能登川昭和映画劇場(のとがわしょうわえいがげきじょう)は、かつて存在した日本の映画館である。正確な時期は不明であるが、昭和初年の1930年代には滋賀県神崎郡八幡村(現在の同県東近江市能登川地区)の能登川駅前に多目的娯楽施設湖東館(ことうかん)として開館した。第二次世界大戦が本格的になると建物は工場化されたが、戦後、1947年(昭和22年)には有志の手により映画館として復興、能登川劇場(のとがわげきじょう)と改称する。1953年(昭和28年)9月、八日市市の協楽興業に経営権が移り、能登川昭和映画劇場と改称する。1968年(昭和43年)前後には映画の常設上映は終了しているが、閉館したのは1991年(平成3年)である。能登川の歴史上、最初で最後の映画館であった。略称は能登川昭映(のとがわしょうえい)、通称昭映(しょうえい)。イラストレーター・グラフィックデザイナーの黒田征太郎の回想に登場する映画館としても知られる。正確な時期は不明であるが、昭和初年の1930年代には滋賀県神崎郡八幡村大字垣見(現在の同県東近江市垣見町26番地)の能登川駅前に、映画を含めた多目的の娯楽施設湖東館として開館している。能登川駅は、1889年(明治22年)7月1日、能登川村ではなく八幡村大字垣見と五峰村大字林(現在の東近江市林町)の境に開業しており、同館は同駅の東側、駅前といえる場所に位置した。東近江市能登川博物館によれば、1934年(昭和9年)に同館で行われた映画興行の際のチラシが現存しているという。常設館ではなかったため、同時代の映画年鑑等には同館についての記載はない。同館が位置した八幡村は、1942年(昭和17年)2月11日、近隣の能登川村等と合併して能登川町になる。同年5月3日には、同館で能登川町誕生を祝う祝賀上映会が開催された。第二次世界大戦が本格的になると、同館の客席等は撤去され、建物は栄養食株式会社の工場に転用された。戦後、1947年(昭和22年)には地元の有志により、映画館として復興した。能登川育ちの黒田征太郎(1939年 - )の回想によれば、この時期、松竹大船撮影所が製作し松竹が配給した、美空ひばり主演の映画『東京キッド』(監督斎藤寅次郎、1950年9月9日公開)が同館で公開されている。少年時代の黒田にとっては、同館での映画上映と駅前の加藤書店(垣見町781番地に現存)の少年雑誌が支えであったという。1951年(昭和26年)に発行された『映画年鑑 1951』には同館についての記載はなく、翌1951年(昭和26年)に発行された『映画年鑑 1952』以降には、能登川劇場として同館の情報が掲載されている。当時の同館の経営は能登川興業、支配人は寺井一雄であり、興行系統は日本映画各社の混映館であった。1953年(昭和28年)9月、八日市市(現在の東近江市八日市本町)で協楽興業に経営権が移り、能登川昭和映画劇場と改称している。協楽興業(代表・堀井昭典)は、1940年(昭和15年)に火災で焼失した八日市延命新地のバンザイ館を復興し、昭和映画劇場(八日市昭映)として設立した会社であり、翌1955年(昭和30年)には協楽映画劇場(八日市協映)を新設し、能登川昭映を含めて3館を経営した。当時の同館の支配人は堀井昭秀、観客定員数は400名、興行系統は日本映画・外国映画のいずれも上映する邦洋混映館であった。1968年(昭和43年)前後には、映画の常設上映の事業を終了し、事実上の休館に入る。同館の建物自体は1991年(平成3年)まで存続したあと、公式に閉館した。1996年(平成8年)には、協楽興業が経営した八日市の協映・昭映も閉館した。同館が名を冠した能登川町は2006年(平成18年)1月1日、東近江市に編入されている。同館の跡地の現況は、2013年(平成25年)1月現在は駐車場である。
出典:wikipedia
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