ゲオルク・フィリップ・テレマン(、(ゲオルク・フィーリプ・テーレマン)、1681年3月14日 - 1767年6月25日) は、ドイツの作曲家。テレマンは後期バロック音楽を代表するドイツの作曲家で、40歳以降は北ドイツのハンブルクで活躍した。18世紀前半のヨーロッパにおいては随一と言われる人気と名声を誇り、クラシック音楽史上もっとも多くの曲を作った作曲家として知られる。自身も オルガン、ハープシコード、リコーダー、リュートなど多くの楽器を演奏することができ、特にリコーダーについては高い技術を有する名人であった。同時代の作曲家であったゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルとはライプツィヒ大学時代からの友人で、頻繁に手紙のやり取りをしていたほか、ヨハン・ゼバスティアン・バッハとも親密な交友関係にあり、バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエルの名付け親にもなった。また、1750年にバッハが死去した時には、バッハの業績を最大限に称える追悼の言葉を送っている。彼の音楽様式には、20歳代~30歳代に触れたフランス・イタリア・ポーランドの民族音楽、特に舞曲からの影響があり、ドイツの様式も含めてそれらを使いこなし、ロココ趣味の作風も示した。彼は86歳と長生きだったため、晩年はハイドンの青年時代などと重なり、高齢でも創作意欲が衰えなかった。トリオソナタの編成で『ディヴェルティメント』と書かれた晩年の作品もあり、常に新しい音楽傾向の先頭に立ち続け、対位法を主体とする後期バロック様式からホモフォニーによる古典派様式への橋渡しをした作曲家であった。日本ではテレマンへの注目も高く、日本テレマン協会が1969年に発足(当時は大阪テレマン協会)して現在に至っている。テレマンは1681年、ドイツ東部マクデブルクの中流家庭に生まれ、ルター派 プロテスタントの洗礼を受けた。父ハインリヒ(1646-1685)は伝道師で、テレマンが4歳になる前に亡くなり、やはり先祖が牧師の家系であった母マリア(?-1710)に育てられた。テレマン家もバッハ家ほどではないが先祖に何人かの音楽家を出している。マクデブルクの小学校ではバイオリン・リコーダー・ツィターなどを演奏して級友と音楽に親しんだ。10歳で同地のギムナジウムに出席するようになり、カントルからドイツの詩や文学について高いベレルの指導を受けるようになった。ラテン語・ギリシャ語の成績がよかったが、音楽については短期間で長足な進歩があったので歌唱指導を任せられた。その間カントルが作曲しているスコアを後ろから見るのが楽しく、なぜか興奮したと自叙伝に述べている。やがてほとんど独学で楽譜の書き方を習得し、自分でも作曲を始めるようになり、12歳でオペラを作曲した。テレマンの母は息子が音楽の道へ進むことには反対であったが、テレマンは楽器を取り上げられたり音楽活動を禁じられたりしても隠れて作曲の勉強を続けた。およそ13歳の頃、彼は母の方針により、音楽から引き離す目的でに追いやられることになった。しかし、ここでは病気の教師に代わって作曲・指揮を行い、成功を収める。4年後、ヒルデスハイムに移ってギムナジウムで学んだ。ここでは校長が書いた劇のアリアを作曲して好評を得た。当時は1年生150人の生徒の中で3番の成績であったとテレマン本人は自慢している。在学中にヒルデスハイムからほど近いハノーファーとブラウンシュヴァイクにしばしば出かけ、劇音楽・教会音楽・イタリア音楽に触れた。1701年(20歳)になったテレマンは、母の意向に従って大学に通うことに決め、ライプツィヒに向かった。途中立ち寄ったハレで、すでに有名になっていた若いヘンデルと知り合い、後年ヘンデルがイギリスへ移住してからも彼らは互いに手紙で交流を続ける間柄になった。ライプツィヒ大学では法学を学ぶと同時に、学内では学生と市民からなる楽団コレギウム・ムジクムを統率した。1704年(23歳)、プロムニッツ伯爵の招きを受けて現ポーランド領ルブシュ県のゾーラウ(現ジャルイ)の宮廷楽長になると、伯爵が好むフランス風の作風を学ぶためにジャン・バティスト・リュリやアンドレ・カンプラの楽譜を研究して手法をマスターし、フランス風管弦楽組曲を2年間に200曲も作曲したことをテレマン本人は記録している。この宮廷では1年間の半分をポーランド・シュレージェン地方のプレッセで過ごしたので、この地やクラカウでポーランド音楽を、きっすいの野趣たっぷりの姿で味わうことができた。「注意深い人なら、彼らの音楽を一週間聞いたら、たっぷり一生役立つぐらいたくさんのヒントをくみとることができるだろう」とテレマンは書いている。しかし、やがて大北方戦争の影響で職を辞さねばならなくなった。1708年(27歳)、アイゼナハの宮廷から招かれて 「宮廷秘書」 の肩書をもらい、宮廷礼拝堂楽団を組織した。この時期、アイゼナハの出身でヴァイマルの宮廷オルガニストを務めていたバッハと知り合い、終生の親交を結ぶことになった。翌1709年、アマーリエ・ルイーゼ・ユリアーネと最初の結婚をしたが、1年あまりで娘を得たあと、すぐに妻を失っている。1712年(31歳)に自由都市フランクフルト・アム・マイン市の音楽監督、2つの教会(Barfüßerkirche-現パウロ教会、)の 「教会楽長」 に続けて就任した。また、アイゼナハから 「不在楽長」 の任命を受け、教会と宮廷のために必要な作品を書き送ることになった。1719年(38歳)、ポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグストが神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の娘マリア・ヨーゼファとドレスデンで結婚式を挙げ、延々と華麗な祝典が行われた。この時テレマンは同地を訪れ、ヴェネツィアから来ていたアントニオ・ロッティの2つのオペラ等を聞いたと書き記している。その歌手として特にロッティ夫人を初め6人の歌手の名を挙げていて、イタリア・オペラから大きな感銘を受けたことが伺われる。またこの時イタリアの名手フランチェスコ・マリア・ヴェラチーニのヴァイオリン演奏にも触れた。テレマンの最大の転機は1721年(40歳)に訪れた。ハンザ自由都市 ハンブルク市の音楽監督・兼・「」学校のカントル()だったヨアヒム・ゲルステンビュッテルが亡くなり、その後任に選ばれてハンブルクに移住したのである。およそ一年後、ひさしの傾いていたハンブルク市の歌劇場が再建され、その音楽監督と歌劇の作曲も引き受けることになった。そののち亡くなるまでの46年間、彼はハンブルク市の音楽全体を指導する監督の位置にあり、オペラ、コンサート、教会音楽の演奏や出版を次々と行い、当時のヨーロッパでは随一とも言われるほどの高い人気と名声を獲得していった。1722年、ライプツィヒ聖トーマス教会の楽長クーナウが亡くなった時、ライプツィヒ市当局はクーナウの後任としてまずテレマンを招聘しようとしたが断られたため、仕方なく当時は中程度の知名度に過ぎなかったバッハを招聘したという記録があるほど、当時のバッハは作曲家としてはテレマンよりも格段に低い扱いを受けていた。しかし、そのような一般民衆の評判とは何ら関係なく、テレマンはバッハの音楽の良き理解者であり、前記の通りテレマンとバッハは生涯にわたって深い親交を結んでいた。1726年(45歳)、遠く離れた中部ドイツのバイロイト宮廷からも楽長に任命され、折にふれて器楽作品を書き送るほか、毎年ひとつづつ歌劇を提供するようになった。1729年(48歳)、ロシアから赴任の要請を受けたが、結局これには応じなかった。「腰を落ちつけたい気持ちが、高い栄誉への慾望よりも強かった」と自叙伝に記している。1737年(56歳)9月末から8か月、パリに滞在した。そこで新しい四重奏曲集(「パリ四重奏曲」)と6曲のソナタ集を出版した。この四重奏曲をフラウト・トラヴェルソの名手ミシェル・ブラヴェが素晴らしく演奏したとテレマンは書いている。その他、詩篇、協奏曲、カンタータなどを作曲し、コンセール・スピリチュエルで演奏され、たいへんな栄誉を受けた。テレマンは、裕福な市民層を相手に作品の予約販売という方法で成功を収めたほか、隔週の市民向け音楽雑誌 「忠実な楽長 "Der getreue Musikmeister" 」 を刊行、毎号、新作楽譜を掲載し、必ず続きは次の号に載せることで継続して買ってもらうという、新手の商法を生み出した商売上手であった。彼の作る曲は常に当時のヨーロッパ社会の流行の先端を行く作風であり、また複雑で難解とされるバッハなどの曲と違ってアマチュアにも演奏しやすかったため、当時の貴族や富裕層の人々からは大いに親しまれていた。しかし、音楽の世界での成功とは裏腹に、彼の結婚は失敗続きであった。彼は最初の妻と1人の娘をもうけて15ヶ月で死別した後、1714年にマリア・カテリーナと再婚し、合計9人の子ども(誰も音楽家にならなかった)を授かったが、この2番目の妻マリアはスウェーデンの将校と関係を持っているとの噂だったため、結婚は1720年代前半までにすでに問題を抱えていた。マリアはギャンブルに熱中してテレマンの年収を超える4400ライヒスターラーにも上る莫大な負債をこしらえた が、ハンブルクの商人達の助けで、彼は破産から救われた。1736年までにマリアはテレマンの家を出た。彼女は夫より約8年長生きして、フランクフルトの修道院で1775年に亡くなった。長男アンドレアスが1755年に死んだあと、テレマンはアンドレアスの息子ゲオルク・ミヒャエル・テレマン(、1748年4月20日-1831年3月4日)を引き取り、後にゲオルク・ミヒャエルは音楽家および神学者として著名になった。晩年、テレマンの視力は悪化し始め、1762年ごろまでにかなり健康が悪化したが、創作意欲には何ら支障はなく、1767年6月25日の夕方に呼吸器疾患による衰弱のため86歳で死去するまで作曲を続けていた。テレマンの死後、長年の友人であったバッハの次男カール・フィリップ・エマヌエル・バッハが彼の後任としてハンブルクの音楽監督になったが、エマヌエルが着任するまでの間はゲオルク・ミヒャエルが監督の職務を代行した。そしてエマヌエルの死後はゲオルク・ミヒャエルが正式に後任の監督になり、テレマンとバッハの交友関係は孫の代まで長く続いた。テレマンは当時のヨーロッパ各国の舞曲を研究し、曲の中に取り入れた。その作風は多様で、一口では言えないが、あえて簡単に言えばバロック音楽と古典音楽の中間に位置している。バロック音楽の大きな特色である対位法の使用は減少し、古典派のようなホモフォニーの作曲法によることが多い。彼は冗談のセンスも高く、「老人たち」という作品名で前世代をこき下ろすという感性や、結婚生活の不毛についてのオペラ作品や、学校の先生のプライドを皮肉った作品もある。しかし、その作風があまりにも当時のヨーロッパ社会の流行に迎合し過ぎていたためか、本人の死後は急速に評価が下がり、知名度はバッハと逆転した。それでも、「無伴奏ヴァイオリンのためのファンタジア」は教育用として用いられ、モダン楽器による作品の演奏も途絶えることはなかったが、彼の全作品が隈なく古楽器演奏の評価の対象になったのは少なくとも1990年代以降のことである。テレマンは86年の長い生涯で膨大な数の曲を作ったことで知られ、『ギネス世界記録』においても、クラシック音楽の分野で最も多くの曲を作った作曲家として、正式に認定されている。ドイツ語版ウィキペディアによるとテレマンの曲は現在3600曲以上が確認されているが、既に楽譜の失われている曲や未発見の曲も多いと見られ、実際の総作品数は少なくとも4000曲を超えるものと考えられている。ベーレンライター社からテレマン全集 が出版され続けているものの、同時期に始まった新バッハ全集の編集が20世紀に終わって現在は補遺版の刊行が行われているのに比べ、テレマンの作品群は21世紀に入っても整理し切れていないばかりか、21世紀中の全作品の刊行も難しいと見られている。12歳でデビュー後、74年間にわたって生涯現役であった彼は少なくともオペラ40曲、室内楽200曲、協奏曲170曲、管弦楽組曲600~700曲、受難曲46曲、教会カンタータ1700曲以上などの膨大な曲を残した。一般に17世紀後期から18世紀にかけてのバロック時代のヨーロッパでは、教会の礼拝用または王侯貴族や富裕層などの娯楽や祝祭典用など様々な方面において音楽の需要が増加していたため、当時の著名な作曲家たちは必然的に多作になる傾向があったが、特にテレマンの作品数は、現在知られている同世代のアントニオ・ヴィヴァルディの作品数800曲以上やヘンデルの作品数600曲以上、バッハの作品数1100曲以上などと比較しても群を抜いている。マルティン・ルーンケによるテレマン作品目録()、ヴァルター・メンケによるテレマン声楽作品目録(TVWV)がある。番号によって住み分けられていて、1~15:宗教声楽曲、20~25:世俗声楽曲、30~39:器楽曲、40~45:室内楽曲、50~55:管弦楽曲となっている ため、通常はTWVで共通に表記することが多い。例えばターフェルムジーク第1集の第1曲「序曲 ホ短調」は、ジャンル番号が55(オーケストラ組曲)、調性がe(ホ短調)のグループの1番の番号を与えられ、TWV 55:e1 と表記される。TWV 41 以降はほぼ調性と併記されているが、声楽曲・器楽曲には調性の表記がなく、「ブロッケス受難曲」にはジャンル番号5(受難曲)の1番で、TWV 5:1 という番号が与えられている。最晩年には「53平均律の使い方」という文章(フイヘンス=フォッカー微分音財団のHPを参照)を発表した。そこには「トリプル・フラット」や「トリプル・シャープ」といった新しい臨時記号の概念が記されている。テレマンは多数の受難曲を書いていて、TWV 5 は「受難オラトリオ及び受難曲」に当てられている。詳しくは英語版を参照。第2部第5章(p.226-248)は「テレマン自叙伝『わが生涯より』」と題され、ヨハン・マッテゾンによる 『音楽家の栄誉の門』(Grundlage einer Ehrenpforte、1740年)に収められた「テレマン自叙伝」を全文訳出している。
出典:wikipedia
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