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平島公方

平島公方(ひらじまくぼう)、または阿波公方(あわくぼう)は、血統的には室町幕府11代将軍・足利義澄の次男足利義維(のちの義冬)の末裔で、家柄的には足利義視から義稙、そして義維と続く足利将軍家の別家である。代々阿波国平島古津に住した。なお、公方と称されるものの、この平島の系統で実際に将軍職に就任したのは第14代将軍足利義栄のみで、義栄以外の人物には将軍家一族という意味で使われる。平島源公または、平薹源公の敬称で呼ばれていた。明応の政変に加え、永正の錯乱まで勃発すると、足利氏の将軍職争いに細川氏の管領職争いまで絡んだため、畿内の戦乱は複雑化し、長引いた。足利義視の子である足利義稙と、足利政知の子である足利義澄の争いは、畿内の有力守護大名を巻き込み混迷を深めた。やがて将軍職が12代・足利義晴で一本化されようとも、細川氏では細川高国と細川晴元が、なおも管領職をかけて争い続けていた。その際、義晴将軍を名目上であろうと担ぎだした場合には、現職の管領(高国側)が官軍となり、他方(晴元側)が賊軍となってしまう。元将軍の義稙は大永3年(1523年)に阿波で死去していた。そこで、義稙の養子である足利義維が必要とされた。義維が義稙の子(養子)であるというその事実こそが、義晴将軍に対して厳然たる対立軸として有効に機能する権威であり、晴元側としては見逃せない大きな魅力であった。他方、その義維としても、晴元に荷担することが、あわよくば将軍への道が拓けよう、養父義稙の無念を晴らせるであろうという利害の一致があった。その後、大永7年(1527年)の桂川原の戦いで敗退した高国が、掌中の玉・義晴将軍を伴って近江国坂本へ逃亡したため、立場を逆転させた義維・晴元体制は、和泉国で新政権樹立の足掛かりを築くまでになる(堺公方)。挽回を期する管領・細川高国を摂津国にて撃破、自害にまで追い込んだ晴元であったが、この後は徐々に変心した。空位となった管領の座に転がり込んだばかりか、突如として義維を棄て、義晴将軍を推戴する側に回ったのである。しかも、新管領・晴元は自らの保身に余念無く、それまで晴元軍の中核であった最有力被官・三好氏の弱体化を図り、和泉国の顕本寺を敵対宗派の一向一揆に襲わせている。顕本寺を根拠地としていた三好氏の総帥・三好海雲入道は、義維を阿波国へ逃がし、自らは自害して果てた。こうして、堺公方は消滅した。将軍就任の夢を断たれた義維は、阿波平島で閉塞し、3千貫の所領を得る。義維の血統が一般的に「平島公方」と呼ばれる起源となった。元長の遺児・孫次郎長慶は長い歳月をかけて亡父以上に勢力を伸ばすと、終には晴元を追い落とし、幕府の相伴衆に上り詰めた。実質、幕政の中枢を握ったに等しい事態である。その間、平島公方の血統は三好氏の庇護を受け、いざと言う時の「切り札」として養われ続けていたとはいえ、将軍への道を拓かれずに過ごしていた。やがて、長慶の死去に伴い、三好氏では三好三人衆による指導体制に移行されたが、幕政からの三好氏排除を目論む13代将軍・足利義輝への対応に苦慮するようになる。困り果てた末に、永禄8年5月19日(1565年6月17日)には二条御所を襲撃、義輝将軍を弑逆するという暴挙に出た(永禄の変)。将軍に辞任を迫ることがあっても、命を奪うまでの行為は言うなれば「禁じ手」であったが、平島公方の存在が実行に踏み切らせた一大事件でもある。新将軍に迎えられるに当たって、堺公方消滅時には20歳余と若かった義維は病気のため除外され、その長子・義親(左馬頭に叙任され、義栄へ改名)が擁立された。ところが、三好三人衆が松永久秀との内部権力抗争に明け暮れ、義栄の将軍就任への働きを疎かにした。結局、将軍に就けたのは永禄11年2月8日(1568年3月16日)。前将軍・義輝襲撃から、2年半以上の歳月が流れている。しかもその間、義栄は入京さえ儘ならず、将軍宣下を受けても、なおも摂津国に留まり続けていた。患っていた腫れ物を悪化させていた事も影響した、との説もある。しかも、将軍就任に向けて無駄に歳月を浪費した事態は、新体制を固めきれない三好政権には好ましくない結果をもたらした。同年9月、前将軍・義輝の実弟である足利義昭を推戴する織田信長が上洛軍を発したのである。近江国の六角氏を退けて進軍する織田軍とは、「義栄を戴いての決戦」を選択肢に残していた三好氏ではあったが、結局は阿波国への退避を選択した(義栄の病没により断念した可能性もある)。その後も、織田氏への抵抗を幾度も示した三好氏ではあったが、戦局の悪化により畿内復権の道は閉ざされた。義栄が死去しても、弟の義助によって家名は存続された。だが、義昭政権の後ろ盾であった信長軍は三好氏(その没落後は長宗我部氏)が単体で退けるには力の差がありすぎた点に加え、独自の兵力がない公方家であり、義栄死後に例えば一宮成助に行動を妨害されるなどして、徐々に存在感を消していった。豊臣秀吉の天下になっても1万石という待遇を保てた足利義昭、江戸幕府の下で大名格の扱いを受けた喜連川氏(鎌倉公方家の後裔)、さらには讃岐国から探し出された上に熊本藩士として召抱えられた尾池義辰(義輝の遺児といわれる)のような人物の子の西山至之・尾池藤左衛門ですら1000石の扶持を受けていたという事態とは対照的に、織豊期はおろか徳川期における蜂須賀氏の客将時代でも、平島公方は冷遇されていた。その一方で、陪臣でありながら堂上家公家である水無瀬家や持明院家の娘や西洞院家の養女を妻に迎えた当主もおり、権威や血筋なら京都ではある程度は認められていた。しかし、実際の暮らし向きに権威や血筋が反映されておらず、阿波徳島藩主・蜂須賀氏からは客将として扱われたとはいえ、義維以来の3千貫の所領没収の上、茶湯料としてわずか100石しか受けられなかった。蜂須賀氏としては、領内にこのような権威を持つ特別な家が存在することは好ましくないが、領外に退去させることも踏み切れなかったためである。慶長13年(1608年)、足利義次は足利氏の家名を平島氏に改姓させられ平島又八郎と名乗らされ、公方家の藩に対しての取り次ぎ窓口を家老職から、一般寄合階級に振りかえるなどの一層の冷遇を受けた。そのような不遇下でも、歴代当主の中には漢籍などに長けた者(例えば、義宜)などが多く、一大文化サロンのようなものを形成していたこともあった。4代義次の代には旧領のうち七浦山が返還され、5代義景の代には現米100石の合力米が許され、やがて明和年中(1764年 - 1771年)には現米950石が給され1190石まで知行が加増したなど、ようやく待遇の改善も見られた。蜂須賀治昭の幼少の頃は友好関係を取り戻していた。だが、文化2年(1805年)、9代義根は病気療養を名目に阿波退去の許可を請うた。藩主・蜂須賀治昭は好学であったため義根の教養を惜しんで引き留めたが、義根の意志は変わらなかったため阿波退去を許可し、義根には餞別として銀300枚を、平島家代々の墓がある西光寺には墓守料50石を与えた。退去の真相は明らかではないが、義宜の頃より平島家が松平大和守や大奥を刺激した蜂須賀重喜追い落とし工作に対する蜂須賀家の平島家への意趣返し(栄典の剥奪など)に耐えかねたという説や、屋敷や領内の七浦山の上質の木材を未処分のまま、あわただしく退去していることから、義根の子・義寛を紀州藩に仕官させる内約があったため急いで退去したという説がある。しかし、急いで退去したと言うには疑問がある。というのは、退去を公方家が阿波藩に届けてからかなり経過しておること、それについて退去督促状を阿波藩が公方家側に出していること、退去費用捻出のために屋敷の施設を各所に売却するなどしていたこと、退去時の同行家臣は、公方が平島に居着く以前の者に限ることなどを阿波藩が布告し、その通りにさせていることなどが上げられる。また、義寛の仕官の伺いは、阿波退去後に出されていること、安政年間に、義俊が紀州藩家老宛に「知行地もしくは邸宅下賜の願い」を出していることなどが上げられる。徳島県史がこれらに触れていないのは、編纂時に平島側史料にそれほど拠っていないためだと言える。その後は母方実家の京に居を定め、姓を足利に戻したが、禄も無いので次第に窮迫したので家臣の数も減らしていき、紀州徳川家からの援助と等持院など足利氏ゆかりの寺院からの援助で細々と食いつないでいたという。紀州家は蜂須賀家にも援助することを求めたが、蜂須賀家は退去の経緯から断っている。その後、義寛は公家の桜井家に仕えたという。明治後、義俊は、足利将軍家の正当な末裔として華族として遇されるように運動を行ったが、多くの華族取り立て志願の家と同じように却下された。実収入の伴わない名門華族にはもともと反対の声が多く、受爵に失敗したのみか、阿波藩から離脱していたため士族にもなれず、洛西の下山田村(現在京都市西京区)にて帰農し、平民となった。平島公方家の系図は『系図纂要』にも登場する。平島公方館は享禄5年(1532年)に堺から阿波に逃れた義維が天文3年(1534年)に阿波国平島庄古津村(現在の阿南市那賀川町古津字居)の平島塁を修築して建てた館。平島公方9代義根が文化2年(1805年)阿波国を退去するまで約270年間、平島公方が代々居住した。現状は水田の区画にのみその縄張りの跡を留める。吉祥寺(きっしょうじ)は、平島公方の隠居所とされていた。西光寺は、平島公方の菩提寺。足利義冬が平島館に遷るまで逗留していたことがある。平島公方家に伝えられた中世・近世文書群である「阿波足利家文書」は、徳島県旧那賀川町で町史編纂にあたり調査が行われた。現在その一部は阿南市立阿波公方・民俗資料館(旧那賀川町立歴史民俗資料館)に寄託され、常設展示されている。

出典:wikipedia

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