亀井 久興(かめい ひさおき、1939年11月8日 - )は、日本の元政治家。参議院議員(2期)、衆議院議員(通算5期)、国土庁長官(第30代)、国民新党幹事長(初代)、総務省顧問などを歴任した。自由民主党時代には、閣内人事では国土庁長官、党内人事では自由民主党の国会対策委員会副委員長、総務会副会長、政務調査会の副会長、会長代理を歴任し、自民党の党三役に近い立場にいた。2005年7月5日の郵政国会では衆議院本会議で郵政民営化法案に反対票を投じ、同年8月、綿貫民輔らと国民新党の結党に参加した。結党時より国民新党幹事長を務める。2007年7月の第21回参議院議員通常選挙の島根県選挙区には長女の亀井亜紀子が国民新党公認・民主党推薦で出馬し、初当選。しかし、2009年8月30日実施の第45回衆議院議員総選挙では小選挙区で落選し、比例区での復活当選も叶わなかった。衆議院議員失職に伴い、結党以来務めてきた幹事長の座を退き、党顧問となる。同年10月、総務大臣である原口一博の要請により、社会民主党副幹事長の保坂展人らとともに総務省顧問に任命され、かんぽの宿売却問題を始めとする郵政民営化に絡む疑惑解明の為の特別調査チームに参加。2012年4月、長女の亀井亜紀子が亀井静香と共に国民新党を離党。それに伴い、自身も国民新党顧問を退く。同年12月、高齢であることを理由に第46回衆議院議員総選挙に立候補しない意向を固め、政界を引退すると表明した。自身の選挙は余り強くなく、衆議院選挙では通算3回落選している(当選は5回)。参議院議員時代は、島根県選挙区から選出されていた。衆議院に鞍替え後の中選挙区時代には、竹下登を選出していた島根県全県区から立候補していた。衆議院議員として初当選した第39回衆議院議員選挙では、自民党を離党して消費税の一時廃止を訴え、竹下陣営と対立した。小選挙区比例代表並立制が導入後は、島根3区で当選を続けたが、同区が再編されるにともない竹下亘に地盤を譲り比例代表へ転出した。国民新党結党後は反自民に転向したため、竹下登元首相や、竹下の最側近だった青木幹雄前自民党参議院議員会長の影響力が極めて強い保守王国の島根県では苦戦を強いられ、2005年の第44回衆議院議員総選挙では島根2区で竹下登の実弟・亘に敗れ比例復活で当選したが、2009年の第45回衆議院議員総選挙では自民党に猛烈な逆風が吹いたにもかかわらず再度竹下に敗れ、比例復活も果たせず落選した。自民党では、宏池会、後に大勇会に属した。昭和51(1976年)、政界がロッキード事件で大混乱に陥っている中で、中山太郎元外相をはじめ参議院の有志と相はかり党の再生運動に取り組んだ。国会議員をはじめ自民党の各都道府県支部や、党所属の地方議員に呼びかけて「新しい自民党を作る会」を結成、国民に開かれた政党をつくるために積極的な運動を展開し、総裁選挙に全党員が参加する道を開いた。また、昭和54(1979年)第1次大平内閣で郵政政務次官を努めたときは、全逓が勝負をかけた大闘争の最中であり、年賀郵便が遅配されるという異例の事態となったが、白浜仁吉郵政大臣を補佐して郵政事業を守り抜き今日の健全な労使関係を築くきっかけをつくった。さらに、平成5(1993年)年衆議院逓信委員長を努めたとき、小泉純一郎郵政大臣に反発する逓信委員会が、与野党一致して委員会審議を拒否したため委員会が開けず、郵政関係法案の処理が不能になる事態となったが、大臣と委員会との調整に取り組んだ結果、委員会を円満に正常化させることができ、全付託法案を処理した。郵政改革関連法案に反対し自民党を離党した。憲法の政治上の運用について精通しており、日本国憲法をさまざな点について改正すべきであるとしている。日米安保条約と第九条が、外交戦略上果たしている役割について評価しており、第九条は改正すべきではないと主張している(2007年07月08日朝日新聞)。本籍地は島根県鹿足郡津和野町中座。現住所は島根県益田市有明町。趣味はスポーツ(ゴルフ・スキー等)、音楽鑑賞、旅行。特技はジャズドラム演奏。座右の銘は行不由径(ゆきてこみちによらず)。尊敬する人は勝海舟、松下幸之助。家系は大名家で旧津和野藩主、明治以降は旧華族の伯爵家。家系 茲矩―政矩―茲政―茲政―茲満―茲延―茲胤―矩貞―矩賢―茲尚―茲方―茲監―茲明―茲常―茲建―久興―亜紀子
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