃止になった。
出典:wikipedia
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