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渓斎英泉

渓斎 英泉(けいさい えいせん、寛政3年(1791年)- 嘉永元年7月22日(1848年8月20日))とは、江戸時代後期に活躍した日本の浮世絵師。画号は渓斎、国春楼、北亭、小泉、涇斎。亭号としては一筆庵(いっぴつあん)、旡名翁(むめいおう)、楓川市隠など数種類ある。戯作者としては可候(かこう)を名乗る。独自性の際立つ退廃的で妖艶な美人画で知られ、春画と好色本にも作品が多い。その一方で名所絵(風景画)も知られており、「木曽街道六十九次」では歌川広重と合作している。江戸市中の星ヶ岡(現・千代田区永田町山王あたり)に、下級武士の子として生まれた。本姓は松本であったが、父の政兵衛茂晴が池田姓に復して以後、池田を名乗る。本名は義信。字(あざな)は混聲。俗称善次郎、のちに里介と名乗る。6歳で実母を失っている。12歳から狩野典信の弟子という狩野白桂斎(かのうはっけいさい)に画技を学ぶ。15歳に元服を機に、16か17歳で安房国北条藩の水野忠韶の江戸屋敷に仕官するも侍奉公には不向きだったか、17歳の時に上役と喧嘩沙汰となり、讒言によって職を追われている。浪人となった善次郎は父の知り合いのつてで、市村座の狂言作者であった初代篠田金治(後の並木五瓶)に狂言作者見習いとして出入りすることとなり、千代田才一(才市とも)と名乗っている。ところが20歳の時、父と継母が相次いで亡くなり、3人の妹を一人で養う身となって狂言作者の道は挫折を余儀なくされる。この時、先の水野家に仕える多くの血族からの支援もあったが、善次郎はそれをよしとせず、深谷宿にて菊川英二に寄寓、浮世絵師菊川英山の門人格として本格的に絵筆を執ることとなる。そして、ここからが善次郎の才能の発露であり、浮世絵師渓斎英泉の始まりであった。「国春楼」および「北亭」の号をこの時に使うようになる。師の英山は4歳年上でしかない兄弟子のような存在ながら、可憐な美人画で人気の絵師であった。英泉は英山宅の居候(いそうろう)となって門下で美人画を学びつつ、近在の葛飾北斎宅にも出入りし、私淑をもってその画法を学び取っていく。また宋・明の唐画を好み、書を読み耽ることを趣味とする人でもあった。なお、北斎に先駆けて日本で初めてベロ藍を用いた藍摺絵(あいずり-え)を描いたのは、英泉である。英泉の画風に学び、幕末の退廃的な美人画を得意とした絵師として、歌川国貞が挙げられる。自著『无名翁随筆』の英泉の項目には「近頃國貞も傾城畫は英泉の寫意に似せて畫し者也」記され、浮世絵関連の書籍でもしばしば踏襲される見方である。しかし、両者にはどちらがどちらを真似たのか判然としない作品や、少数ながら合作の錦絵があり、また英泉が文を、豊国襲名後の国貞が絵を担当した合巻があるなど、時々に競作と共作が入れ替わる複雑な関係だったようだ。文筆家にして絵師である英泉は、数多くの艶本(好色本)と春画を世に送り出しており、これを抜きにしては語れない。千代田淫乱の名で最初の艶本『絵本三世相』を発表したのが22歳の時。24歳の時には同じく『恋の操』(こいのあやつり)を発表している。当初は英山の影響を受けて可憐に描いていた美人画のほうも、この時分から英山色を脱して独自の艶を放つようになり、それに連れ、評判を取るようにもなっていた。妖艶な美人画絵師としての英泉はこの分野で磨かれていく。文化13年(1816年)の26歳の時には、北斎から譲られた号「可候」をもって、合巻『櫻曇春朧夜』(はなぐもりはるのおぼろよ)を発表。挿絵とともに本文も自ら手掛けることとなる。艶本は毎年のように作られ、さまざまな隠号をもって人気本を世に送り出すなか、傑作と名高い『春野薄雪』も文政5年(1822年)に著された。また、同じく文政5年の代表作である艶本『閨中紀聞 枕文庫』は、当時の性の医学書・百科事典にして性奥義の指南書であり、同時に、奇書の中の奇書として知られている。30歳ごろからは人情本や読本の挿絵も手掛け、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』の挿絵も請け負っている。しかし文政12年3月、大火による類焼で家を失った上、縁者の保証倒れにも見舞われる。そんな英泉であったが、酒と女を愛す放蕩無頼の人、奇行めいた人である。根津の花街に移って若竹屋里助と名乗り、女郎屋の経営を始めていた。娯楽全般に厳しく統制される天保の改革の時勢を迎えたのちは、画業はもっぱら多くの門人に任せて自らは描く事は減少し、一筆庵可候の号をもって合巻や滑稽本を主とする文筆業に専念した。英泉の作品は、末期になるにつれ描線の硬化し、図様も自作の焼き直しや他の浮世絵師の作を転用する事例が増え、画力の減退やアイデアの枯渇を看取できる。一方、晩年の英泉によって著された『无名翁随筆』(天保4年(1833年)、池田義信名義)は、「続浮世絵類考」と俗称され、考証学的にも優れた浮世絵の貴重な資料として今日に伝わっている。また人情本をよくする戯作者の為永春水とよしみを通じ、彼の代筆者の一人との説もある。 さらに娼家も経営したりしている。嘉永元年7月22日(1848年8月20日)、齢59で亡くなった。墓所は杉並区高円寺南の福寿院(東京都指定旧跡)。主な門人に、五勇亭英橋、静斎英一、泉蝶斎英春、春斎英笑、米花斎英之、英斎泉寿、貞斎泉晁、紫嶺斎泉橘、嶺斎泉里、一陽軒英得、山斎泉隣、磯野文斎、信斎英松、春斎英暁などがいる。浮世絵師としての英泉は、当初、師・英山が描くような儚げな女性の美人画を描いていたが、その後、独自の妖艶な画風で人気を博することになる。6頭身で胴長、猫背気味という、屈折した情念の籠った女性像が特徴である。また下唇が厚く、下顎が出たような顔も特徴的といえる。英泉は深川のような岡場所や吉原遊廓の遊女を、妖艶さと強い意志を湛えた眼差しを持つ女性として描いた。英泉の描いた肉筆美人画は、江戸時代の後期、文化・文政期の退廃的な美意識を象徴的に表し、幕末の世情を反映したアクの強い画風を示している。それは“えぐみ”と言われる既存の美意識を逆転させたところに美を見出す点で、時代の感覚と符合した。英泉の錦絵作品は現在1734枚確認されているが、そのうち1265枚約73%が美人画である。この数字は、同時代に活躍した歌川国貞の国貞画号時代の美人画枚数1313枚に匹敵する。また、1265枚の内38%にあたる482枚が吉原の遊女で、更にその内365枚に遊女名が記されているのが大きな特徴である。遊女名記載作品は、吉原遊廓や遊女のスポンサーからの入銀による制作が考えられ、英泉と遊郭の強い繋がりが窺える。美人画で一世を風靡し春画で知られる英泉であるが、名所絵(風景画)も知られている。英泉と歌川広重が合作のかたちで天保6年(1835年)ごろ完成させた『木曽街道六十九次』は、全72図のうちの24図が英泉の筆による。広重の『東海道五十三次』シリーズの成功を受け、版元の竹内孫八が新たに企画したもので、当初、英泉が絵師を務めていたが手を引き、広重に引き継がれた経緯がある。画像の1~12は全て『木曽街道六十九次』中のものである。「木曾街道」と銘打っているが、主として描かれているのは木曽街道を脇往還とする中山道である(参照:中山道六十九次)。

出典:wikipedia

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