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阿史那献

阿史那 献(あしな けん、ピンイン:Āshǐnà Xiàn)は、西突厥の可汗で、唐の軍人。阿史那元慶の子。如意元年(692年)、元慶は彼が謀反を謀ったという来俊臣の讒言にあって殺害され、その子の献は崖州へ流刑に処された。長安3年(703年)、献は呼び還されると、かさねて右驍衛大将軍を授かり、父の興昔亡可汗を襲名し、安撫招慰十姓大使に充てられた。献の本国(西突厥)では、次第に默啜と烏質勒の侵略を受けていたため、献は敢えて本国へ帰国しようとはしなかった。しばらくして、唐は献を磧西節度使に抜擢した。十姓部落(西突厥)の都擔(とたん)が反乱を起こすと、献はこれを攻撃して斬り、その首級を宮廷へ送った。さらに献は碎葉(スーヤーブ)以西の帳落三万を中国に内屬させたため、朝廷は璽書を下してこれを喜んだ。葛邏禄(カルルク),胡禄屋,鼠尼施の三姓はすでに中国に内屬していだが、これらが默啜の侵掠をうけたので、献を定遠道大総管とし、北庭都護の湯嘉恵らと前後応じてこれにあたらせた。ここにおいて突騎施(テュルギシュ)はこの辺境での争いを密かに利用したため、献は軍隊の増援を乞い、自身は入朝したいと願い出たが、玄宗は許さなかった。玄宗は詔で左武衛中郎将の王恵に節を持たせ、献を安んじいたわらせる一方で、突騎施都督で車鼻施啜の蘇禄を順国公にしようとした。しかしながら、突騎施はすでに撥換と大石城を包囲し、さらに四鎮を占領しようとしていた。ちょうど湯嘉恵が安西副大都護に拝せられ、すぐさま三姓葛邏禄(ウチュ・カルルク)の兵を献と共にこれを撃った。玄宗は王恵に詔し、これらと力を合わせて経略させようとしたが、宰相の宋璟と蘇頲が「突騎施が叛き、葛邏禄がそれを攻撃していますが、これは夷狄どもが自ら互いに滅ぼしあっているのであって、朝廷から出たことではありません。彼らのうちで強大な方が傷つき、弱小な方が滅びるならば、わが国にとって好都合であります。王恵が赴いて慰撫しようとしている時にあたって、軍隊によって干渉すべきではありません。」と言ったため、中止となった。献は結局、突騎施の娑葛が強気で他人の言に耳をかさず、これをおさえきれないので、中国に帰還した。開元中(713年 - 741年)、かさねて右金吾大将軍に遷ったが、長安で死去した。

出典:wikipedia

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