カール14世ヨハン(, 1763年1月26日 - 1844年3月8日)は、スウェーデン=ノルウェー連合王国の国王として1818年から死去する1844年まで在位した。ノルウェー国王としての名はカール3世ヨハン(, 1763年1月26日 - 1844年3月8日)である。現代まで続くスウェーデン王家ベルナドッテ朝の始祖であり、彼の血は子孫を通じてノルウェー王家、デンマーク王家、ベルギー王家、ルクセンブルク大公家、ギリシャ王家にも受け継がれている。フランス革命・ナポレオン戦争期のフランスの軍人・政治家ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット()としても知られ、元はフランスの平民階級出身者であった。ナポレオン・ボナパルトのライバルと目された人物であり、1810年にスウェーデン議会によって同国の王位継承者に選任されたのち、第6次対仏大同盟の立役者となってナポレオンの欧州における覇権に止めを刺したことは、ナポレオンをして「世界の運命を掌中に収めたフランス人」「我らが失墜の主たる要因のひとつ」と言わしめた。1780年、ベルナドットはフランス王国海軍に兵士として入隊した。長い間下士官として軍務についた後、フランス革命の勃発により急速に昇進を遂げ、1794年には将軍に任命される。革命戦争期には幾つもの会戦と戦役にて際立った働きを見せ、短期間だがウィーン大使や陸軍大臣も務めた。1799年のブリュメール18日のクーデターでフランスの政権を握ったナポレオンに対しその後も反対姿勢をとったが、ナポレオンが皇帝に即位した1804年に和解し、帝国元帥に任命される。そしてナポレオン戦争に従軍しアウステルリッツの戦いや、ハレとリューベックの追撃戦などで戦功をたてる。また占領地の統治に関しても穏健かつ卓越した手腕を発揮した。しかしながら、ベルナドットとナポレオンの関係は緊張を孕み続けた。1810年、ベルナドットはスウェーデン議会によってスウェーデン王位継承者に選任される。カール・ヨハンと改名し、老体のカール13世に代わって摂政王太子としてスウェーデンの国政の舵取りを行うようになった。カール・ヨハンが選出された大きな理由は、1809年の戦争でロシアに割譲されたかつての領土フィンランドの奪還を目的として、フランスとの関係を強化するためであったが、新王太子はフィンランド奪還も、その後保持し続けることも不可能であると考え、政策の転換を計った。そして1812年1月にフランス軍によってスウェーデン領ポメラニアとリューゲン島が侵略・占領された事を契機として、ロシア、イギリスと同盟を結んでナポレオンに対抗する外交方針を採用した。そこでは、ナポレオンに戦いを挑む報酬としてノルウェー(当時はフランスの同盟国デンマーク領)を獲得する事で、フィンランドに代わる失地回復を実現する取り決めが成立した。1813年、スウェーデンは第6次対仏大同盟に参加し、カール・ヨハンは連合国軍北方軍総司令官として解放戦争に参戦した。ライプツィヒの戦いでナポレオンに対し決定的な勝利を収めた後にデンマークを制圧し、1814年1月14日にキール条約が締結され、ノルウェーはスウェーデン国王に割譲されることになる。その後5月17日、ノルウェーは独立を宣言し、デンマーク王の従兄クリスチャン・フレデリクが国王に選出されるものの、カール・ヨハンはこれを認めず、軍を率いて屈服させた。8月14日にが締結されて、ノルウェーの自治権と独自の憲法を掲げることを承認した上で、スウェーデンとノルウェーは同君連合となり、カール13世を君主として推戴した。1818年、カール13世の死去によって、カール・ヨハンはスウェーデン=ノルウェー連合王国の王位につく。対外的には、ロシア、イギリスという2大国の間に立って緩衝帯の役割を果たすことで勢力均衡を図ると共に、領土をスカンジナビア半島という自然国境内に保ち、欧州大陸のいかなる紛争にも関与しないことで、自国の安全と平和を確保する政策を取る。内政面においては経済の改善に注力し、財政の健全化と債務の削減を実現するかたわら、産業の振興、イェータ運河に代表されるインフラストラクチャーや、教育施設・医療機関など社会資本の整備を推進した。このように国内に物質的な豊かさをもたらす一方、1830年代以降、議会改革に関して保守的な姿勢を見せ、改革派としばしば対立した。しかしながらその治世の間、両国は内外とも安定と平和を保っていたため、彼の王朝が深刻な危機に瀕することは無かった。カール・ヨハンが打ち出した政策は、武装中立、高福祉、高教育など現代にも通じるスウェーデンの近代化の萌芽となる。ベルナドットは1763年1月26日にフランス南部ベアルン地方のポーにて5人兄弟の末子として生誕した。父親はアンリ・ベルナドットで母親はジャンヌ・ド・サン‐ジャンと言った。未熟児として生まれたため、洗礼式は後日に延ばされた。当初の名前はジャン・ベルナドットであったが、その後洗礼者ヨハネに倣って、バティストが加えられた。生まれてからすぐに乳母の下に送られ、その家で一年を過ごしている。父親のアンリ・ベルナドットは街の裁判所に勤める事務弁護士で、ベルナドットが17才の時に他界している。母親のジャンヌ・ド・サン‐ジャンは近郊の名家の出身であった。ベルナドットと実母の関係はどこかよそよそしいところがあったらしく、彼が軍に入隊したあと実家を再訪したのは一度きりであった。ベルナドットは地元のベネディクト会派の修道院に通って教育を受けた。15歳になると、地元の法律家のところへ見習いとして働きに出ている。法律家の家に生まれた事と短期間だが知的訓練を受けた事が、後年のベルナドットの優れた行政管理能力の下地となったと言われる。1780年3月に父親が死去したことで、一家は経済的苦境に陥ることになった。同年9月、ベルナドットはフランス王国海軍の連隊に入隊する。ベルナドットが所属した連隊は、コルシカ、ブザンソン、グルノーブル、ヴィエンヌ、マルセイユ、そしてレ島などに配備された。1785年6月16日、擲弾兵から伍長へと昇進、そして同年8月軍曹に至った。背が高く細身のスマートな風采をしていた事から、『美脚軍曹』とあだ名されるようになる。1784年に連隊は新しく任命された大佐を迎えており、彼は几帳面な働きぶりのベルナドットに目をかけ、新兵の教練や軍服の調達、剣術の師範といった任務を与えている。大佐のアンベール侯爵ルイ・ド・メルルはフリーメーソンの会員で、その影響でベルナドットもフリーメーソンに入会したという。1788年6月、ベルナドットの連隊がグルノーブルに駐留していた時に、そこで起きた市民の暴動の制圧にあたった。ベルナドットはちょうど曹長に昇進したばかりで、ここで初めて実戦を経験した。この暴動は後にフランス全土を覆う革命につながっていく動乱の先駆けだった。1790年2月、当時のフランス王国軍の下士官としては最高位の連隊付副官になったが、もしフランス革命が起きず、下士官と士官階級の間の身分差に基づく区別が一掃されなければ、これ以上の昇進は期待できなかっただろう。この頃、革命精神に触発された王国軍所属の兵士たちの脱走や蜂起が相次いだが、ベルナドットは軍務に従い続けた。1790年、革命の熱気が渦巻くマルセイユに駐屯していた時、上司の侯爵が貴族に反感を持つ民衆の怒りを買いリンチにあいかけたが、同僚と共に救出している。また、連隊がマルセイユ近くのランブクの町に駐留していた時には、革命に共感する兵士たちが蜂起するのを食い止めたという。同年夏、連隊はロシュフォール郊外のオレロン島に移動した。1791年、連隊はレ島にて第60歩兵連隊へと改編され、ベルナドットはそこで1年を過ごした。1792年、全ての王国軍が国民軍へと編成されると共に、ベルナドットも王国海軍の連隊での12年間の軍務を終え、新たに中尉に任命され、ブルターニュに配備された第36連隊に配属された。すぐさま彼の連隊はに組み込まれ、外国との戦いに赴く事になる。ライン方面軍はダントンの提唱する自然国境論に基づいてライン川を制圧目標とした。この自然国境論はベルナドットの領土認識に深い印象を与え、後年彼の政策上の指標となったと指摘される。連隊が東方に向かって行軍しているその時、革命は新たな段階に移行して、国民公会からの派遣議員が軍隊を監督するようになった。ヴァルミーの戦いでフランス軍が勝利を収めた後、ベルナドットの連隊はビンゲン・アム・ラインに配備され冬を越した。1793年の春、プロイセン軍がライン川を渡河して進軍して来たため、フランス軍は押されて後退した。この頃スペインが参戦して来たため、ベルナドットはピレネー方面軍に配属されるよう、故郷ポーの実兄に口利きを頼んでいる。兄への手紙の中で、ベルナドットは1793年5月にリュルツハイムにてオーストリア軍の反撃を受けた際に、いかに彼がパニックを起こした志願兵たちを防ぎ止めたか描写している。これは、ベルナドットがその後いく度も混乱した兵士たちを押しとどめ、鼓舞して軍隊を立て直した事例の最初のものだった。この後、急速に昇進を重ねていく。シュパイアーとマインツの戦いの後、兵士の選挙によって1793年7月に大尉に昇進し、わずか3週間後には中佐に任命された。この昇進はベルナドットが属する第36連隊がラインからベルギー沿岸に移動している時になされた。ウェルヴィクとメーネンにてイギリス軍と交戦し、イギリス軍の基地があるオーステンデとの連絡線を脅かした。1794年4月4日、大佐に昇進し、更にラザール・カルノーの軍制改革の結果として、第71半旅団の指揮権を委ねられる。その後ベルナドットの部隊はへと編入された。このサンブル・エ・ムーズ軍にてネイ、クレベール、ジュールダン、らと親しくなる。最初の小競り合いは不首尾に終わり、ベルナドットは部下の兵士たちが敵の前から逃げ出そうとするのを食い止めねばならなかった。ベルナドットの部下を鼓舞し規律を保つ才能は派遣議員のサン・ジュストの目を引き、彼から将軍への昇進を持ちかけられたが、この時は「その高位に見合う才能を備えていない」と辞退している。その後1794年7月26日のにて、彼の部隊は際立った働きを見せ、クレベールの後押しを得て少将に昇進する。同年10月のとの後、10月22日にベルナドットは革命軍の最高位にあたる中将に任命された。ベルナドットは一般民衆を尊重し、軍隊によって被害を被らないよう配慮をしていた。「規律が無い軍隊は勝利を手にすることはできても、その勝利を活かすことができない」を信条として、部下の兵が略奪や暴行を行わないよう厳格な規律を敷いた。1795年の戦役にてベルナドットが記した書簡からは、彼が兵士たちの食料補給のこと、傷病兵の世話についてなど、部下の福祉にも気を配っていたことが示される。また、陸軍病院の運営に関しても、傷病兵が十分な治療を受けられるよう詳細な指導を行った。1795年の冬、ベルナドットの師団がバート・クロイツナハを占領した際に数名の兵が略奪を試みた。この時代多くの将軍は陥落した街を思いのままにしていたが、ベルナドットは有罪者を罰し、被害を受けた家々には弁償している。ボッパルトで冬を越した後、ベルナドットの軍は1796年6月11日にライン川を越えてノイヴィートに進軍する。ラーン川で他の軍と集結した際にオーストリア軍の反撃を受けて、総司令官のジュールダンは全軍にライン川まで後退するよう命じた。その後ベルナドットはダルムシュタットとニュルンベルクへ進軍した。そしてアルトドルフにてジュールダンからレーゲンスブルクに向かうよう作戦指示を受ける。1796年8月22日、軍はノイマルクトとダイニングの間に位置していたが、そこでカール大公率いる優勢のオーストリア軍に攻撃を受け撤退をした。この撤退戦でベルナドットは、3〜4倍の兵力のオーストリア軍を相手にして殿軍を務めた。このような戦略上の難局を対処するのは初めての事だったが、ベルナドットは大きな犠牲を出すことなく成し遂げる。戦後、他の将軍たちと同様にジュールダンの失敗に終わった作戦に対し不満を訴えた。その後9月3日にジュールダンはヴュルツブルクにてオーストリア軍に一撃を加えるべく進軍したが、ベルナドットは病気を理由に参加していない。バイエルンから撤退後のフランス軍はライン川西岸に位置していた。1796年の秋、ベルナドットはコブレンツの総督を務めていたが、フランスの新聞にニュルンベルクにて部下に略奪を許したと不本意な内容を報じられた事に激怒して、パリに抗議に赴かせてくれるよう総裁政府に要求した。敵の街を略奪することを特段許しがたい罪とも思っていなかった政府は、当初ベルナドットの抗議を真面目に受け取らなかったが、軍を辞めると言い出したところでこの将軍の奇妙なまでの繊細さに気づき、おだてて軍に残るように説得した。またクレベールも、「自然国境まで制圧したし、ホームシックにかかったから軍を辞めたい」と言い出したベルナドットの説得にあたっている。当時の五総裁の一人カルノーは面倒な将軍がパリに来ることを好まず、兵力が足りていないイタリア方面軍に補強と称して送ることにした。こうして1797年の年初、ベルナドットはオーストリア軍と対峙しているナポレオン・ボナパルトを支援するためロンバルディアに向かうこととなる。2師団から成る総勢2万人の兵を率いて、ベルナドットはディジョン、リヨン、シャンベリを経由し、モン・スニ峠を越えてトリノに到着した。厳冬期の猛吹雪の中、大軍を率いてアルプス越えを無事成功させたことは驚くべき功績だと賞賛された。ちなみに、ナポレオンがマレンゴの戦いに向けてアルプス越えを行ったのは、これより3年後の5月である。1797年2月22日、ベルナドットの軍はミラノに入城したが、イタリア方面軍からは冷淡な扱いを受けることになる。ベルナドットはミラノ市駐留軍司令官であったから侮辱を受けたことで、彼を不敬と不服従の罪で逮捕しようとした。もっともなことではあったが、ベルナドットにとって運が悪いことに、デュプイはベルティエの親友であった。この出来事が、ベルナドットとナポレオンの参謀長との長きに渡る確執の端緒になった。その後3月3日、マントゥアにてベルナドットはイタリア方面軍総司令官のナポレオンと初対面を果たす。ベルナドットは第4師団の指揮権を与えられ、大陸軍の右翼に配備されオーストリア軍に向かって進軍した。最初の命令はタリアメント川の渡河であった。ベルナドットは部下を鼓舞して自ら凍えた川に飛び込むと、銃火をかい潜って対岸にたどり着き、オーストリア軍の不意を打って抵抗を崩した()。グラディスカの征服の際に次なる勝利を収めたが、これはベルナドットの兵力を相当消耗させる。正面からグラディスカ・ディゾンツォを攻撃した際に兵500を失い、ナポレオンはこの損失は不必要だったと見なした。かたやベルナドットはこの損失はナポレオンの不明瞭な命令によるものと捉えていた。ベルナドットはクロアチア師団を追撃し、ポストイナを占領した。ここでもベルナドットの軍隊はその振舞いの良さで現地住民からの賞賛を得た。その後フランス軍はカルニオラを占領し、ベルナドットの軍隊はナポレオンの命令でイドリヤの水銀鉱を接収する。これにより得られた300万フランは本国に送られ国庫を潤し、その後4分の1がナポレオンに還元された。他方ベルナドットも5万フランを手に入れた。その後、ライバッハからクラーゲンフルトを経てナポレオンの後に続く形でスティリアに至った。ベルナドットはグラーツのエッゲンベルク城でナポレオンと合流し、ナポレオンはそこで停戦交渉を開始した。ベルナドットにとっては、欧州のパワー・ポリティックスの舞台に初登場したことになる。1797年4月18日に停戦の合意がなされ(レオーベンの和約)、フランス軍はスティリアから撤退を始める。ベルナドットはフリウーリ州の総督に命じられ、ウーディネに司令部を置いて統治にあたった。ベルナドットにとってこの任務は、軍政と民政の両面において広域にわたる管理責任を初めて担うものであった。彼とナポレオンの関係は当初は友好的だったが、戦役を経て冷え込んで行く。ベルナドットはナポレオンの政策が「非情」で「冷笑的」なところに、ナポレオンはベルナドットの「得意げな態度」と「南部フランス人的な饒舌さ」に対しそれぞれ反感を抱いたとされる。1797年8月、ベルナドットはナポレオンの命令でパリに送られることになった。表向きの理由は獲得した敵の軍旗を総裁政府に届けることだったが、本音のところは独立心の強すぎるこの指揮官を体良く追い出すことであり、9月4日のフリュクティドール18日のクーデターへの支援も目的にあった。しかしベルナドットは政府内の策動に対して慎重な姿勢を見せ、総裁ポール・バラスがオージュローと協力してクーデターを起こすよう依頼しても拒否した。このパリ滞在中にベルナドットはスタール夫人を始めとする政界や社交界のエリート達と知遇を得ている。一方、ナポレオンはベルナドットが再びイタリアに戻って来ないよう策を巡らす。ベルナドットは南部方面軍総司令官を持ちかけられたがやる気にならず、ナポレオンが彼の第4師団を解体しようとしている噂を気にして10月に再びウーディネに戻って来た。ナポレオンはベルナドットを総司令部での夕食会に招待したが、直前にベルナドットが不遜な態度を見せたためか、その席でナポレオンは彼が古典や軍事論について無学であると非難して侮辱を与えた。この侮辱はベルナドットの心に深い痕跡を残し、その年の冬、戦術や歴史に関する本の読書に駆り立てたという。1797年10月18日、カンポ・フォルミオの和約の締結によって第1次対仏大同盟は終焉し、イタリア方面軍は再編されることになり、ベルナドットの第4師団も解体を余儀なくされる。ライン方面軍時代からの付き合いの兵もおり、家族のように愛着を感じていたためベルナドットは強く抵抗したがナポレオンは取り合わなかった。その後総裁政府はベルナドットをケルキラ島司令官に任命したが、バラスはナポレオンが共和政を覆すこと危惧し、勢力を相殺する対抗馬としてベルナドットをイタリア方面軍総司令官に任命した。ベルナドットはこの決定を喜んだが、ナポレオンは彼が後任になる事を快く思わず、代わりにウィーン駐在大使に任命させようと外務大臣のタレーランに働きかけた。1798年1月11日、ベルナドットはウィーン駐在フランス大使に任命される。この時代、外交官は実入りの良い地位だとみなされていたが、ベルナドット本人はこの人事は追放同然だとして不満に感じていたという。3月2日、彼が神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世に拝謁した際には、皇帝本人にもオーストリア宮廷にも良い印象を与えている。しかしながらフランス革命以降、オーストリアとフランスは積年の敵同士であり、オーストリア政府は前年の和約による平和も永くは保たないと考えていた。ベルナドットはオーストリア警察に見張られており、彼にとってウィーン滞在は心地の良いものでは無かった。4月13日、大使公邸の外に共和国の標章を掲げていないことを総裁政府に譴責されたため、『自由』『平等』『友愛』の標語が記された三色旗を掲げたところ、怒りに駆られたウィーン市民によって公邸が襲撃される事態に発展してしまう。群衆は公邸の窓を破壊し、三色旗を破り、火をつけて燃やした。オーストリア軍の部隊がやって来て騒動を沈静化するまで5時間かかっている。その後オーストリア側からの遺憾表明を受け取ることなく、ベルナドットは2日後にウィーンを去っている。イギリス政府はこの騒動が再びフランスとオーストリア間の戦争を誘発する可能性を予想し、オーストリア支援のためにネルソンの艦隊を地中海方面に配備させるが、結局のところ事態はそれ以上大きくならず、同艦隊はエジプト出征中のフランス軍攻撃へ転用される。フランスに帰国した後ベルナドットはパリに住居を構え、役職につくことなく休養をとった。その間熱心に読書を続けていたという。またこの時期、ナポレオンの兄ジョセフ・ボナパルトと親睦を深め、その縁でジョセフにとっては妻の妹に当たるデジレ・クラリーと知り合う。1798年8月17日、二人は結婚した。この結婚を通じてベルナドットとナポレオンは縁類として繋がりを持つことになる。またデジレはかつてナポレオンの婚約者でもあった。彼女がベルナドットとの結婚に同意したのは、彼が決してナポレオンに屈しない人物だと知らされたからだという。その年10月、ライン川東岸のギーセンに置かれた師団指揮官に任命された。その街でも市民に負担を強いることがないよう注意を払った。また彼は街の大学に関心を寄せ、ユストゥス・リービッヒ大学ギーセンから名誉博士号を与えられた。同年11月、パリに召喚されイタリア方面軍総司令官の地位を提案されるが、1年前と違い、現状でその任務を遂行するには追加の兵力が不可欠と見て取ったベルナドットはこれを断っている。結果として陸軍大臣であったが総司令官となり、ベルナドットは再び上ライン方面に戻った。翌年2月5日、監視軍総司令官に任命され、ジュールダン指揮下のマインツ軍とマッセナ指揮下のヘルヴェティア軍の支援を行うことになる。1799年3月、再びフランスと対仏大同盟諸国との戦争が勃発した。兵力の不足によりベルナドットは満足にジュールダンを支援することができず、ストレスから吐血するようになる。ジンメンで数週間休養を取った後、6月に政治的陰謀渦巻くパリに帰還した。総裁バラスはもう一人の総裁エマニュエル・シェイエスと共謀して残る3人の総裁を辞職させようとしており、リュクサンブール宮殿に集う議員たちを武力で一掃するため、ベルナドットをパリの司令官に任じようとした。しかしベルナドットは彼の幕僚やジョセフ・ボナパルトの勧めにも関わらずこの話を断った。よって前回のフレクチュドール18日のクーデター同様、彼はでは傍観者の立場にいた。イタリアにてシュレール指揮下のフランス軍が無残な状況であることを見たジョセフとリュシアンは、シェイエスに掛け合いベルナドットを陸軍大臣に任命させる。ベルナドットはしばらく躊躇したのち、7月2日から任務についた。実質的にフランス軍のトップとなったベルナドットは、連敗している軍の立て直しに精力的に取り組んだ。彼はまず官僚機構の能率化に取り組み、いかなる問い合わせに対しても24時間以内に回答を行うよう徹底させる。そして政治的理由によって遠ざけられた将軍たちを復職させた。兵の士気を高めて規律を遵守させるため、食料や衣服そして賃金が滞りなく行き渡るよう計らった。また新聞に熱烈な布告を投稿し、愛国心が揺り動かされた多くの古参兵が再度軍務に志願するようになった。加えてベルナドットは医療サービスに大きな関心を寄せ、陸軍病院の視察などその改善策を多く実行している。当時総裁であったバラスとは、マッセナがイタリアにて戦勝を得たのも、ナポレオンがマレンゴの戦いやドイツにおける戦役で成功を収められたのも、ベルナドットが整備した人員と物資に依るところが大きいと後年述べている。一方、ベルナドットはしばしば他の閣僚や総裁と対立している。兵士に払う給料も補給のための金も無いと言った財務大臣に対しサーベルを抜いて脅しをかけた事もあった。他方で総裁たちは彼がイギリス軍とロシア軍のオランダ上陸を防ぐためブリューヌ将軍に適切に兵の補強を行った模様に感銘を受けている。しかしながら、シェイエスとデュコの2総裁は、ベルナドットが急進的ジャコバン派に対し共感を寄せていると批判し、彼が熱狂的な人気を得ている様を警戒した。「政府を仕切っているのは陸軍大臣だ」「自分のことを鷲と思っている鶫がいる」とはこの頃のシェイエスの弁である。同年9月14日、現行憲法の破棄を目的としたクーデターを実行するにあたり、ベルナドットの存在を障害と思ったシェイエスらの策謀によって彼は陸軍大臣の任を解かれてしまう。1799年10月、ナポレオンはエジプト遠征から帰国しフランス国民から熱狂的な出迎えを受ける。しかしベルナドットは彼が遠征軍をクレベールに押し付ける形で置き去りにした事を問題とみなし、総裁バラスにナポレオンを軍事法廷に掛けるべきだと提言したが拒否された。ナポレオンのパリ帰還の10日後になって、周囲に押される形でベルナドットはナポレオンと面会を果たすが、お互い打ち解けることはなかった。その後も何度か対面するが、企てに取り込まれるのを避けるよう行動している。後年スタール夫人はこの時共和政を救うことができたのはベルナドットだけだったと回想している。ブリュメール18日のクーデター(1799年11月9日)当日の朝ナポレオンに呼ばれたが、平服で彼の家を訪問した。クーデターへの参加を促されたが、ベルナドットは「自ら兵を駆り立てようとはしない。ただし総裁政府ないし立法府から出動命令が出た場合には、現行憲法を守るために戦う心算だ」と返答した。結局、総裁政府からも立法府からも命令を受けなかったことから、ナポレオンを第一統領に押し上げることになるクーデターの成り行きを眺めているだけだった。クーデター後ナポレオンからの報復を恐れ、妻子と共に部下の自宅に身を隠している。こうしてブリュメール18日のクーデターによってナポレオンは1814年までフランスの政権を握ることとなり、他方ベルナドットはこの国の政治の主導者となる機会を失った。クーデターの不支持者であろうと、ナポレオンは国内の有力者を即座に排除することはなかった。1800年1月24日、ベルナドットは新たに設立された国務院議員となる。4月18日にはブリューヌの後任として西部方面軍総司令官に任命されてレンヌに司令部を置いた。イギリスの侵略から国土を防衛する意欲を持ってこの任に就いたが、着任早々にキブロン湾に上陸しようとするイギリス軍の掃討の機会を得ただけで、ヴァンデの反乱の鎮圧という気鬱な仕事に掛かりきりになった。ナポレオンが命じた王党派の頭目の捕獲はできなかったものの、前任者より穏健なやり方を用いてこの地方の平定に成功した。マレンゴの戦いへ出立する前、ナポレオンはベルナドットに対し、もし自分が戦死することがあればフランスの政権を取るよう言い送っている。これは自身が死亡した場合に備えベルナドットに一族の保護者としての役割を期待したと推察されている。1802年の春まで公的には西部方面軍の総司令官であったが、国務院議員の職務のため多くの時間をパリで過ごした。他方ナポレオンは政治体制の権威主義的性質を強めていき、1802年の8月には終身統領に就任する。この間、ナポレオンに対する陰謀がいくつか明るみになっており、ベルナドットがそれらに関与した形跡はないものの嫌疑をかけられるようになった。陰謀の嫌疑と彼のナポレオンの政策に対するあけすけな批判は両者の関係を緊張させることになる。このような環境から抜け出すためか、ベルナドットは再び戦場に赴くことを希望したが、1800年12月3日のホーエンリンデンの戦いにてモロー将軍が勝利を収め、リュネヴィルの和約が締結されて第2次対仏大同盟は終焉する。1801年の4月、ベルナドットは西部方面軍に戻り、彼の望んだイギリス侵攻計画が上がったものの、同年秋に政府はイギリスとの講和準備を始めたため計画は実行されず落胆する。またハイチ反乱の鎮圧に派遣されたがったが、これはナポレオンの義弟ルクレールに任されることになった。他方、コンスタンチノープル駐在大使を持ちかけられたものの、外交官はもう懲りたのか断っている。この年、コンコルダート(政教条約)によってナポレオンがカトリック教会との関係修復を行ったことは、ナポレオンが絶対権力者としてフランスに君臨することを危惧する軍人や政治家の不満を駆り立てた。1802年の1月、憲法改正が行われ、それにより統領政府は20人の自由主義者をパージした。その中にはスタール夫人と親しいバンジャマン・コンスタンらも含まれていた。スタール夫人曰く、このパージの後、ベルナドットは他の将校や政治家達から、現政権の独裁傾向を食い止めるよう促されたという。ベルナドットは法的手段を用いた対策をいくつか提案した。そのひとつは第1統領を譴責できる代理委員会を組織し、権力行使に制限を加えるというものだったが、しかし委員に進んでなろうとする人物を見つけることは難しかった。ベルナドット自身は、反ナポレオン活動は法律の範囲内で行うものと常に主張していた。これに関しては回顧録にて、ベルナドットはナポレオンの生命に関わる企てには必ず反対していたが、彼の支援者の中には謀反に等しい行動を取る者がいたと述べている。その年の3月にアミアンの和約が締結されたことでパリには無役の軍人が溢れかえった。ナポレオンの専制政治に不平を持つ軍人たちは、モロー、マッセナ、ベルナドットらに期待をかける。この頃ナポレオンは注意を要する人物に見張りをつけており、ベルナドットもフーシェ、ザヴァリー、ダヴーらそれぞれから監視の対象となる。5月、モローの友人の大佐2人がナポレオン暗殺を企てた嫌疑でダヴーに逮捕された。彼らはすぐに釈放されたが、これはモローとベルナドットへの牽制目的で仕込まれたことで、ベルナドットとダヴーの因縁の起源となった。同じ年レンヌにて彼の部下だった将校数名が、ナポレオンに対抗するため軍人たちに決起を促すビラを配布しょうとした罪で逮捕された事件は、ベルナドットが関与した明確な証拠はなかったものの、ナポレオンは彼の無遠慮な体制批判が部下のこのような行為を引き起こしたとして激怒した。ナポレオンはベルナドットを遠ざけるためフランス領ルイジアナの総督に任命する。ベルナドットもこの頃本気でアメリカ移住を考えていたためラファイエットに相談するなど前向きにその準備をしたが、彼が要求した3,000人の入植者と兵を伴う条件をナポレオンが拒絶したため任命は撤回される。1802年12月、ナポレオンのベルナドットに対する苛立ちは頂点に達し、タレーランの計らいでアメリカ駐在大使に任命することで本腰入れて追い出しにかかる。しかしながら翌年ナポレオンがルイジアナをアメリカ政府に売却したことと、アミアンの和約が破られ再びイギリスと交戦状態になったためこの話も白紙に戻ることになった。パリに戻ったベルナドットはその後1年近く無役のままで過ごした。この頃、イギリス大使がロンドンに帰還した際、ナポレオンが死亡した場合、モロー、マッセナ、ベルナドットの3頭体制の政権が出来るだろうと報告をしている。そして同卿はこの3頭政権は他の大陸国家との戦争勃発を防いで平和に貢献するだろうとの興味深い意見を述べている。ただ、モローとベルナドットはもはや共和政再興は不可能と考えていた。その代替としてモローは王党派に共感を寄せ、結果的にカドゥーダルの陰謀に連座する形でアメリカに追放された。他方ベルナドットはブルボン朝よりはナポレオンの方がまだましだと思っており、政治体制を専制政治から立憲政治へと転換させることで、ナポレオンが「クロムウェルではなくワシントンの先例に倣う」ことを希望したという。1804年の春、ベルナドットは未だにナポレオンに批判的な将軍の一人と目されていた。その年5月、ベルナドットはナポレオンに招かれ自分の味方をするよう説得を受ける。その場でナポレオンは、共和政は過去のものであり、革命の成果を守るにはフランスを帝政の下に再構築するしかないと指摘したという。この時の心境をレカミエ夫人に「選べる道はひとつしかありませんでした。私は彼に好意を持つことはできないが、忠実に協力すると約束しました。そしてこの言葉を守るつもりです」と告げている。この『和解』の後の1804年5月14日、ハノーファー軍総司令官と総督に任命された。そしてナポレオンが皇帝に即位するのと同時に帝国元帥の称号を与えられる。1804年6月17日、ベルナドットはハノーファーに到着し、市民の歓迎を受けた。ライン方面軍時代の彼の軍隊の規律の行き届いた様はハノーファー市民の耳にも届いていたのである。そしてベルナドットは、自主性、穏健さ、行政管理能力において高い評判を得ることになる。着任してから数週間のうちに、市政府とゲッティンゲン大学に対して前任者より公正な管理を行った。また、税制の公正化も行っている。1804年の秋、フランスは北ドイツの領邦から3万ポンドを没収し国庫に納めたが、ベルナドットはハノーファー市の財政負担を減らすため、その金額をハノーファー駐留軍の軍資に回してもらうようナポレオンに願い出てその許可を得ている。加えて、1804年の冬から1805年の春にかけ、組織的に穀物を輸入することで飢饉の救済にあたった。ベルナドットの高い評判は他の同僚たちと対照をなすものであった。この当時、フランス軍の将軍の多くは占領地にて諸々のやり方で私腹を肥すのを常道としていたのである。ハノーファーにてベルナドットは長期にわたる独立した軍の指揮権と軍政・民政両面の管理を経験し、これは彼の将来のキャリアにとって試金石となった。1805年8月、第3次対仏大同盟が結成されたことで、ナポレオンは大陸軍を東方に向けて進軍させた。ベルナドットはハノーファーから15,000の兵を率いてワルツブルクへ移動し、そこにてバイエルン人兵20,000と合流し、双方の兵力から成る第1軍団を構成しその司令官となった。後にウルムの戦役と呼ばれるこの戦役にて、ベルナドット第1軍団はフランス軍の左翼を担い、が率いるオーストリア軍の退路を断つよう行動する。第1軍団はゲッティンゲン–ヴュルツブルク間の350kmをわずか10日で駆け抜けるという驚異的な行軍をしたにも関わらず規律を保っていた。9月27日にヴュルツブルクに到着し、5日の休息の後アンスバッハを経てインゴルシュタットまで行軍した。アンスバッハは当時中立国であったプロイセン領であり、ベルナドットは領土侵犯に際し現地住民に負担を与えないよう注意を払った。10月12日、第1軍団はミュンヘンを占領し、1,500人の捕虜を得た後、ロシアのミハエル・クトゥーゾフ軍に対して迎撃態勢をとった。10月20日のウルムの戦役におけるフランス軍の勝利の後、ベルナドットはクトゥーゾフに向かって進軍する。10月30日、第1軍団はザルツブルクを占領した。そこからメルクに移動し11月14日までにドナウ川を渡りクトゥーゾフ軍を攻撃するようナポレオンの命令を受けたが、メルクまでは200kmに渡る複雑な地形を行軍せねばならず、またドナウ川は増水していたうえ舟橋もなく軍団の渡河に時間を要し、ドナウ川北岸に辿りついたのは16日になった。結果的にクトゥーゾフを取り逃がすことになったとしてナポレオンは激怒した。皇帝は兄のジョセフに対し、「ベルナドットは私に1日を無駄にさせた。世界の命運をかけた1日を」と怒りの心境を述べている。ドナウ川を渡った後、ベルナドットの軍団は北に向かい、モラヴィアにて決戦となることを見越してイグラウに拠点を置いた。11月の末までに、オーストリアとロシア両軍85,000兵はブルノとオロモウツの間に集結していた。ナポレオンの戦略はベルナドットの第1軍団とダヴーの第3軍団による陽動で、敵軍に小規模な軍勢と対峙していると思わせることだった。11月29日、ベルナドットは第1軍団内のフランス人兵を率いてアウステルリッツに向けて行軍するよう命令を受ける。12月1日の夜、元帥たちはナポレオンの総司令部に集結し順々に指示を受けた。皇帝の幕僚のは、ナポレオンがベルナドットに指示を与えた時の態度は「よりそっけなく、より横柄だった」と回顧している。アウステルリッツの戦い当日12月2日の正午過ぎ、1,000のロシア騎兵がプラツェン高地を駆け上るスールト元帥の軍団を急襲しフランス軍の戦列を破ろうとした。その時ベルナドットは北に向かって離れた位置にいたが、フランス軍の防衛線が脅かされているのを見て、自己判断で1師団をスールトの援護に送った。この行動はナポレオンの期待通りに戦いの趨勢を変化させる。戦闘終了後、皇帝は前夜とは態度を変えて、第1軍団の戦勝への貢献に満足を見せた。オーストリアとのプレスブルクの和約の後、ナポレオンはベルナドットをアンスバッハの総督に任命する。アンスバッハにおいてもベルナドットは公正な行政官として評判を残した。この時期、皇帝は親族に対し占領地を貴族の称号とともに分配しており、周囲はベルナドットもアンスバッハ公爵に叙爵されるのではと予想していたが、代わって1806年7月6日、ポンテ・コルヴォ公に叙爵された。ポンテ・コルヴォは教皇領に属していたイタリアの小さな街で、ナポリ王となったジョセフの王国に組み込まれていた。ナポレオンはマッセナかベルナドットのどちらに与えるか悩んだが、最終的にベルナドットを選んだという。ナポレオンはベルナドットの叙爵についてジョセフに「これは貴方の妻君を思ってのことだ。もっと良く仕えてくれて信頼の置ける忠実な将軍はいる。しかしナポリ王妃の義弟が宮廷で相応の地位にある方が望ましいと思ったのだ」と述べている。そこから得られる収入は他の領地と比べ特段多いものではなかったが、この叙爵は同僚たちからの嫉妬を駆り立てたと言われる。1806年の秋、ベルナドットは第1軍団を率いてプロイセンとの戦役に従軍する。ナポレオンの命令は、ニュルンベルクにて兵21,000を集結させたのちミュラの騎兵とともに、先鋒となってプロイセンの同盟国ザクセン選帝侯領のライプツィヒに向けて進軍し、次いでベルリン攻撃に向かうというものだった。ベルナドットとミュラの後にはダヴーの第3軍団が続く予定だった。10月12日、ブラウンシュヴァイク公率いるプロイセン軍が自身の予想より遥か西方にいる事を知ったナポレオンは当惑し、その後斥候から届けられる情報に応じて頻繁に作戦変更を行った。ベルナドットの第1軍団は足場の悪い森の中を北東に向けて120kmにわたり行軍しており、ナポレオンから遠く離れていたため作戦変更に即座に反応しづらい状況だった。また参謀長ベルティエを通して送られる不明瞭な命令書や、互いに近い位置にいたダヴーとベルナドットの間の良好とは言えない関係も状況を難しいものにした。10月14日、プロイセンとの戦闘が開始された際、ベルナドットは、アウエルシュタットにてプロイセン軍の主力と戦っているダヴーを支援するよりも、イエナで戦っている皇帝本軍と合流しようと試みた。しかしながら結局ベルナドットは、砲5門と1,000人の捕虜を得る働きをしたものの、後年イエナ=アウエルシュタットの戦いと呼ばれる会戦に参加することはできなかった。後年ナポレオンはベルナドットがダヴーへの嫉妬から援軍要請を断ったと非難し、彼を軍事裁判にかけるため執行令状にサインをしたもののジョセフやジュリー、デジレの事を思い取りやめたと述べているが、この見解に対して、むしろナポレオン自身に過失があったと異論が唱えられている。実際のところ、ナポレオンは作戦立案を総司令部に集中させすぎたあまり、元帥たちは作戦の全体像を把握できていなかった。ナポレオンとベルティエが敵主力の位置を読み間違えるという深刻なミスを犯したことのスケープゴートとしてベルナドットが槍玉にあがったという見方もされている。その後ベルナドットはプロイセン軍の追撃を命じられ、3日後の10月17日ハレにてヴュルテンベルグ公率いる優勢のプロイセン軍を打ち破った()。ただしこの戦功は総司令部では喜ばれなかったという。戦闘終了3日後にハレに立ち寄ったナポレオンは戦場の光景を見て、「ベルナドットは手段を選ばない。いつかあのガスコン人は捕らえられるだろう」との謎めいた発言をしている。次いでベルナドットは北ドイツを150km横切って10月22日にエルベ川を渡り、その3日後にブランデンブルクを押さえた。そして11月6日、ミュラとスールトの軍団と共にプロイセン軍が逃げ込んだリューベックを攻略し、シャルンホルスト、ブリュッヘルらプロイセンの将軍たちを捕虜とした()。戦闘終了後、リューベックの街はフランス兵による大規模な暴行と略奪の対象となった。本来戦争とは無関係であるはずの中立都市を襲った悲劇は国際社会の憐憫を誘ったという。ベルナドットは麾下の兵を押さえ込み、略奪を行った者は罰する旨通告を行ったことで、市当局から感謝され馬6頭を贈与された。このリューベックにて、プロイセン軍の援軍として来ていたスウェーデン兵1,500が捕捉される。ベルナドットはスウェーデン人捕虜を寛大に扱い、彼らを母国に帰還させるよう命じた。スウェーデン軍の指揮官であったはベルナドットの宿舎に同宿しもてなしを受けた。その時ベルナドットはスカンジナビアの情勢に興味を示したという。スウェーデン軍人たちは感銘を受け、母国に帰還したのち、いかにポンテ・コルヴォ公が公平公正にリューベックの治安維持に取り組んだか周囲に告げて回った。プロイセンは敗北したものの、ロシアとは依然として戦争を続けており、ベルナドット第1軍はリューベックを発ってポズナンに向かうよう命令を受けた。霙が降りしきる悪天候にも関わらず、200kmを35時間で踏破している。ポズナンにてナポレオンから大陸軍の左翼を任され、その際ネイとベシエール両元帥を指揮下に置くこととなった。本人曰く「世界最悪の土地」でベルナドットは2ヶ月以上率いるロシア軍と対峙しあった。トルンとグロンド間の街道における競り合いにてベルナドットの軍は名を挙げたが、補給が十分でなく、他の指揮官達と共に皇帝に対し冬営を敷くよう促した。しかしベニグセン軍は冬にも関わらず攻撃を仕掛けてきており、12月26日のではランヌ元帥の第5軍団に著しい損害を与えていた。オスターオーデにある第1軍団の前線基地も急襲されたが、ベルナドットが素早く反撃に出たため1807年1月25日のにてロシア軍を破り勝利を収めることができた。ちなみに敵将のベニグセンはハノーファー出身で、コサック兵に奪われたベルナドットの私物を「元帥のハノーファーにおける善政に敬意を表して」戦闘終了後に返還してきている。ナポレオンはベニグセンを罠にかけようとしたが、ロシア軍はフランス軍の伝令を捕まえてその作戦を知り、北東のケーニヒスベルグに向かって後退した。伝令がベルナドットに届かなかったことで、彼は2月7日から8日にかけてのアイラウの戦いに参加できなかった。アイラウの戦いにてフランス軍は3人に一人が戦死ないし負傷しており、ナポレオンはベルナドットが参加していればこの損害は免れたと詰った。しかし次第にこの責任はベルナドットにはなく、ベルティエの伝令の出し方の不注意によるものと認識されるようになった。ナポレオンはアイラウの戦いの後、ベルナドットに送った手紙の中で第1軍団の貢献を誉めそやし、ポーにいる彼の兄に年金とレジオン・ド・ヌール勲章を贈与して機嫌を取っている。しかし以前からベルナドットは総司令部からの命令が度々遅れて届くことに神経をとがらせていたという。1807年6月、ベニグセン軍とベルナドット第1軍団はエルブロンクにて戦闘を始めた。ベルナドットはシュパンダウに急行し、6月4日、ロシア軍による攻撃を撃退した。翌日、彼がシュパンダウにてフランス軍の海岸堡防衛の指揮をとっている時、マスケット弾を首に被弾し重傷を負う。落馬したものの、首に弾丸をめりこませたまま馬上で指揮を取り続けようとしたという。怪我の治療のためフリートラントの戦いは不参加となったが、ティルジットの和約の頃には回復しておりその式典に参加した。7月のティルジットの和約の後、ベルナドットはハンザ都市総督および総司令官に任命されハンブルクに司令部を置いた。ベルナドットはこの新しい任務を歓迎したものの、第1軍団の指揮権は新たに元帥に任じられたヴィクトルに委ねられることになった。これ以降ベルナドットが軍団規模のフランス兵の指揮権を与えられることはなかった。ナポレオンはベルナドットに、大陸封鎖令を北ドイツに施行させ、各港湾都市とイギリスとの貿易を阻止し、代わりにフランスと通商を行わせるよう命じた。更に、イギリス軍のデンマーク上陸を阻止し、そしてイギリスから補助金を得ているスウェーデンへの侵攻の準備をするよう命令を受けた。しかしベルナドットは大陸封鎖令を厳格に施行することは、各都市の財政に深刻な影響を与える事に気づいており、商人たちは彼が取り締まりに関して柔軟なやり方を用いたことに大いに感謝した。ベルナドットのハンブルク着任後すぐの1807年9月にイギリス艦隊によるコペンハーゲン攻撃が起きたが、その時点では彼にはデンマークを支援するための軍隊が備わっていなかった。10月に締結されたデンマーク−フランスの同盟によって軍の配備が容易になり、ベルナドットはオランダ兵の分遣隊をユトランドに、スペイン人軍をフューン島に移した。1808年の2月、ベルナドットはスウェーデンのスコーネを攻めるべくスペイン兵、オランダ兵、デンマーク兵、フランス兵から成る混成軍団を組織した。しかしこの軍団はユトランドからそれ以上動くことはなかった。ティルジットにてナポレオンはアレクサンドル1世に第2次ロシア・スウェーデン戦争でロシアのフィンランド獲得の支援を行うと約束していたものの、ナポレオンはロシアの迅速な勝利を望まなかった。ロシアがバルト海方面にかかり切りで、ポーランド以南に野心を向けない方が都合が良いと考えたためである。またベルナドットの方もスウェーデン侵攻を回避しようとしていた。麾下のスペイン人兵の忠誠心を信用しておらず、加えてスカンジナビアをフランスの軍事力で制圧することの重苦しさに理由を見出せなかった。ハンブルクに滞在している間にベルナドットはスウェーデンの事情に精通し、ナポレオンに対し、スウェーデン貴族の内部では親フランス・反デンマークの派閥が影響力を持っており、それゆえフランスがデンマークに肩入れしすぎることは、スカンジナビア情勢を見誤ることになると報告している。1808年8月、デンマークに駐留しているスペイン兵9,000が半島戦争にて母国を支援するため、イギリス艦隊に乗り込んで脱走した。スペイン人兵の脱走は、ナポレオンが命じたデンマーク諸島における部隊の散開も無関係ではないが、脱走したスペイン兵の指揮官のに信用を置いていたベルナドットも責任を負うものだった。ナポレオンはイベリア半島に親征に向かうにあたり、ダヴーにライン方面軍の総司令官としてほぼフランス兵からなる90,000の軍団を残し、事実上ドイツの統治者としての権限を与えた。他方ベルナドットは、北ドイツとデンマークの港湾の防衛用に12,000兵を与えられたのみで、しかもそのうちフランス兵は定員に満たない1師団だけだった。ダヴーは大陸軍内に諜報網を張り巡らせており、ベルナドットは自分への手紙がダヴーに開封されたことを知り憤慨している。再び大陸にて戦争の気配が高まるのと同時にベルナドットは体調を崩し、ひどく血を吐くようになる。妻デジレも心配して看病にやって来た。ベルナドットはナポレオンからハノーファーにのフランス人師団を伴って移動すること、更にドレスデンに行軍し、そこでザクセン軍と合流して第9軍団を編成し指揮をとるよう命じられた。ベルナドットは皇帝に健康上の理由で軍務に就くことは難しいと訴えた。また4年前バイエルン兵を率いた際に相互間の誤解が作戦行動を困難にした経緯があり、今回の戦役でも意思疎通と士気の両面において不利になる外国人兵を軍の主力として指揮するよう命じられたことに不満を述べた。実際、1805年にはバイエルン兵、07年にはポーランド兵、08年にはオランダ兵、スペイン兵、デンマーク兵そして09年にはポーランド兵とザクセン兵という様に、フランス兵と混成だったケースもあるものの、ベルナドットには外国人兵ばかり割り当てられているとの指摘がされている。またベルナドットは参謀長ベルティエ経由で送られる命令に矛盾があること、また遅いタイミングで送られてくることに不満を募らせていた。このような采配には、数年来パリにて嫡子のいない皇帝の後継者としてベルナドットの名前が噂されていたこともあり、かつての政敵であるベルナドットのフランス軍内部の影響力を削ぎ、かつ名声を得る機会を与えまいとするナポレオンの政治的意図があったのではと推測されている。いずれにせよ、一連の出来事はベルナドットのプライドと繊細な神経を圧迫したことは間違いなかった。結局ベルナドットの訴えは受け入れられず、1809年3月、彼は健康状態が悪いにも関わらずハノーファーとドレスデン間の500kmを6日で移動した。3月22日にザクセンの首都ドレスデンに到着したが、ザクセン王ですら彼の任命を知らされておらず、遅れてベルティエからその通知書が届けられた。また彼は自分への命令書がダヴーの司令部を通して送られていることにも怒りを覚え、軍を辞めるとまで言ってナポレオンに不平を伝えたが無視された。また合流したザクセン軍が鍛錬されておらず、実戦投入が厳しいことを繰り返し皇帝に訴えている。ナポレオンはベルナドット第9軍団に16,000のザクセン兵を伴ってオーストリアにやってくるよう命令を出した。だがナポレオンはドレスデンを無防備なままにさせたため、ベルナドットが出立した後にオーストリア軍によって街が略奪されてしまい、その事は第9軍団のザクセン兵の士気を著しく低下させる。第9軍団は1809年4月16日にドレスデンを出立し、ベルティエの一貫性のない指示に従って5月17日にリンツに到着する。ではヴュルテンベルク軍ら他のドイツ人兵も指揮し、オーストリア軍の撃退に成功した。リンツに数週間留まった後、ザンクト・ペルテンの総司令部に到着する。デュパの師団を予備役として与えられたことでベルナドットのザクセン兵に対する不安は部分的に補われた。ドナウ川を渡った後、1809年7月5日の午後にベルナドットの軍団はアーデルクラー村を押さえた。19時、ナポレオンはヴァグラム村を奪取するよう、ウディノ、ウジェーヌ、ベルナドットに命令を出す。しかしその時、総攻撃に踏み切るには各軍の足並みも態勢も整っていない状態であった。ベルナドットはラスバッハ川を渡ってヴァグラム村のオーストリア軍を攻撃するよう命令を受けて、援護のためにデュパ師団を投入しようとしたところ、それらがベルティエによってウディノの軍団に回されたことを知った。第9軍団は歩兵、砲兵の兵力が弱い状態であり、2度に渡ってナポレオンに増援要請をしたが拒否されたため、その状態で攻撃を敢行したザクセン軍は大きな損害を被り、アーデルクラー村に退却する。またヴァグラム村では薄暗がりの中同士討ちが起きたという。7月6日の朝、ベルナドットの軍団はアーデルクラー村を引き払い後退した。皇帝はベルナドットに対しマッセナの軍団と共にオーストリア軍に占領された村を再度奪回するよう命じた。戦闘が再開されたがザクセン軍は陣を持ちこたえられず潰走する。最もザクセン軍だけではなく、この時はマッセナ軍団も潰走していたとの指摘もある。ベルナドットが潰走する兵の群れに馬を乗り入れ、再度戦列を立て直そうと試みている最中に皇帝がその場にやってきた。両者の間で激しい言い争いがあったが、ベルナドットはその3日後までザクセン軍の指揮を取り続けている。ベルナドットのザクセン軍はヴァグラムの戦いにおいて高い代償を払うことになった。彼らのうち3分の1以上が負傷ないし戦死している。戦闘終了後の数日間ベルナドットは負傷者の救護に当たった。彼は皇帝の発した戦勝の布告の中でザクセン軍が不当にも無視されていると感じ、別の布告を発して彼らの奮闘を称賛した。ナポレオンはそれを知ると、ベルナドットが「健康上の理由」でパリに帰還することを許可した。実際のところ、皇帝の著しい不興を被ったことは明らかであった。7月25日、ベルナドットはパリに帰還した。その3日後イギリス軍がフランス軍基地のあるアントワープを目指してにて上陸を開始する。8月12日、警察長官のジョセフ・フーシェがベルナドットに国民軍を率いて防衛にあたるようナポレオンからの命令を伝えた。ベルナドットがアントワープに到着した8月15日、街の状況は混乱を極めており彼は広域にわたる守備体制を組織する。しかしイギリス軍はマラリアのため自滅しており、街が攻撃されることはなかった。その後、ベルナドットは新しい布告を発し、国民軍の勇気と愛国心を賞賛した。ナポレオンはその話を聞くと、折しも共和主義者がベルナドットを担いで政権打倒を目論んでいるとの噂を耳にしたことから、彼とフーシェが自分に対して謀略を巡らしていると疑念を抱いた。そこで彼をパリから遠ざけようと、オージュローと交替でカタロニア方面軍総司令官に任じようとした。これはナポレオンが最後までベルナドットの軍事的才能を見限っていなかった証拠と言える。ベルナドットが着任を断ったところウィーンに呼び出されたため、はるばる1,350kmを9日かけて移動し、10月9日、シェーンブルン宮殿にて皇帝と面会した。ナポレオンはベルナドットに対し論争の的となっている諸々の行動について説明するよう求めた。ナポレオンから、スウェーデン攻撃を自身の裁量で差し控えたことを咎められると、「欧州で陛下を心から慕っている国民はもはやスウェーデン人とポーランド人だけではありませんか!」と言い返したという。ナポレオンはベルナドットをローマ総督に任命した。ベルナドットは拒否できなかったが、健康のためにしばらく休みを取らせて欲しいと伝えた。そしてウィーンよりパリに帰還した後公務につくことはなく、幾分面目を失いつつ、事実上退役した状態で過ごした。おそらく起源をブリュメール18日のクーデタ
出典:wikipedia
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