秋月型駆逐艦(あきづきかたくちくかん)は、太平洋戦争中に日本海軍が対空戦闘用に建造した駆逐艦の艦級。計画時の名称から「乙型駆逐艦」、各艦名から「月型」とも呼ばれる。第四次海軍軍備充実計画(マル4計画)で6隻、出師準備第一着作業建艦計画(マル急計画)で10隻、第五次海軍軍備充実計画(マル5計画)で16隻(後に改マル5計画へ改訂の際23隻に増加)の合計39隻の建造が計画され、それらのうち12隻が竣工した。なお、仮称艦名第361号艦以降を「冬月(ふゆつき)型」、仮称艦名第365号艦以降を「満月(みちつき)型」として区別するものもあるが、日本海軍の正式な類別は冬月および満月も『秋月型駆逐艦』である。本稿では便宜上の分類も一括記載する。マル5計画艦(仮称艦名第770号艦から同第785号艦)および改マル5計画艦のうち最後の7隻(仮称艦名第5077号艦から同第5083号艦)については改秋月型駆逐艦を参照のこと。開戦前、航空機の脅威の認識に差はありつつも航空機対策として各国では軍艦に対空機銃や高角砲を装備するようになった。その中ではイギリス海軍が1935年(昭和10年)から旧式化していたC級軽巡洋艦の中から状態が比較的良好な艦を防空巡洋艦に改装し、当時としては破格の防空能力を備えた艦を誕生させた。これに影響を受けた各国海軍は防空専門艦の建造や、既存の旧式艦の改装を計画し始め、C級巡洋艦の改装で経験を得たイギリス海軍はその後ダイドー級軽巡洋艦の建造を実行に移し、アメリカ海軍もまた防空専門艦の建造計画を推進し、結果アトランタ級軽巡洋艦を建造した。日本海軍でも旧式化していた天龍型軽巡洋艦や5,500t級軽巡洋艦を改装し防空巡洋艦とする案も出され、昭和天皇にも奏上した。実際、候補になった艦の船体のサイズはC級軽巡と類似しており、また、川内型軽巡洋艦と長良型軽巡洋艦を除く軽巡は老朽化のため退役が予定されていたため理論上可能であった。だが、当時の日本海軍は水雷戦隊の編成を優先しており、退役予定の艦も必要ならその任務に動員する予定だったためこの改装案は見送られた。他にも、多額の予算をつぎ込んで候補の船を改装しても能力不足となってすぐに第一線での任務をこなせなくなっては意味がないと考えられた。また、イギリス海軍の様に第一線での任務をこなせなくなった艦を船団護衛等の輸送船護衛任務に投入することを考慮していなかったため、それを実行しても費用対効果が低いと判断された。他にも新たに防空巡洋艦を建造するという計画が立てられたが、建造コストの高さから防空巡洋艦の建造計画は中止された。ただし防空艦の必要性は認識していたようであり、建造コストが安くできる駆逐艦で防空艦を実現することが計画された。そういった経緯を経て、1939年(昭和14年)秋月型の建造が開始されたのである。設計主務者は松本喜太郎である。最終的に日本海軍は乙型駆逐艦(本型)を量産し、大和型戦艦・改大和型戦艦・航空戦隊の護衛に配備する予定だった。当初の要求では、とあり、艦種も「直衛艦」となっていたが、速度と航続距離の要求を満たした場合、重油搭載量は1,200トン、排水量は4,000トンを突破することになる。最終的に、最大速度は33ノット、航続距離は8,000カイリと縮小されることになるが、軍令部が対艦戦闘もできるように魚雷装備をもとめたため、4連装魚雷発射管の装備が決定し、艦種は「駆逐艦」に変更されて建造されることとなった。従来海軍が採用していた八九式40口径12.7センチ高角砲に替わり、九八式65口径10センチ高角砲を装備している。この砲は、口径サイズこそ以前のものより小さいが口径長は長く、より長射程、高初速の砲となった。通説では、砲身そのものの寿命(砲身命数)は短く、12.7センチ砲が約1,000発なのに対し、10センチ砲は350発と三分の一程度となっており、寿命の短さの対策として砲身を艦の設備でも交換できる用にしたと言われているが、それを実現すると構造が複雑化するため、実際はその設計が行われなかったとも言われる。仮にできたとしても予備砲身を積んだ記録が確認できないため、少なくともそういった運用は考慮されていなかったと思われる。砲の性能は高く、最大射程19,500メートル・最大射高14,700メートル・発射速度毎分19発というものであり、八九式12.7センチ砲に比べ、いずれも1.4倍以上の能力向上を誇った。だが、揚弾薬装置も長時間の使用で故障を生ずる可能性があり、その場合は人力で運ばねばならなかった。砲側照準による目標の捕捉も可能であるが、実戦では難しいのが実情だった。性能面では申し分のないものであったが、生産能力の関係から、秋月型と同時期に計画された空母大鳳や軽巡大淀に装備するのが精一杯であり、装備できた艦は少数に留まった。ただし、大鳳と大淀では秋月型のような密閉砲塔型ではなく波除けや煤煙除けを目的とする簡易的な防盾を設けたものとなっている。なお、制式採用された中では最新の九四式高射装置が備え付けられていたが、米軍の射撃指揮装置・MK(マーク)37射撃指揮装置(GFCS)がレーダー測距を可能としていたのに比し、射撃用レーダーを持たず、対空目標との距離測定及びその照準追尾は光学による人力であり、高角砲のコントロールも人手に拠ったため射撃の精度は乗組員の錬度に頼る点が大きかった。当初の計画では九四式高射装置は前部と後部の2箇所に計2機装備するとなっていたが、実際には艦橋上の前部にのみ装備されて1機で全砲塔の射撃を指揮することとなり、後部に装備した艦は無かった。後部高射装置部分には外筒のみ装着されていたが中身はなく、測距儀の出っ張りも無かった。この部分は後の機銃増備時に機銃台に転用された。秋月型では、秋月・照月・涼月の竣工時には電探は装備されていなかった。秋月では1943年8月26日付訓令により、1943年11月はじめまでに前マスト上に21号電探を1基追加装備した。これに伴い前部マストが設計変更されている。初月から冬月は竣工時から21号電探を装備しており、涼月も同時期に増備したと考えられる。21号電探は大型の対空電探であり、戦艦・航空母艦といった大型艦から装備が始まり、後に巡洋艦にも装備されるようになったが、駆逐艦で装備したのは秋月型のみである。秋月では1944年7月上旬、後マスト上に13号電探を1基追加装備した。「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」にて、他の秋月型各艦でも同様に増備されていたことが確認できる。13号電探は小型・軽量な対空電探だったため、他の駆逐艦にも装備された。1944年10月のレイテ沖海戦の前後に前マストから21号電探を撤去し、跡に13号電探1基と22号電探1基を増備した艦があった。13号電探は前後あわせて2基となる。涼月・冬月では時期が不明だが写真でこの増備されたことが確認でき、霜月は戦闘詳報で両方とも装備している事がわかる。春月以降の艦は新造時よりこの形態をとった。秋月はこの増備を行う前に戦没した。22号電探は小型・軽量な対水上電探で他の駆逐艦にも装備された。他の日本海軍の艦艇全般に共通することだが、電探を装備していても主砲・機銃を電探に連動させる照準装置が開発されていなかったことは秋月型でも同じだったため、射撃における電探の効力は限定されたものとなった。それでも機数・編隊・方向・距離がわかるため、対空戦闘には不可欠の装備となっていた。秋月型以前の駆逐艦の機関配置は、艦首側から見て「ボイラー・タービン・減速機」とし、それぞれを隔壁で分離するという配置であった。しかし秋月はボイラーの後に「左舷側タービン+減速機」その後ろに「右舷側タービン+減速機」となっている。通常の配置だと、艦のスペースを有効に使える代わりに、どれかにトラブルや被弾すると航行不能になるのに対し、後年建造される松型駆逐艦が採用するシフトエンジン方式ほどではないが、ボイラーが破壊されない限り、航行ができ残存性が高まることになる。ただしレイテ沖海戦で小沢機動部隊に所属していた霜月は至近弾による浸水を左舷機械室外側の重油タンクが喰いとめた例を紹介し、重油タンクのない右舷側後部で浸水があった場合、機械室が一気に浸水する危険性を指摘している。また、軽巡夕張以降採用されている「誘導煙突」を駆逐艦として初めて(そして唯一)採用しており、艦の大きさやシルエットが夕張と似ているため、1942年(昭和17年)6月、1番艦秋月が竣工した。以降、終戦までに12隻が竣工するが8番艦の冬月以降は工期短縮のため日本海軍独特の各所の曲線曲面形状を取りやめ、直線平面形状となっている。実際そういった簡略化による性能低下は無視できる程度だったといわれる。また仮称艦名第365号艦(「満月」)以降は、鋼材規格の低下も実施された。なお、下記のサブタイプ分けは資料によって諸説ある(後述参照)。戦時補充計画(マル急計画)での建造中止艦(仮称艦名 - 予定艦名 - 備考)改マル5計画での建造計画艦(仮称艦名 - 予定艦名)秋月型は戦時中に建造されたため、戦没と新造艦の編入が錯綜し、フル編成が完結する機会は少ない。新月は駆逐隊編入の機会がないまま第八艦隊に単艦で編入されて戦没している。秋月型最終ロットが竣工する頃には、すでに艦隊行動が不可能になっており、駆逐隊も解隊されるものが続出した。このため、春月は当初より護衛戦隊の第103戦隊旗艦、花月は第31戦隊旗艦となっており、新月と合わせ3隻が駆逐隊に属していない。結果的に第六十一駆逐隊・第四十一駆逐隊の2個駆逐隊が編成された。機動部隊である第三艦隊第10戦隊での活動がほとんどを占め、戦争末期には第二艦隊の第二水雷戦隊に所属し、主力駆逐艦らしい戦歴を重ねている。横須賀鎮守府に所属した秋月・照月で編成した最初の秋月型主体の駆逐隊。第10戦隊に属して機動部隊の直衛を担うはずであったが、編成時の秋月は第四水雷戦隊旗艦としてガダルカナル島の戦いに参加、照月は南太平洋海戦以降機動部隊と分離して第三次ソロモン海戦等の水上戦闘に参加した。涼月・初月の追加を待たず照月が戦没したほか、秋月や涼月が長期間の修理を要する被害を受けており、4隻体制を維持すること自体が困難だった。若月の戦没により、残るは本土で修理を完了した涼月のみとなったために解散した。マリアナ沖海戦に備えて単艦で第10戦隊に編入されていた霜月に第十一水雷戦隊での練成を終えた冬月を加えて昭和19年7月15日に編成した。レイテ沖海戦前に冬月が大破したため、駆逐隊単位での行動はほとんどなく、六十一駆から転入した涼月と修理が完了した冬月が菊水作戦に参加したのが駆逐隊として唯一の作戦行動である。菊水作戦によって、両艦とも損傷を蒙ったため、稼動できるのは追加された宵月と夏月だったが、燃料の払底のために活動することはなかった。終戦の日に陽炎型駆逐艦の雪風を編入している。戦後の武装解除時に解隊した。これは古賀彌(本艦初代艦長)が戦後記述した文章が基となっている。しかし艦艇研究家の田村俊雄も調査の中で、以上により、艦橋上の1基しかなく同時に2機の目標に照準を合わせることは不可能だったとしている。また別の記録として宇垣纏連合艦隊参謀長の「戦藻録」では、9月29日に秋月がブカ島でB-17爆撃機2機と交戦、1機を撃墜し「防空駆逐艦の価値を始めて発揮せり」と記述している。このことについて田村は同じく調査の中で、以上から「通説は日本のみで言われていることではないか」と推測している。「警報を発した」説は、福井静夫が雑誌「丸」昭和46年12月号に寄稿した記事にある。この記事において福井は「ソロモン海域に新鋭艦が出現したという警報は、ただちに全軍にたっせられたらしい。」と、あくまでも伝聞として記述している。
出典:wikipedia
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