アルベール・フランソワ・セベール・ゴールデンベール(Albert François Cévert Goldenberg, 1944年2月25日 - 1973年10月6日)は、フランス人の元F1ドライバー。フランスでは「フランスのジェームズ・ディーン」と呼ばれている。パリで産まれた。7、8歳の頃、父親のももの上で運転を覚える。その頃に姉のジャクリーヌが紹介したジャン=ピエール・ベルトワーズ(後に姉と結婚、F3/F2チャンピオン)に会ったのをきっかけにモーターレーシングに興味を持つ。16歳の時、母親のベスパを使った友達との競争をはじめた。モータースポーツのキャリアの最初であった。クラシック・ピアニストとしての訓練を受けていたが、カートに興味を抱いて1964年にモンレリーのレーシング・スクールに入学。父親はレーサーを目指すことに反対だったがセベールは夢を追い求めた。父はセベールを勘当したが、その後のサーキットでの実力をみて和解した。兵役を終えた後、最初のシーズンはルノーエンジンを搭載するアルピーヌでF3に参戦したが、マシンをセットアップする経験不足とカーメンテナンスの資金不足などからうまくいかなかった。1966年F3優勝者の賞金としてのヴォラン・シェル・レースに参戦。1968年シーズンにむけてスポンサーを探した後、アルピーヌからワークスドライバーとしてのF3参戦をオファーされたが、これを断りテクノカーへ移籍した。1968年にフランスF3でチャンピオンを獲得。1969年にテクノフォーミュラからF2にステップアップ。その当時F2はF1レーサーたちの理想的な練習環境でもあったため多くのF1参戦中の強者がF2クラスへも参加している中、1勝を挙げシリーズ3位の成績を残す。クリスタルパレスでのF2では、すでにF1でのトップランカーであったジャッキー・スチュワート(同1969年のF1ワールドチャンピオン)がセベールを前に苦戦していた。スチュワートはF2でのセベールでの走りを見て、F1でのチーム監督であるケン・ティレルにセベールの獲得を直訴した。1970年も彼はテクノF2に残留し、同時にマトラ・スポーツカーにも参戦していたが、F1に参戦するイギリスのティレルチームは序盤3戦のみで引退を決断しチームを去ったフランス人レーサー、ジョニー・セルボ=ギャバンの代わりとなるドライバーを探すことになった。そこでスチュワートの獲得を勧める言葉とチームの大スポンサーであるエルフ(フランスの石油会社)に対する懐柔策もあり、フランス人であるセベールがスチュワートのチームメイトとして第5戦オランダGPでF1デビューすると、以後ほとんどすべてのレースでスチュワートとのギャップを縮めていった。第10戦イタリアGPで早くも6位入賞を果たす。ケン・ティレルは後にフランス人であるセベールの獲得について「みんなはelf(がフランスだから)というけど、本当にジャッキーが彼について(セベールを獲ろうと)言ったことだ」と語った。1971年、ティレルがシャシーをマーチから自社製に完全に移行した。セベールはフランスGP(7位スタート)、ドイツGP2位(両方とも1位はスチュワートでティレルチーム1-2フィニッシュ獲得)とファステストラップ、イタリアGP3位表彰台を経て、ワトキンズグレンでの最終戦アメリカGPでF1初優勝を遂げた。このグランプリでは5位でスタートした後、スチュワートのタイヤの温度が100度にまで上がったのでセベールはスチュワートをリードした。半分終わった時点ではジャッキー・イクスと競り合うことになり、43周目にイクスはファステストラップを記録し差は2.2秒まで縮まるが、49周目にイクスはギアボックスに穴が開きオイルがコース上に漏れコースアウト、そのオイルにデニス・ハルムのマクラーレンが乗ってしまいガードレールにぶつかりフロントサスペンションを曲げてしまった。29秒リードでトップを行くセベールはゴールに近づくと、ゴールで万歳をするために両手をハンドルから離しながらチェッカーフラッグを受けた。この勝利は1955年と1958年のモナコGPで優勝したモーリス・トランティニアン以来のフランス人によるF1優勝達成であった。米50,000ドルの優勝賞金を獲得した。しかしこれが最初で最後のF1での優勝となった。年間ではスチュアートとロニー・ピーターソンに次いでドライバーズランキング3位となり、ティレルチームのF1コンストラクターズチャンピオンに貢献した。1972年はやや勢いを欠いた。セベールはフランスGPで4位、ベルギーGPとアメリカGPで2位と表彰台に立ったが、ポイント(6位以内)をこの3回しかとれなかった。ル・マン24時間レースではマトラ・シムカ・MS670を操り2位を獲得する。1973年、ティレルチームは復調し、セベールは優勝こそないものの、スチュワートの背後の位置で表彰台を獲得するレースを常に見せるようになり、2位表彰台は6度を数えた。そのうちの3度は1位スチュワートとの1-2フィニッシュであった。スチュワートはセベールがとても従順なチームメートであることをよく知っていた。チームメートの影に隠れていたが、それはセベールの意に沿うものではなかった。スチュワートはシーズン15戦中13戦目となるイタリアGPの終了時点で、3度目のドライバーズチャンピオン獲得を決めた。スチュワートはF1の安全対策の推進に尽力したいこと、及び愛弟子セベールの成長により、自身のF1参戦100戦目となるシーズン最終戦アメリカGPを最後に現役引退することを決めていた。そして、ティレルF1チームのNo1ドライバーをセベールに譲る予定であった。その決断は妻ヘレンにさえ言っておらず、シーズン前にケン・ティレルとエンジンを供給しているフォードの責任者、ウォルター・ヘイズにだけ打ち明けていた(後にスチュワートはアメリカGP前にこの決定をセベールに言わなかったことを後悔していると語っている)。ケン・ティレルはエースとなるセベールをサポートするNo.2ドライバーに据えるつもりでジョディー・シェクターと翌年の契約をしたが、上記の事情を全く知らなかったセベールにとってシェクターの移籍加入はショックを受けるものであり、他のトップチームからのオファーを受け移籍も考えていた。そのシェクターは前戦であるカナダGPでセベールを巻き込んでリタイアし一悶着となった。シェクターは同年クラッシュが多くレーサーライセンスの剥奪も検討されたほど運転が荒いドライバーとされており(フランスGPにてエマーソン・フィッティパルディを巻き込みクラッシュ、イギリスGPにて後続8台を巻き込むスピンを喫しF1史上初の赤旗レース中断の原因となり第10-14戦まで休養を命じられ、復帰戦・カナダGPでセベールとクラッシュ)、セベールはシェクターのドライビングを「そこに戦争があるかのように荒い」と批判し遺恨を残していた。また、その接触でセベールは足首を負傷しアメリカGP欠場も考えられたが、「自分はプロ」という思いで出場を強行していた。カナダGPでのシェクターとのクラッシュにより、ずっと使っていたシャシーであるティレル・006が壊れたため、アメリカGPでは彼のために(ケン・ティレルにとっては翌年のリーダーのために)作られた新しい006/3を使うことになった。006はヨッヘン・リントが事故死した際乗っていた車種であるロータス・72に似ていた。そのため、005から006/3に至るまでのシャシー内部にあるフロントブレーキもロータス72同様問題を抱えていた。これはロータスとティレルのマシンには「インボード・ブレーキ」という構造を採用していたからである。他のコンストラクターが新しい規則に合わせるための車を作っている間、ティレルは1973年の4月にその規則に合わせた車を作った。インボード・ブレーキは一番熱くなる部分(ブレーキローターとブレーキパッド)が車体の中(通常はホイール内部)にあるが、ティレルのスポーツカーノーズと呼ばれるフロントのウイングの構造では、内部にあるブレーキの一番発熱する部分のクーリングに必要なだけの十分な空気が入らなかった。実際、スチュワートが乗っていた005は南アメリカGPのプラクティスでブレーキラインの故障で大事故を起こしている。ワトキンズグレンで行なわれるシーズン最終戦アメリカGPでは、セベールがトップ、スチュワートが次を走り、チームリーダーのバトンを渡すことを象徴的に見せることをティレルは提案していた。予選の土曜日、セベールは予選が午前11時から始まるにもかかわらず、8時にモーニングコールで起き、10時半過ぎにようやくピットに到着した。ティレルは「少なくとも遅刻をするようなドライバーは成長しない」と叱った。セベールはシャシーの準備を手伝った後、ポールポジションをピーターソンと争っていた。予選終了間際に4位のタイムを記録し、ピットでティレルはセベールに「もう出なくてもいい」と伝えたが、セベールが残り時間を聞いてきたので「4分」と答えた。セベールは「ひとっ走りしてポールをいただいてくる」と言い、またマシンに戻り最後の1周に向かった。片手でハンドル、もう片手でバイザーを下しながら、スチュワート夫人・ヘレンに投げキッスをした。これがピットの人間が最後に見たセベールの姿である(結果として上記の言葉が最後の言葉となった)。その直後の11時54分、直角の第1コーナーとバックストレートの間にある高速S字セクション「エセス」に入る際、シェクターが背後から迫っていた。タイムアタックに出ていたセベールは、そこにある縁石による揺れのためセベールのマシンは左寄りにドリフトしすぎた。エセスはアップヒルでガードレールがコース脇直近に設置されているため、オーバースピード(時速240km)でアウト側ガードレールに接触。この時点でフロントのスポーツカー・ノーズが弾け飛んだ。マシンはコントロールを失ってスピンし、マシンは鋭角に向きを変えるとトラックの右側にある反対側のガードレールにフロント部分から突っ込んだ。ガードレールの支柱に激突したため車体は横転。さらにこの「支柱」が破壊された事により二枚あるガードレールの上段がめくれ上がる形となり、宙を舞ったマシンはその真上に落下。セベールはマシンごと股から顎の下まで、真っ二つに引き裂かれ即死した。。「死も契約に含まれている」と自身が生前話していた通りになってしまった。事故現場にドライバーとして最初にたどり着いたのはセベールの後ろを走っていたシェクターであった。彼は係員が制止するのを振り切って現場を見た途端、あまりの惨状にその場に立ちつくしボロボロ涙をこぼし、事故車のコックピットをのぞいた際セベールのヘルメットから下がなかったように見えたという。スチュワートは『残骸の中を見たが、彼の姿を判別するのはヘルメットぐらいしかなかった。まるで屠殺場(とさつじょう)のようで…』と発言し、後にこう語った「彼は(車の中に)残された。明らかに死んだからだ」。その他のピットに戻ってきたドライバーたちは、一様に顔面蒼白になってマシンを降りた。スチュワートは事故現場をすぐに後にしてピットに戻った。事故原因調査の為、ピットへと回収されたマシンの中を見たティレルのメカニックによると、内部にセベールの体の一部が残っていたので彼らが拾い集めたという。シェクターをチームメイトに迎え、自身がエースドライバーとなることを予定された、まさに順風満帆の中での悲劇だった。スチュワートは最終戦でのこの愛弟子の姿に心を痛め、日曜日の決勝をキャンセルし即時引退した。その後何回も復帰の話があったが、本人の「セベールに対する思いのため」テストドライバーとしてドライビングしたのみにとどまった。シェクターはこの事故以来、安全を第一と考える姿勢に変わったという。1973年10月11日にSt Germainに埋葬された(パーヴォ・ヌルミも同じ日に埋められた)。現在は母の故郷であるメーヌ=エ=ロワール県ソミュール村近くの村にあるVaudelnay墓地に両親とともに埋葬されている。墓石は立派な黒い大理石で設えられ、肖像のブラックレリーフが背面に彫られている。プラクティスが終わった後、スチュワートは事故原因を調べるためこのコースを回った。スチュワートはエセスを5速ギアを使うことが多かった。それにより、レブレンジのローエンドになったからである。しかし、セベールはその区間を4速ギアで使うことが多かったため、エンジンパワーレンジのトップエンドになった。その状態はそのコーナーを通過する間、加速する必要に迫られていることが多かったのではないか、という結論である。ティレル006は短いホイールベースのため、ワトキンスグレンのこの区間でいつも飛び上がるように感じるとスチュワートはティレルに注意し、これがタイムに影響するとしてもトップギアで運転することにより飛び上がりを少なくする必要があると感じた。このように、セベールの攻撃的なドライビングテクニックはこの事故に影響を与えた。その他、下記の事情も遠因と考えられる。父親シャルル・ゴールデンベール("Charles Goldenberg":1901–1985年)は富裕な宝石商で(1930年代にその職業になった)、1905年ロシア第一革命におけるユダヤ人迫害(ポグロム)から逃れるため少年のころフランスに連れて来られたロシア系ユダヤ人の亡命者であった。第二次世界大戦中フランスがナチスに支配されている間ユダヤ人狩りがおこなわれていた。シャルルはフランス・レジスタンス運動に参加した。登録されていたユダヤ人として当局からマークされポーランドへ強制追放されないよう、家族は母親ユゲット・セベール("Huguette Cévert" :?-2001)の姓(セベール)で登録した。そうすることで、自身の財産はもちろんのこと家族の命を守った。フランスが解放された数年後、セベールの父親は自分の姓(ゴールデンベール)に改名を望んだが家族は反対し実現しなかった。祖父はカルティエ創設に関わっていた。セベールと姉ジャクリーヌの他、もう一人の兄弟はパリで宝石商を営んでいるという。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。