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都営バス杉並支所

都営バス杉並支所(とえいバスすぎなみししょ)は、東京都杉並区梅里に位置する都営バスの営業所(支所)の一つ。正式名称は東京都交通局小滝橋自動車営業所杉並支所で、営業所記号はDを用いる。2003年4月1日付けで業務全般の管理をはとバスへ委託したため、組織としては廃止されたことになっているが、現在も広大な敷地面積を持つことから各社が運行する高速バスの待避所に使用されるなど、利用者への案内上でも都営バスの支所として存続している。管轄路線は比較的長距離のものが多く、また営業所から離れたエリアを走る路線も受け持っている。このため路線は杉並区・渋谷区・新宿区・中野区・練馬区・板橋区・北区・世田谷区・港区・品川区・千代田区の11区にまたがっており、宿91系統が大森駅・大森操車所前まで運行されていた時には、目黒区・大田区まで、都03系統や初代・宿75乙系統の所管時には中央区や保谷市(現・西東京市)まで赴いていた。かつては所管路線が多く集まる新宿を中心に、西側は荻窪駅を経て東伏見、東は銀座を経て晴海埠頭方面へ至る路線を受け持っていた。特に晴海埠頭方面は、新宿から都市新バス(都03系統)として運行していた。しかし、都03は長距離のために道路渋滞による遅延が後を絶たないことから地下鉄利用者が増えていき、都市新バスにも関わらず営業係数が120 - 130ほどの路線だった。さらには晴海見本市会場が東京ビッグサイトに移転したことによる利用者の減少が進んだことで、2000年12月12日の都営地下鉄大江戸線全線開業時に、新宿駅西口 - 四谷駅前間が廃止された上に深川営業所へ移管され、早稲田営業所管下の支所に降格した。杉並営業所時代は管轄下に青梅支所を置いていたが、改正により杉並・青梅は早稲田の管轄下に変わっている。2003年(平成15年)のはとバス委託当時の杉並は、京王との相互乗り入れ系統である渋66系統を新宿支所に移管し、王78と宿91の2系統のみとなったうえ山手線内の路線の担当がなくなり、所属車両数も青梅支所よりも少なくなった。しかしその後2005年(平成17年)以降には品川営業所と新宿支所から品97系統の移管を受け、再び都心部や山手線内の路線を担当することとなり、渋66系統が新宿から復帰、新江62系統が練馬から移管されるなど、営業エリアは再び拡がりを見せている。2009年4月1日には、杉並の上部の営業所が早稲田から小滝橋営業所に変わっている。バスの事業所としての前身は同じ杉並区の堀ノ内にあった堀ノ内自動車営業所になる。1963年(昭和38年)、都電唯一の狭軌線だった14系統(新宿駅前 - 荻窪駅前)が廃止された。青梅街道に面した杉並電車営業所の敷地は遊休地となり、手狭になりつつあった堀ノ内営業所はより広く取り回しやすい電車車庫跡地へ移転することになる。1966年11月30日、堀ノ内営業所は杉並電車営業所跡地に移転、杉並自動車営業所と名前を改めた。現在につながる営業所がここに開設された。この頃の杉並営業所は、荻窪以東の青梅街道を軸に新宿や都心を結ぶ路線を多数運行していた。そのうちの1つが304系統であり、1968年の都電撤去で新設された511系統を担当する基礎となる。両系統は1970年統合、現在の都03系統へとつながっていく。ただ、青梅街道には都電14系統の代替となる地下鉄丸ノ内線が開通しており、交通局は杉並営業所の新たな方向性を練らなければならなくなっていた。折から環七通りの整備が進んでいたことから、交通局では高円寺陸橋に近い場所に立地する杉並営業所を核に、山手線西側の環七通り全域へと路線を伸ばすという目論見をし、堀ノ内移転直前の1966年、66系統(現在の王78系統:新宿駅西口 - 王子駅線。一時的に志村営業所へ移管)が開業する。翌1967年には、5系統(後の宿73→宿91系統)を延長して高円寺以南の環七通りを縦走する138系統(後の宿91系統)を東京急行電鉄(現・東急バス)と相互乗り入れで、新宿駅西口 - 若林駅前 - 大森駅山王口 - 大森操車所も開業した。また、高円寺陸橋から大原陸橋の間では既存の130系統や131系統(現在の渋66系統)などもあり、共管相手の関東バス、京王帝都電鉄(現・京王バス東)、東京急行電鉄(現:東急バス)まで巻き込んだ激しい乗客獲得合戦に発展した。1972年には66系統とほぼ似たルートで国際興業バス(現在の赤31系統:高円寺駅 - 赤羽駅。関東バスと共管)も参戦してきた。しかし、大原陸橋を中心とした環七通りの渋滞が日に日に悪化し、定時運行の確保が難しくなっていくと、路線の廃止や共管先の撤退が相次ぐようになる。1977年の再編は杉並営業所でも行われるようになり、東75系統を新宿駅で運行を打ち切ったほか、中77系統は中野駅で分断。中野駅から北側が関東バスの運行となったほか、高79系統は不採算を理由に全線廃止された。1979年の再編ではさらに追い討ちを書けるように、東75の系統番号変更による(旧)宿75系統が廃止されたほか、南阿佐ヶ谷駅より西側の路線が全て廃止されたことで事実上撤退となった。さらに、1982年には中77系統が廃止されたほか、1984年には宿91系統が野沢銀座まで短縮の上、野沢銀座から南側が東急バス単独による運行となった。その一方で、志村営業所へ移管されていた王78系統は、1982年の志村営業所閉鎖によって杉並営業所へ再移管された。(旧)宿75系統が廃止になった後も、銀71系統は山手線を東西に貫く幹線として需要があり、1988年、都営バス3番目の都市新バス路線に選ばれて都03系統と姿を変えた。しかし、東京ビッグサイトの完成により東京国際見本市会場が閉鎖され、乗客が激減。道路の渋滞で日比谷以西は地下鉄への流出が止まらなくなり、2000年(平成12年)の都営地下鉄大江戸線開業時に行われた再編で四谷駅までに短縮され、深川営業所へ移管された(後述)。2003年4月1日より、都営バスでは初となる「はとバスへの民間委託」が開始された。これによって勤務していた都営バス職員は全員が早稲田・渋谷・小滝橋・青梅などへ異動となり、車両についても品川・渋谷・目黒・葛西との間で交換させた。なお、支所化後の車庫敷地内はジェイアールバス関東・福島交通・富士急行・山梨交通・神姫バスなどの高速バスの待機場ともなっている。渋谷駅西口から発車する唯一の都営バス路線。1972年の系統番号変更により131系統から渋66系統となった。都営と東急の相互乗り入れ系統だった東98系統が東急バスの単独運行となった現在では、都営バスと民営バスとの相互乗り入れ系統はこの系統と小滝橋営業所のC・H01系統(以上京王バス東と共同)、臨海支所の新小20系統(パートナーは京成タウンバス)の3系統のみとなった。山手通り、甲州街道から環七通り・青梅街道を経由して阿佐ヶ谷駅へ向かう中距離路線。途中の幡ヶ谷駅まで京王バス東の幡代線、初台交差点まで同じく京王バス東の初台線、渋谷初台線と併走する。なお、2002年(平成14年)までは東急バス淡島営業所の初台線も並走していたが、1997年(平成9年)の民間バス運賃値上げを東急が予定通り行ったことから乗客離れを招き、撤退に追い込まれた。JR中央線と京王線に囲まれた杉並区和田・堀ノ内・方南・和泉から渋谷まで直通出来る地域輸送を担うと共に、帝京短期大学、富士見丘学園、専修大学附属高校、佼成学園、光塩女子学院などへの通学輸送の役割が非常に重い。しかし、1990年代末には一時的に利用客が減少したことから京王が路線撤退を仄めかし、文化放送の報道系生ワイド番組『梶原しげるの本気でDONDON』でも取り上げられるなど社会問題化した。これを受け杉並区内の沿線住民が渋66系統の利用を促進したところ、縮小を免れて都営:京王=2:1での運行となる。その後、京王は2003年からバス部門の経営効率化を進めるとともに都内の路線網を積極的に拡充する方針に転じる。2003年4月のはとバス委託時に渋66系統だけは委託を免れ新宿支所へ移管されたが、同時に都営と京王の本数比率が逆転して京王便のほうが多くなる。その後、交通局の方針変更で渋66系統も2006年4月よりはとバス委託となり、新宿支所から杉並支所に再移管、同時に新宿は分駐所に格下げされた。渋谷駅 - 富ヶ谷では、井ノ頭通りの渋谷センター街付近が西武百貨店 - 放送センター西口への一方通行のため、渋谷方面は富ヶ谷 → 神山 → 東急百貨店本店を経由している。祭典のため、富ヶ谷 → 東急百貨店本店間が通行止めとなることが数回ある。その際、富ヶ谷 → 渋谷駅間は渋谷区役所経由で迂回運行する。一部は杉並車庫発着があるが、夜には和田堀橋発着も運転される。また方南八幡通り・方南町発着は京王の出入便のため都営は担当しない。2013年に大泉学園駅に乗り入れていた新江62系統が廃止されたことにより、当系統が乗り入れる杉並区役所前が、都区内を走行する都営バスの最西限となった。なお、この路線は同じく京王バス東との共同運行を行っているC・H01系統と異なり、都バス一日乗車券、都営まるごときっぷ、東京フリーきっぷ、都営交通無料乗車券は都営便のみ、京王バス東発行のIC都区内一日乗車券は京王便のみの取り扱いとなる。もともとは、1950年に開通した新井薬師駅 - 大久保駅 - 市ヶ谷駅 - 東京駅丸の内北口という路線だった。1969年(昭和44年)に新井薬師と江古田二丁目の間を延長するが、1971年(昭和46年)の都電第6次撤去と同時の路線再編成の際、関東バスと西武バスが撤退して都営単独となり、都営側は山手線内のみの大久保駅 - 東京駅丸の内北口間の運行に変わる。1986年、起点を高田馬場駅に変更される。1990年7月に九段下 - 東京駅丸の内北口間を廃止し、高71系統となった。。2008年4月1日、。2014年4月1日には本系統もはとバスに委託されることとなり、杉並支所に移管。このうちの市ヶ谷駅 - 九段下間は1980年3月15日に秋72系統(後述)が廃止されて以来、杉並支所担当のバス路線が34年ぶりに復活した形となった。途中の都立障害者センター前停留所は、2016年3月14日付で「早大理工前」に改称された。これは渋谷営業所戸山支所(現・早稲田営業所)の跡地にあった都立障害者福祉センターが飯田橋に移転したことによるものである。出入庫は高田馬場駅 -(早稲田通り)- 高田馬場二丁目 -(明治通り)- 新宿七丁目交差点 -(職安通り)- 淀橋交差点 -(青梅街道)- 杉並車庫の経路で回送される。環七通りの整備に伴い、1966年4月に誕生した路線。当初は堀ノ内営業所が担当し、1972年(昭和47年)7月に一度志村営業所へ移管されていたが、1982年3月の志村営業所廃止により杉並営業所へ復帰して、以来練馬営業所→練馬支所との共管時代があったもののはとバス委託に伴い解消、その間も含めると30年以上に渡り所管を続けている。新宿駅から高円寺陸橋まで青梅街道を走り、その先から北区神谷町まで延々と環七通りを、さらに右折して王子駅まで北本通りを走行する長距離路線で、全長は18km以上にも及ぶ。志村営業所の閉鎖後では都営バスで唯一板橋区を走行する。かつては早朝などを除いて所要時間が多く掛かることもあったが、はとバス委託化後は、減便されたものの大雪などが無い限りはほほ定時運行が保たれるようになった。高円寺駅入口(関東・国際は「高円寺中学校」) - 東十条四丁目間において、関東バス・国際興業バスの赤31系統と重複するため、両社との区間指定共通定期券を取り扱っている。この区間の時刻調整などは行われていないようで、時刻が重複して会社が違うバスが高円寺駅入口(または反対方向)から連なって走ることがある。また、大場通り・八幡前・野方消防署の各停留所は通過する。現在、折返便は王子方面が志村営業所担当時代の名残りの朝の大和町着発1本のみ。新宿駅方面は杉並車庫行きが多く、王子駅方面に車庫がないため南行きの最終は22時台まである。また、志村営業所の廃止に伴う杉並営業所への移管時に、中央公園経由であったものを、宿91系統や当時存在した宿62系統と同じ東京医大病院前経由(青梅街道)へ変更されている。杉並支所の所管路線で唯一、所管変更が行われていない(2013年現在)路線で、新宿駅から青梅街道を西へ走り、高円寺陸橋から環七通り経由で新代田駅まで向かう。東急バスとの共同運行として大森駅(大森操車場)まで運行していたが、1984年に野沢銀座で分断と同時に大森地区から撤退した。その後、1993年に駒沢陸橋まで延長され、僅かながら大森発着時代の一部区間が復活したこととなった。その後、2013年4月1日のダイヤ改正で駒沢陸橋 - 新代田駅間が廃止(短縮)された。宿91は、環七の開通後、東京急行電鉄(現・東急バス)が運行していた大森操車場 - 駒沢公園間の系統と、都営の5系統をつないで相互乗入れを行うこととなり、1967年(昭和42年)6月25日、138系統・新宿駅西口 - 大森駅 - 大森操車場間として運行開始、東急では環七線と呼称した。後系統番号整理で宿91系統となる。しかし、環七通りと青梅街道の渋滞が激しく、定時運行が困難だったことに加え、東急電鉄が担当拠点の駒沢営業所を廃止することにしたため、第3次再建計画に伴う追加の路線再編成を兼ねて、東急駒沢営業所閉鎖を目前に控えた1984年(昭和59年)2月16日付けで路線を分割。都営は新宿駅西口 - 野沢銀座(宿91)、東急は新代田駅 - 大森操車場間の環七線・森91系統とした。この分断に際し、通常は両社の運行エリアの境界付近である新代田駅で分割されるが、宿91系統では野沢付近から新宿方面への直通需要が残っていたため、都営側が引き続き東急エリアに乗り入れる形態で残され、同時に折返し場所である新代田駅前の都営・代田操車場を東急が使用し、逆に都営が東急野沢折返所を使用することで施設使用料が発生しないように調整された。なおこの際、東急は環七線を駒沢営業所から大橋営業所に移管した。その後、1990年に新代田駅折返しの宿73系統を統合したため新代田駅以遠に乗り入れるのは全運行回数の3分の1程度に減るように見えた。さらに1993年(平成5年)に宿91系統は駒沢陸橋まで延長され、僅かながら大森発着時代の一部区間が復活する。これは、野沢銀座発着時の折返しに使用していた東急バス野沢折返所が廃止されたため、折り返し地点を駒沢陸橋下のUターンレーンに変更したことによるものである。なお、この駒沢陸橋停留所は都営バスの延長に合わせて新設され、陸橋側を走行する東急の森91系統は停留所の設置箇所(側道上)の影響もあって停車せず、降車専用停留所には「大森行きは止まりません」と表示されている。同時に以前より駒沢陸橋まで回送して折り返していた小田急バス(現・小田急シティバス)の下61系統も、駒沢陸橋まで営業区間を延長している。宿91系統の堀ノ内停留所は、かつて堀ノ内自動車営業所が存在した場所であり、そのときの名残である堀ノ内発着便のために折返所がある。現在も早朝・深夜に堀ノ内発着が運転されている。堀ノ内と杉並車庫の間は、回送運転している。杉並車庫発着の出入便は新宿駅西口発着が多いが、一部は新代田駅発着(かつては駒沢陸橋発着)も少数ながら運転されている。他に新宿駅西口から別の系統となる便も、この系統で入出庫している。2013年4月1日の改編で需要の激減した新代田駅 - 駒沢陸橋間を廃止し、宿91系統が発足する前の5系統と同じ新宿駅西口 - 新代田駅間に短縮。しかし、系統番号が5系統の直接の後身である宿73に戻ることはなかった。また、同日の改編で港南支所担当の東98系統も東急バスの単独運行に変更されたため、世田谷区を走る都営バスはわずかな区間となった。さらに、世田谷区内の守山小学校停留所が、学校の廃校に伴い2016年(平成28年)4月1日付で代田六丁目(旧守山小学校)に改称された。品川駅前 - 四谷三丁目を結んでいた都電7系統の廃止に伴う代替バス路線507系統として品川管轄で運行を開始した。2000年12月の大江戸線全線開業時の再編までは四97系統として品川車庫 - 天現寺橋 - 四谷駅間を結んでいたが、この再編時に、都03系統の新宿駅西口 - 四谷駅間、および田70系統(新宿駅西口 - 田町駅東口 - 港区スポーツセンター)の全線が廃止されたため、これらの代替として四谷三丁目から西に進路を変え新宿通りを新宿三丁目・新宿追分へと向い、新宿駅西口に至るようルートを変更し、同時に品97系統となった。四97系統は品川営業所が単独で担当していたが、都営地下鉄大江戸線全線開業に伴う路線再編成に伴い新宿支所が主管として大半の便を担当する形での共管となった。2003年(平成15年)4月からは渋66系統が新宿支所に移管されたことに伴う負担軽減、および回送距離削減を背景に新宿支所の担当便が減少し、主管が品川営業所に戻された。その後2005年(平成17年)4月1日付ではとバス受託運行路線となり、全便杉並支所に移管された。このため、夜間には品川駅から国道15号 - 山手通り(大崎駅・中目黒駅・初台)を経由して杉並車庫までの回送が行われており、営業路線とはまったく関係のないエリアで同所の車両を見ることができる。さらに2008年4月1日付けで港南支所がはとバスに委託され、杉並支所と港南支所による共管系統となった。はとバス同士による共同運行路線は、この品97系統が初である。また港南支所(および品川ナンバーの都営バス)が新宿駅西口に乗り入れる唯一の系統である。杉並担当分の品97系統の一部ダイヤでは、食休を新宿支所でとる例がある。この場合の新宿駅西口 - 新宿車庫前間は中央公園経由で回送運用となる。1951年(昭和26年)8月28日に304折返系統として開通した路線である。第2次再建計画に伴う追加の路線再編成により、1979年(昭和54年)11月22日限りで廃止されたが、築地市場の書き入れ時である年末を目前に控えた廃止が問題になったためか、同年12月24日から1980年(昭和55年)1月18日まで一乗車200円(当時の一般系統は一乗車110円)で臨時運行された。1968年(昭和43年)2月25日の都電第2次撤去に合わせ、11系統の代替の511系統として開業後、1972年(昭和47年)の新系統番号化で銀71系統、1988年の都市新バス化で都03系統を名乗るまで一貫して担当していた。なお11系統は新宿電車営業所、その後大久保電車営業所が担当していたが、当時の堀ノ内営業所では終戦直後から新宿 - 月島間で並行、300系統と有楽町駅 - 清水操車所間がまったく同一ルートで晴海埠頭行という「304系統」を持っていた。511系統の設定で304系統は減便され、1970年(昭和45年)3月27日の都電第5次撤去と同時に511系統に統合、廃止となった。第2次再建計画に伴う路線再編成では、新宿駅西口までに短縮された東75系統の代替として、銀71系統が増便された(後述)。都市新バス最盛期の1990年代前半には、数寄屋橋 - 勝どき二丁目間は都04・都05の両系統とともに頻繁運転していた。しかし、1996年に晴海見本市会場が有明の東京ビッグサイトにその役目を引き継いで閉鎖されると、一気に乗客の減少が始まる。2000年12月12日の都営地下鉄大江戸線開業による再編で新宿駅西口 - 四谷三丁目間を品97系統に譲り(四谷三丁目 - 四谷駅前間は廃止)、四谷駅以南に短縮して深川営業所へ移管された。2012年4月1日付ではとバス委託路線となり、現在は港南支所が担当している。原型は銀71→都03系統の折返便で、都05系統として開通してからは深川営業所が単独で担当していたが、1993年(平成5年)3月31日付けで杉並営業所が参入し共管となる。乗務員の交代は東京駅丸の内南口で実施し、乗務員は杉並車庫最寄りの新高円寺駅から丸ノ内線で移動していた。その後都03系統の短縮・移管に伴い深川営業所の単独に戻された。都営バスでは都区内最西部に当たる西武池袋線の大泉学園駅前を発着していた。1950年(昭和25年)に練馬営業所と西武バス練馬営業所の共同運行で開設され、1973年(昭和48年)に西武バスが撤退、都営単独となる。2009年(平成21年)4月1日付けではとバス管理委託路線となり、132系統→宿62系統時代から長く担当していた練馬支所から杉並支所へ移管された。練馬支所時代には見られた大型車の運行も、杉並支所移管後は品川営業所より転属してきた日野・レインボーRJによる運行がほとんどとなり、大型車の運行は練馬支所時代より減ったが、2012年に廃車後再び大型車での運転になった。杉並へ移管後も練馬支所時代のダイヤをなぞっており、はとバス委託であっても不採算路線であった。入庫便の練馬駅前停留所は、南口の他社の降車所の千川通り上にあり、これは廃止まで存続していた。杉並支所所属のはとバス乗務員の休憩は、練馬支所で行われていた。練馬車庫前発着便に関しては、朝に杉並車庫から回送で来た大泉学園駅前行きが練馬車庫前から営業を開始し練馬駅北口を経由せず、逆に練馬車庫前行きは練馬駅で北口バスターミナルへ入らずに南口(練馬駅前)に停車し、西武池袋線に並行し桜台駅前を経由して練馬車庫前へ向かった後、杉並車庫へ回送した。回送は王78系統と同じく環七通りをひた走っていたが杉並車庫と練馬車庫の間は営業しなかった。2013年(平成25年)4月1日付けの路線再編成で、西武バスが当路線と同一経路の新江線・練48系統を新設し40年ぶりに再参入する。都営側は出入庫運用を廃止、残った運用も大幅に減回(1日4往復とし、新江古田駅発着はその内1往復のみ)された。また「練馬区役所入口」「練馬駅前」の両停留所が廃止となった。その半年後、2013年9月30日限りで都営便は運行を終了。事実上の民間移譲の形で60年以上に渡った歴史の幕を下ろした。1970年3月の都電第5次撤去で廃止された12系統の代替バス、512系統として運転開始したものである。都営地下鉄新宿線の岩本町 - 新宿間開業に合わせ、1980年(昭和55年)3月15日限りで全線が廃止された。このうち市ヶ谷駅 - 九段下間は2014年(平成26年)4月に高71系統が小滝橋営業所から移管されたことにより、杉並支所担当のバス路線が34年ぶりに復活した形となった。戦前には新宿駅 - 代田橋間が開通しており、戦後に新宿追分へ延伸される。代田橋側も新代田駅まで延伸、1972年(昭和47年)11月の系統番号整理により宿73系統となるが、第2次再建計画に伴う路線再編成で新宿追分 - 新宿駅西口を短縮、1990年(平成2年)3月に系統番号を統合、宿91系統に一本化された。その後、2013年(平成25年)4月1日に宿91系統は駒沢陸橋 - 新代田駅間を廃止、これにより大森時代のルートが消滅し、宿73系統と同じルートとなった。現在運行中の宿91系統については前述している。※こちらがメインで、平日1日50便運転されていた。※こちらは、梅70、宿73、91、王78の各系統と被っていた為に便数は少なく、平日1日5便のみ運転されてきたものである。新宿通りから杉並営業所の前を走る青梅街道へとひたすら走る長距離路線、300系統として創始された。1970年までは清水操車所から日比谷まで同一ルートで数寄屋橋から晴海通りをまっすぐ進み、晴海埠頭に達する支線の304系統も存在した(前述)。なお荻窪駅以西は本来関東バスや西武バスのエリアだが、この路線は終始都営単独で運行され、地下鉄丸ノ内線の荻窪開業後も新宿以東から荻窪以遠への直通需要に支えられてきたが、第2次再建計画に伴う路線再編成により1977年(昭和52年)12月15日限りで東京駅 - 新宿駅間が廃止。初代・宿75(新宿駅西口 - 清水操車所 / 東伏見操車所)と系統番号を変えて運行を継続した。有楽町 - 新宿間は、並行路線の銀71系統が増便され代替となった(前述)。改定後も、清水操車所までは平日1日61便の運転が有ったが、東伏見操車所行は便数が非常に少なかった。ところが新宿打ち切りとしたことで乗客が一気に地下鉄や国鉄中央線へと流れてしまい、追加の路線再編成で廃止対象に挙がり1979年(昭和54年)11月22日限りで全線廃止となった。1957年、関東乗合自動車(現・関東バス)と相互乗り入れの130系統として運転開始。1972年中77系統と系統番号が整理される。交通局第2次再建計画に伴う路線再編成で中野駅北口(中野区役所前)を境に分断され、中野駅と江古田駅の間は経路を一部変更の上で関東バス単独の中41系統となった。この路線は既にあった中40系統:中野駅北口 - 江古田駅 - 茂呂郵便局前の支線と位置付けられたが、関東バスは当時乗客に配布したチラシの中で、中41系統が都営・関東バス共管の中77系統の代替系統であると記載している。これにより中77系統は、中野駅 - 新代田駅間を走る都営単独系統となった。しかし、短縮後の中77系統は都営バス全体でも有数の不採算路線に転落。第3次再建計画に伴う路線再編成で真っ先に廃止対象に挙げられ、1982年(昭和57年)12月25日限りで廃止となった。1957年(昭和32年)に9系統の名前で営業を開始。後に京王帝都電鉄(現・京王バス東)が新規参入して136系統になる。1971年(昭和46年)8月31日限りで京王が撤退。都営は高79と系統番号を改めてそのまま存続したが、交通局第2次再建計画に伴う路線再編成により1977年(昭和52年)12月15日限りで廃止、高円寺駅から都営バスが消滅した。しかし、2014年(平成26年)、佼成病院が杉並区和田へ移転する際に京王バス東の高円寺駅 - 佼成病院線として一部区間ながらも37年ぶりに復活を果たした。1960年(昭和35年)7月に開通した。全長71.576kmという、当時の都営バスでは最長の路線だった。3 - 11月休日の1往復のみ(新宿駅8:00発、奥多摩湖発18:00)の運行となっていた。国鉄青梅線の利便性が上がり、加えてモータリゼーションの進行とそれに伴う渋滞悪化で、1970年(昭和45年)11月の運行を最後に休止。正式には、翌1971年(昭和46年)3月31日限りで廃止された。青梅駅から御嶽駅にかけての都営バス路線は1990年(平成2年)7月に土曜・休日のみ運行の梅01系統が設定されたことにより19年ぶりに復活した。元は、1969年(昭和44年)に都営初の深夜バスとして営業を始めた4路線のうちの1つ、「深夜帰宅バス701系統」に行きつく。この系統は当時存在した300系統の変形として、西銀座(現・数寄屋橋)始発で平日の24時に出発するものだった。その後、オイルショックによる環境の変化やタクシー業界への影響を考慮、1974年に一度は廃止となる。それから15年以上を経て、バブル景気真っ只中の1990年(平成2年)6月18日に関東バスとの共同運行で復活。荻窪駅から先の関東バスエリアへも対象を拡大した。毎日2便が運行され、1カ月ごとに初便(24時30分発)と最終便(24時50分発)で都営・関東と担当を交代するという特異な形態を取った。車両は品川営業所から貸切車を調達のうえ転用されていた。なお関東バスは同じ青梅街道にある青梅街道営業所担当ではなく、三鷹駅から近い武蔵野営業所が担当している。2000年(平成12年)12月11日限りで都営が撤退、都営の専用車(D-W097号車。日野・セレガ)も関東バスに譲渡され、塗装を変えてそのまま使用された。以後は2便とも関東バス単独となり、現在に至る。指定車種:日野自動車音声合成:クラリオン→レゾナント・システムズ都営バス直営時代は日野・HIMRが数多く配置され、最盛期は16台も配置されていたが、委託に際しメンテナンスの事情から品川・葛西営業所(現・江戸川営業所)の非ハイブリッド車と交換させたほか、渋谷営業所と目黒支所(現・港南支所)にも転出している。HIMRの第1号車であるX516号車も当所に配置されていたが、前述の理由から品川営業所へと転出した。はとバス委託化後も最近まで全車両が指定メーカーの日野製で、交通局の新車導入が入札制となった後は日野が落札できないとその年度は新車の配属が無く、他所の日野・レインボーHRを転用して旧式車を置き換えていた。2009年度になって初めていすゞ・エルガ(T196号車)が配置され、2011年末には同じいすゞ・エルガのM202号車が渋谷からの転入によって配置された。その後、T196号車は2013年(平成25年)4月に練馬支所へと転出、M202号車も2012年(平成24年)4月に渋谷営業所へと戻された。2014年度から2015年度にかけていすゞ・エルガ(Z529~532・A595~601号車)が配置され、とくにA代車は都営バス初の杉並ナンバーとなった(後述)。2012年(平成24年)8月にはいすゞ・エルガのN317号車が早稲田営業所から、2015年(平成27年)12月にもM204号車が渋谷営業所から転入しているが、M204号車は2016(平成28年)年4月に早稲田営業所へと転出した。日野・ブルーリボンIIは2005年度にN319~321号車が配置されたが、後に早稲田、渋谷、北営業所へと転出、一旦配置がなくなった。これと入れ替わりに早稲田営業所から背立て式車椅子固定試験車両であるいすゞ・エルガのN317号車が転入した。2015年(平成27年)12月に渋谷営業所からM210号車が転入したことで再びブルーリボンIIが配置されることとなった(この車は2016年4月に早稲田営業所へと転出)。2016年(平成28年)1月にはさらに渋谷営業所からブルーリボンIIのM211~213号車が転入したほか、早稲田営業所からも三菱ふそう・エアロミディMKの中型ロング車であるK609・610・612号車が転入し、H代のレインボーHRを置き換えている。さらに日野・ブルーリボンシティハイブリッドが2016年(平成28年)3月から4月にかけて臨海支所(S145号車)と早稲田営業所(T261・262号車)から3台転入、杉並にとっては久しぶりのハイブリッド車となったほか、この転入によりはとバス委託の5支所すべて(港南・新宿・杉並・青戸・臨海)に同車種が配置されることとなった。入れ替わりにいすゞ・エルガ(M204号車)、日野・ブルーリボンII(M210号車)、三菱ふそう・エアロスター(V336号車)が1台ずつ早稲田営業所へと転出している。方向幕については、高71系統移管に先立ち幕で残るH代車のLED化がなされ、さらに日野・ブルーリボンのF460・461号車の除籍によりLED化率は100%となった。2014年(平成26年)11月17日以降、新車と他営業所からの転入車は杉並ナンバー(ご当地ナンバー)で登録されており、2015年に配置されたA代(いすゞ・エルガ)および転入車の日野・ブルーリボンIIとブルーリボンシティハイブリッド、三菱ふそう・エアロミディMKが杉並ナンバーとなっている。

出典:wikipedia

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