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向上高等学校

向上高等学校(こうじょうこうとうがっこう)は、神奈川県伊勢原市見附島に所在する私立高等学校。学校行事が多彩。兄弟校として自修館中等教育学校が隣接されているが、交流はほとんどなく、向上高校の学食、自修館中等教育学校のカフェテリアを共同利用するにとどまっていた。しかし、2008年に両校の生徒会が交流をした。国際教育にも力を入れており、姉妹校を海外3ヶ国に計6校持つ。アメリカとニュージーランドへの短期留学を行っているほか、毎年アメリカと韓国の姉妹校から留学生が来校し生徒宅にホームステイをする。全国で初めてブレザースタイルの制服を導入し、当時新聞等で取り上げられた。近年では、スポーツに力を注ぎ、レスリング部、女子ソフトボール部は毎年、全国大会の常連であり。後に、オリンピック三大会連続出場を果たすレスリング部出身の笹本睦(1996年卒業、現アルソック)は平成7年度の全国選抜大会で三位に入賞する活躍をしている。平成6年度には、サッカー部が創立以来初の全国高等学校サッカー選手権大会に参加。強豪南宇和高校とPK戦までもつれる接戦を演じた。後に、プロとなる柴崎貴広(2001年卒業、現東京ヴェルディ)はこの試合をみて、向上高校への進学を決めた。直近また新聞委員会は「全国高校新聞コンクール」の常連校で過去に優勝している。近年、生物部によるタイワンシジミの研究が学会で発表され高い評価を受けた。直近の活躍としては、2009年にレスリング部が奈良県で行われたインターハイ団体戦で地元の強豪大和広陵高校を接戦で破り、歴代最高のベスト8に進出した。硬式野球部は15年ぶりの夏季県大会ベスト8入りを果たすが、準々決勝で強豪横浜創学館高校に2009年春季県大会準々決勝以来のリベンジならず敗れた。また、男子バレーボール部は、関東大会5年連続出場。県内では現在8強にはいっている。(今年度春高県予選ではベスト16)2011年には全国高校総合体育大会に出場。2012年は全国バレーボール高等学校選手権大会に出場した。韓国への修学旅行は30年以上続いており、2003年には韓国政府から韓国観光の発展に貢献したことを称えられ、清水秀樹理事長に産業褒章が授与された。尚、2010年4月以降から創立100周年を迎えることを記念して、初期のブレザーを改変し、新しいブレザーを導入した。叉、2010年度に向上学園創立100周年を記念して100周年の催しを行う。向上高等学校なおき会と兄弟校の自修館中等教育学校生徒会と100周年を記念して合同で企画を行い、航空写真の撮影と爪楊枝アートの制作が行われた。2015年度から生徒用に大地震対応マニュアルが配布されている向上学園の前身の自修学会は、神奈川県下曽我に大井龍兆が私財を投じて設立したものである。関東大震災で校舎が壊れ、大井も子息を失うが、地元村民が力を合わせ、学校を再建した。昭和30年代の終わり、当時経営難に陥っていた湘北高等学校が、同じ曹洞宗の某大学に救済を求めたが、不採算性があまりにも高く断られた。そして、同大学に奉職していた宮崎道世が、個人で私財を投げ打ち、学校を引き継ぐことになった。経営引継ぎ後、校名や法人名を変更し、後述する制服革命〈ブレザーの採用・授業服〉や克己日などの当時としてはユニークな教育方針を行い、また副校長人事に猪熊功(柔道オリンピック代表)を起用するなど、世間の注目を集めた。現在の「向上」という校名は、当時、下曽我にあった湘北高校の半ば荒れ果てた校舎を宮崎が見たとき、「荒城の月」の歌がとっさに頭に浮かび、そこから這い上がるという意味で命名したという。その後も数十年間ほど学園は幾多の経営難に陥ったが、三浦甲子二(日本教育テレビ報道本部長:現テレビ朝日)が学園の立て直しに尽力し、危機を逃れた。1967年から1984年の総合移転まで使用された沼目校舎は、高校としては通常考えられないほど狭隘な敷地に6階建て(1フロア4教室)の本校舎と、プレハブ建ての教室や運動部の部室、倉庫、さらには併設する幼稚園の園舎までが建ち並び、一見すると、とても高校とは思えなかったため、初めて訪れた者はほぼ例外なく戸惑いを覚えた。運動や集会が可能な場はそれらの建築物に取り囲まれた「中庭」と呼ばれるスペースしかなかった(しかも幼稚園の園庭をも兼ねていた)。この「中庭」もバレーボールのコート2面程度を取るのがやっとで、野球やサッカー、陸上など、広い場所を必要とする競技は不可能であり、体育の授業でも実施できる科目は限られていた。普通の学校なら当然あるべき体育館もなかったため、昭和50年代に在籍した卒業生の回顧によると、体育の授業の日が雨天であった場合、1階玄関ホールで卓球をやるしかなかったそうである。現在の見附島校舎は当時、本校が所有するグラウンドであったが、徒歩で数十分かかるため、授業で使われえることはあまりなく、ここで授業を行う場合は、効率を考え、2校時続けて行っていた。運動部の練習は主に地元企業等が保有する体育館、グラウンドを借用して行っていた。このような逆境にも関わらず野球部は県内では強豪であり、上位進出の常連であった。1974年の夏季県大会では決勝進出を果たしている(ただしこのときの決勝戦では後に日本ハム入りする津末英明 、巨人入りする原辰徳を擁する東海大相模に19-0という記録的大差で敗れている)。また、総合移転1年目の1984年夏にも再び決勝に進出し、桐蔭学園に延長の末惜敗した。この年のドラフト会議では、エースであった高橋智は阪急ブレーブス、捕手の大塚義樹は南海ホークスに指名され、入団している。狭い校舎内には1,000人以上の生徒が詰め込まれ、理科室、家庭科室といった特別教室は一切なく、図書室や専用の保健室さえ設置されていなかった。生徒は登校すると制服から「授業服」と呼ばれるジャージのような服に着替えなければならなかったが、更衣室は女子のみであったため、男子生徒は廊下で着替えをするという有様であった。そのような状態であるにも関わらず、納入すべき学費には「施設費」という項目があるという、笑えない冗談のような事実まであり、生徒や父兄は「この学校のどこにわざわざ金を取るような施設があるんだ?」などと自嘲気味に言い合っていた。なお、この敷地は売却され、現在はマンションになっている。当時総じて生徒の学習意欲は低く、普通科であっても大半の生徒は就職し、4年制大学、特に現役での進学者はごく僅かであり、その数少ない進学先も難易度の低い大学ばかりで、国公立や有名私立は皆無であった。学校側はこれに危機感を抱き、1981年より、6組まであった普通科の1組を進学の文系志望者、2組を同理系志望者にまとめ、それ以外のクラスを就職や専門学校等の希望者として、初めて進路別のクラス編成を実施した。それまでは生徒の学力に応じたクラス編成を行っており、学力の高い者から順に、普通科は1~6組、商業科は7~8組としていたため、学年での成績が上位で、なおかつ就職希望の生徒は、それまでの1、2組から、3組へ〝格下げ〟のような形になったため、抵抗を覚えるものもあった。上記に加え東京工業大学、横浜国立大学、埼玉大学、横浜市立大学、北海道大学、早稲田大学、慶應義塾大学、国際基督教大学、東京理科大学、上智大学、MARCH、日東駒専、東京外国語大学、横浜市立大学、電気通信大学、早稲田大学、立命館大学、成蹊大学、成城大学、國學院大學、など愛甲石田駅からは神奈中バス(神奈川中央交通)が運行している。「向上学園入口」から徒歩4分

出典:wikipedia

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