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本多忠刻

本多 忠刻(ほんだ ただとき)は、江戸時代前期の大名。播磨姫路新田藩の初代藩主。慶長元年4月14日(1596年5月11日)、後の姫路藩主・本多忠政の長男として生まれる。祖父の本多忠勝が慶長6年(1601年)に桑名藩に入部すると、忠政と共に桑名に移った。大坂夏の陣では忠政と共に出陣し、慶長20年5月7日(1615年6月3日)の道明寺の戦いにも参加して敵の首級を挙げた。戦後の元和2年9月29日(1616年11月8日)、徳川家康の孫娘で豊臣秀頼の正室だった千姫と婚姻した。この婚姻に関しては大坂落城後の7月に千姫が江戸に戻る途中、桑名の七里渡しの船中でたまたま忠刻を見初めたのがきっかけになったという逸話がある。また家康が臨終の際に政略結婚の犠牲とした千姫のためを考えて忠刻やその生母に婚姻を命じたとする逸話もある。元和3年(1617年)、千姫の化粧料として父・忠政とは別個に10万石を新地に与えられて姫路藩に移った。剣術を好み、兵法者・宮本武蔵を迎えて師事し、家士をしてその流儀を学ばせた。また武蔵の養子・三木之助を小姓として出仕させ、側近とした。また長じるに従い、忠刻は眉目秀麗で優雅さを持ち、誰もが振り返るほどの美丈夫だった。千姫との間には元和4年(1618年)に長女・勝姫(池田光政室)、元和5年(1619年)には長男・幸千代が生まれたが、元和7年(1621年)に幸千代が3歳で早世し、忠刻も寛永3年5月7日(1626年6月30日)に結核のため死去した。享年31。なお、宮本三木之助(23歳)は忠刻の供をして殉死し、その他に岩原牛之助(21歳)も殉死した。忠刻は忠政の世子だったが早世したため、弟の政朝が世子となって姫路藩第2代藩主となる。

出典:wikipedia

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