ハーミーズ (HMS Hermes, 95) はイギリス海軍の航空母艦。最初から空母として建造された艦としてはイギリス海軍では初めての、世界でも日本海軍の鳳翔に次いで2番目の艦である。ハーミスまたはハーミズとも表記される。艦名は、ギリシア神話に登場する神、ヘルメースの英語読み。1918年1月15日アームストロング・ホイットワース社で起工されるが、イーグルの運用実績を考慮に入れつつ慎重に工事が行われたため、2年近く遅れて起工した鳳翔(1919年12月16日起工、1922年12月27日就役)に世界最初の竣工艦としての栄誉を奪われることとなった。建造当初から、小柄な船体に不似合いな程に大きなアイランド式の艦橋が特徴で、アンバランスな印象も与えたといわれる。本艦は前述の通り、最初から航空母艦として建造された艦であるが、艦の設計は先に竣工したイーグル (空母・初代)を参考に設計された。そのため、本艦はイーグルを小型化したような外観となっている。基準排水量1万トン台の小型の船体を有効に活用すべく艦首形状は艦首と飛行甲板の間に隙間のない「エンクローズド・バウ」を採用し艦首の先端までを飛行甲板に使えた。この工夫により超弩級戦艦を改装したイーグルの飛行甲板長198.2mと変わらない飛行甲板長182.3mを達成した。また、巡洋艦クラスとの戦闘を考えて島型艦橋(アイランド)を基部として三脚型のマストが立ち、頂上の射撃指揮所の左右に測距儀をそなえる頑丈なものである。これにより頂上部の高さは水面上から35mもあり、これは同世代の巡洋艦「ホーキンス級」のマスト高さ28mを凌駕するものである。しかし、艦橋が大型すぎることからくるトップヘビーになりがちな本艦はバランスを取るために搭載燃料の使い勝手が悪かった。このため、左舷側バルジに常に海水を充填していた。更に主砲には軽巡洋艦クラスの「Mark XII 14cm(45口径)速射砲」を採用、これを防盾の付いた単装砲架で舷側の三箇所に設けられたスポンソン(張り出し)に1基ずつで片舷3基ずつ計6門搭載した。アイランド後方には艦載機搭載用のクレーンが1基配置されているのが外観上の特徴である。なお、艦尾甲板は水上機を運用するために乾舷の高さは水面からを約3mと低く抑えられており、そこから水上機を海面に下ろして運用した。本艦の主武装として「アームストロング Mark XII 14cm(45口径)速射砲」を採用した。その性能は37.2kgの砲弾を仰角25度で14,630mまで届かせる射程を得ていた。この砲を防盾の付いた単装砲架で6基を搭載した。砲架の俯仰能力は仰角27度・俯角7度である。旋回角度は300度の旋回角度を持つ。発射速度はカタログデーターは毎分8発であるが実用速度は6発程度であった。他に対空火器として高角砲は「アームストロング Mark V 10,2cm(45口径)高角砲」を採用している。14.6kgの砲弾を仰角44度で15,020m、最大仰角80度で9,450mの高度まで到達させることができた。単装砲架は左右方向に180度旋回でき、俯仰は仰角80度、俯角5度で発射速度は毎分10~15発だった。これを単装砲架で3基を搭載した。他に近接火器として「アームストロング 7.62cm(40口径)速射砲」を単装砲架で4基、12.7mm連装機銃4基を搭載した。就役後の1927年に10.2cm単装高角砲1基を撤去して「ヴィッカーズ 4cm(39口径)ポンポン砲」を単装砲架で2基を追加したが1932年に撤去して、替りに12.7mm四連装機銃2基に換装した。1941年に4cmポンポン砲を新型砲架の四連装砲架で1基を追加し、新たに「エリコン 2cm(76口径)機関砲」を単装砲架で5基を追加した。防御力は対巡洋艦戦闘を意識して舷側防御は水線部で76mm、主甲板は25mmの装甲を持っていた。本艦の機関構成はD級軽巡洋艦と同等のヤーロー式重油専焼細経水管缶6基と1段減速のパーソンズ式ギヤード・タービン2基2軸推進で最大出力40,000馬力で速力25.0ノットを発揮した。ボイラー室は前後2室で1番缶室に4基・2番缶室に2基を搭載し、排煙は「イーグル」に倣って直立型の1本煙突で排出された。タービン室はボイラー室と隔壁1つ分空けて後方に配置され推進用タービンを並列で2基・後側の減速用歯車を介して推進軸2本と接続された。1939年初めハーミーズは短期間修理を受け、8月23日にはF. E. P. Hutton大佐が艦長になった。その翌日ハーミーズは再就役し、9月1日に第814飛行隊のソードフィッシュ12機を搭載。9月中旬はウエスタンアプローチで対潜哨戒に従事した。同様の任務についていた空母カレイジャスが撃沈された日の翌日の9月18日にハーミーズは潜水艦を発見したが、護衛の駆逐艦アイシスとイモージェンによる攻撃は効果がなかった。それからハーミーズはデヴォンポートへの帰還を命じられ、そこで短期間の修理を受ける際に消磁装置が備え付けられた。ハーミーズは10月7日にフランス戦艦ストラスブールと会合し、同月16日にフランス領西アフリカのダカールに到着。X部隊として10月25日から大西洋でドイツ艦船捜索を開始した。それをハーミーズは12月終わりまで続けたが何も発見することはなく、船団を護衛してイギリスに戻り1月9日から2月10日まで修理を受けた。それから再びダカールに戻り、ドイツ通商破壊艦や封鎖突破船捜索を再開した。5月25日に艦長がRichard F. J. Onslow大佐に替わり、ハーミーズは成果のない哨戒を続けた。6月29日に帰投したハーミーズは、到着9時間後に出港しダカールの封鎖を開始するよう命じられた。それはセネガルの総督がヴィシーフランス側についたためである。7月7、8日の夜、第814飛行隊のソードフィッシュによる雷撃にあわせて、ハーミーズから発進したボートがフランス戦艦リシュリューの艦尾下に爆雷4発の投下を試みた。ボートはリシュリューのもとにたどり着くことには成功したが、爆雷は爆発しなかった。雷撃では成果があり、リシュリューのプロペラ一つを損傷させた。フランス軍機が何度かイギリス軍部隊を攻撃したが、成果はなかった。攻撃からの帰路、7月10日夜に暴風雨の中、仮装巡洋艦「コルフ」と衝突した。衝撃によりハーミーズ乗員3名が負傷し、一人はその傷がもとで死亡した。一方、コルフ側には負傷者はいなかった。ハーミーズは12ノットでフリータウンへ向かい、8月5日に南アフリカ行き船団に加わって8月17日からサイモンズタウンで修理を開始した。修理は11月2日に完了し、ハーミーズは11月29日にフリータウンに戻った。南大西洋でのドイツ通商破壊艦捜索のため12月2日に巡洋艦ドラゴンと合流。同月中は主にセントヘレナから行動し、後にポケット戦艦アドミラル・シェーア捜索のため武装商船プレトリア・キャッスルが加えられたが成果は無かった。この部隊は12月31日にサイモンズタウンへ向け出発し、ハーミーズは南アフリカ沿岸でのヴィシーフランス封鎖突破船捜索に派遣された。1月26日に1隻が発見されたが、その船はマダガスカルに戻った。2月4日、巡洋艦シュロプシャーおよびホーキンスと合流するため北上。それはキスマヨ封鎖を行うためであった。2月12日、ハーミーズが1隻、ホーキンスが3隻のイタリア商船を拿捕した。2月22日、軽巡洋艦グラスゴー搭載機により発見されたアドミラル・シェーア捜索に参加したが、捕捉はできなかった。ハーミーズは3月4日にコロンボに着き、以後も枢軸国艦船捜索を続行した。4月にはイラクのバスラでの作戦支援のためペルシャ湾へ派遣され、6月中旬までそこにとどまった後セイロン島・セイシェル諸島間の哨戒に戻った。哨戒任務を続けたハーミーズは11月19日に修理のためサイモンズタウンに着いた。修理完了には1942年1月31日まで要した。ハーミーズは東洋艦隊に配属され2月14日にコロンボに到着。第814飛行隊のソードフィッシュを乗せ駆逐艦ヴァンパイアと合流して対潜哨戒にあたるため2月19日に出港。2隻がトリンコマリー港に入港した後、2月25日に飛行隊はおろされた。3月中旬、フリーマントルに拠点を置いている連合国海軍部隊に合流するため2隻はそこへ向かうよう命じられた。だが3日後には呼び戻され東洋艦隊のB部隊に編入された。日本軍のインド洋攻撃の際、ハーミーズはセイロン島のトリンコマリーで修理中であった。4月9日日本軍はトリンコマリーを空襲した。ハーミーズは脱出したがバッティカロア沖で日本軍の偵察機に発見され、日本軍の機動部隊から発進した九九式艦上爆撃機85機の攻撃を受けた。45機がハーミーズを爆撃しハーミーズは沈没した。戦死者307名。同行していた駆逐艦ヴァンパイア ("HMAS Vampire, D68")、コルベット ホリホック ("HMS Hollyhock, K64")、タンカー2隻も撃沈されている。この戦闘の生存者590名は病院船Vitaに救助されコロンボへ送られた。搭載機が少なかった事と、不慣れな海域での戦いが本級の不幸だったとされている。尚、日本海軍が大戦中に撃沈した英空母は本艦だけである。
出典:wikipedia
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