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網走番外地 (東映)

『網走番外地』 (あばしりばんがいち)は1965年4月18日、東映の製作・配給により劇場公開された刑務所映画。主演高倉健。監督石井輝男。東映。公開時の併映は鶴田浩二主演の 『関東流れ者』。シネマスコープ。モノクロ92分。冬の網走駅。汽車を降ろされた男たちは、トラックに乗せられ網走刑務所へ護送される。受刑者であり主人公の橘真一も腰縄で他の囚人たちとつながれていた。入所後、雑居房に入れられた橘は、殺人鬼“鬼寅”の義兄弟と称して幅を利かせていた牢名主の依田や同じ新入りの権田と衝突、喧嘩の責任をとって懲罰房に送られる。一人になった橘は、幼かった自分と妹を飢えさせないために母が不幸な再婚をしたこと、養父の横暴に耐え切れず母と妹を残して家を出たことを回想する。都会へ出てやくざとなった彼は、渡世の義理で人を斬り3年の刑期を宣告され網走刑務所に送られたのだった。入所から半年以上が過ぎ、真面目に労役に汗を流す橘を囚人たちは点数稼ぎとして冷ややかに見る。仲間への意地から騒動を起こし再び懲罰房へ行かされる橘に対し、保護司の妻木だけは親身になって相談に乗る。故郷の妹からの手紙によると、母が死の床にあり1日も早く戻ってほしいという内容であり、同情した妻木は仮釈放の手続きを約束してくれた。一方、雑居房では依田、権田たちが脱走計画を練っており、密告すれば渡世の仁義を踏みにじるイヌとされ、巻き込まれた場合は仮釈放もないため橘は苦悩する。この脱走を直前になって失敗させたのは同じ雑居房にいた阿久田老人であり、彼の正体こそ“鬼寅”だと明かされる。鬼寅は橘の苦境を見抜き、命がけで彼を救ったのだった。翌日、森林伐採の労役でトラックに乗せられた依田らは無蓋の荷台から飛び降りる。権田と手錠でつながれた橘も彼と一緒に飛び出して脱獄囚とされてしまう。報告を聞いた妻木は、やっともらった橘の仮釈放認可の書類を破り捨て二人を追う。橘と権田の前には地平線まで続く大雪原が広がっていた・・・。1962年か1963年ころ、当時東映の専属だった三國連太郎が網走刑務所から囚人が脱獄を企てた計画があったことを知り、この囚人脱走計画の事件をモデルに、自ら『網走監獄の脱走』という企画を岡田茂東映東京撮影所長(当時)に提出したのが本作の始まり。三國は当時、岡田が深作欣二や石井輝男らを使って当てていた“ギャング物”“現代アクション路線”の延長上にある“娯楽アクション映画”であることを強調し、自身はまだ独立プロを興して間がないため、自ら監督はやらず、『天草四郎時貞』(1962年)で組んだ大島渚を推薦した。岡田も賛成し、「大島監督に一発ホームランを打たせてやれるようなものにしたい」と企画は了承された。企画窓口は俊藤浩滋、脚本は大島と石堂淑朗、主演は三國と俊藤がマネージメントしていたアイ・ジョージで進められていたが、東映上層部は『天草四郎時貞』を興行的に惨敗させた大島への不信感が強く、この企画を監督させなかったといわれる。その後、三國主演・佐藤純彌監督で『脱獄』と仮題がつけられた企画が浮上したが、岡田が東映の“ギャング物”の延長の企画に、暗い三國の主演はふさわしくないと中止させたといわれる。岡田は『天草四郎時貞』の興業的失敗は三國にも責任があると考えていたようで、後に『仁義なき戦い』の山守義雄役を"鶴の一声"で三國から金子信雄に代えさせた逸話は有名である。主演に三國の可能性がなくなった以上、もともと企画が三國であったから、そのままの形では使えず、そこで目をつけたのが伊藤一が1950年代前半に網走刑務所で1年数か月服役し、出所後、その経験をもとに1956年「網走番外地」という名で出版した実録物の小説であった。本作は、1959年に日活で、原作をほぼ忠実に映画化した同名の映画『網走番外地』が封切られていたが、東映版は、三國が持ちこんだ企画にあてはまるプロットを自在にふくらませただけで、伊藤一の小説からは題名を拝借しただけであった。当初の企画がギャング物の延長である以上、東映東京にギャング物というドル箱を打ちたてた石井輝男に白羽の矢が立った。石井は、かねてより温めていたスタンリー・クレイマー監督の米映画 『手錠のまゝの脱獄』(1958年)を巧みに換骨奪胎して脚本を書き、主演には石井とのコンビ作を連打していた高倉健を起用して映画化された。思わぬヒットでシリーズ化が決定するが、クレジットには三國の名はない。自らが興した独立プロで自身が監督した『台風』の配給を東映に拒否され、それでも契約関係にあった東映作品に出演していた三國は、主力映画が任侠映画路線へと傾斜していく東映には自分の出番はないと思い、その翌年には東映との契約関係を解消し、完全にフリーとなった。企画は今田智憲東京撮影所長(当時)。1965年の年始め、今田が石井に「『網走番外地』って、すごくいい歌があるんだ。網走刑務所の受刑者の間で歌い継がれてるらしいんだけど、これで何かできないだろうか」と、話を持って来た。石井は「実はそのときすでに、私の前作『顔役』でその歌を使っていたんですが、歌の好きな今田所長は別のところで知ったのかもしれません。日活も映画化した原作を読みましたが、これはかなり甘い話で気に入らなかった。新東宝時代から私が温めていた『手錠のまゝの脱獄』をヒントにした話をこの企画にかぶせたら、今田所長もノッてくれたので脚本を書いたんです」と話している。こうして石井は、題名を生かしながら『手錠のまゝの脱獄』の日本版ともいえるものに書き替えた。高倉健の代表作として有名であるが、高倉は最初はゴネていて監督の石井と岡田茂取締役(当時)は「主演は丹波哲郎でいく」と打ち合わせしていたといわれる。本作はそもそも添え物の企画であった。併映の京都撮影所製作による『関東流れ者』はカラーだったが、本作は最初カラーで企画されながら「主役の高倉健が脱獄囚であり、ヒロインにあたる女優が登場せず、ラブロマンスもないため興収を見込めない(だから当たりそうもない)」という理由で、石井が北海道のロケハンより戻ってきたときには「予算はカット、添え物の白黒映画にする」と決定した。それに対し、何とかカラーで撮らせてくれと執拗に迫った高倉健に対し、大川博社長は「文句があるなら主役を梅宮辰夫に変えるぞ!」と言い放ったという。"東映番外地"にされた撮影クルーは、氷点下30度の北海道士別などでの撮影に臨んだ。『網走番外地』は大ヒットして続編『続 網走番外地』が製作されたが、次はカラーでとスタッフは勢い込んだが、再び大川社長は「白黒でやれ」と言われた。今田所長は困り果てた挙句、本作とは全く関わりがない俊藤浩滋に頼み、俊藤が大川社長に直談判してようやくカラー撮影の許可が降り以降はカラー作品となった。シリーズ作品は二年半の間に10本作られたため、興行は最後の頃は落ちてきた。このため1967年末封切りされた『網走番外地 吹雪の斗争』で、一旦終了と決定した。ところが東映の館主会で「高倉健と俊藤プロデューサーが組んだ網走番外地を撮って欲しい」という要望が出た。岡田から頼まれたが「冗談やない。ひとのやった企画をいまさらやれるかいな」と断ったが「いや、それは困る。館主会の決定なんや」と押し問答の末、岡田に押し切られ、俊藤のプロデュースで「新網走番外地」シリーズがその後8本製作された。大雪原の脱走、トロッコによる追跡劇、列車による手錠切断から大団円まで主演の高倉健が演じきり、スターダムに駆け上がった。この頃の石井・高倉コンビの映画は世の中から浮き上がってしまったチンピラや殺し屋が体当たりで敵にぶつかって命を散らしていく内容が多く、『東京ギャング対香港ギャング』『ならず者』『いれずみ突撃隊』で高倉の骨太なヒーロー像は確立していった。石井は高倉のよさを生かしながら泥臭くならない二枚目半の魅力を引き出している。石井は本作での高倉について、「やっぱり若さがあるし溌剌としてますよね。現在(2001年)は、この頃とはまた違うイメージに定まっておられますけれども。だから僕なんかは出来ればもう一度ギャング役なんかを演ってもらいたいと思います」と語っている。2005年に監督の石井輝男が死去すると、その生前の希望を尊重して網走市内に墓碑が建てられ、遺骨が納められることとなった。墓碑には高倉健によって“安らかに 石井輝男”という碑文がしたためられた。また、石井の功績を讃えて博物館網走監獄の正門前に石碑が建てられ、2006年8月6日に除幕式が行われた。石井が所有していた網走番外地の台本等は、同博物館に寄贈された。共演の丹波哲郎、南原宏治、安部徹、田中邦衛と並んで、嵐寛寿郎が演じた“八人殺しの鬼寅”は映画史に残る名キャラクター。石井が監督した千葉真一主演映画の『直撃地獄拳 大逆転』(1974年)には、セルフ・パロディとしてアラカン演じる“鬼寅親分”が登場する。本作当時の東映映画の「惹句(じゃっく)」(キャッチコピーのこと)には力の入ったものが多く、このシリーズもまた例外ではない。第1作のコピーは“どうせ死ぬなら 娑婆で死ぬ”、第3作『望郷篇』のコピーは“生きていたならおふくろが 人を殺しちゃならないと 俺のほっぺたぬらすだろ”といった具合である。また『新網走番外地 さいはての流れ者』のポスターは、横尾忠則による高倉健のイラストであった。本作『網走番外地』は興行的にヒットし、シリーズ化されて一年の間に続編が矢継ぎ早に製作された(第2作『続』からは、カラー作品となっている。なお第1作と『続』との間に、ストーリー上のつながりは無い)。以下に見られるように、‘65年度、‘66年度の二年にわたり、シリーズ各作品が邦画興行収入のベストに上がる快挙である。※1965年度 (65年4月〜66年3月)、1966度(66年4月〜67年3月)日本民間放送連盟の1959年内部規定(要注意歌謡曲指定制度)に基づき、「刑務所を美化している」という理由から放送禁止指定を受けていたが、映画公開同年(1965年)にテイチクがレコード制作基準倫理委員会(レコ倫)を通さず発売して業界内で問題視された。その後なし崩し的に、同年にキング、1969年にテイチク、1970年にキング、1971年にクラウンから発売されたが、1972年に各社間での協議により以降レコード化しないという自主規制の取り決めが交わされ、1980年代末に同制度が廃止されるまで発売・放送不可になっていた。なお、NHKはいまだに放送できない、という指摘もある。原曲は1931年に橋本国彦が作曲しビクターから発売された「レビューの踊子」である。東映宣伝部のOBで当時JASRACの事務局長をしていた吉田信が、岡田茂東映取締役(当時)のところに来て、子分だった山田栄一を紹介し「こいつあんまり仕事がないんだよ。頼む」と言い、山田が曲を持ってきて「『網走番外地』はこれでやりませんか。詞は作者不詳なんですが、流行ってるみたいです。うちがこれでものにしちゃえば、著作権うちのものになりますから」と話し、曲を聴いた上で岡田が使用を決めた。「網走番外地」発売時に橋本は亡くなっていたので、作曲者として名乗りを上げる事が出来なかった。レコード売上は公称200万枚。企画者の今田智憲が固執したのは主題歌で、しかも企画の段階から「健さんに歌ってもらえないかなあ」と言っていた。無類の照れ屋である高倉が断るのは決まっているのは誰でも予想できたので、石井監督に説得を頼み何とか了解を得た。この高倉の歌なくして『網走番外地』にヒットはなかったといわれる。高倉はシリーズ全てでこの主題歌を歌いテイチクからレコードも出してこれまた大ヒットした。高倉の他にも何人かレコードを出したがヒットしなかった。前述のように本作の前に石井が撮った『顔役』(1965年1月3日公開)という映画にも使われた。日活版の『網走番外地』には歌はなく『顔役』で初めて映画の中で歌われた。映画で最初に歌ったのは三田佳子で、三田が『顔役』でオルガンを弾いて歌ったりして、次第に知られるようになっていた。これより少し前NHKのドキュメンタリー番組『現代の映像』1964年8月16日に放送された「兄貴と若い衆」というタイトルの回で、若い衆が網走刑務所で覚えた歌として、ギターを弾きながらこの曲を歌った。この番組は高視聴率だったという。『網走番外地』のチーフ助監督だった内藤誠が、NHKに番組で使ったテープを借りるため、金を持ってNHKを尋ねたが、金は受け取ってもらえず、先の若者に渡してくれと6000円の商品券を置いて帰ったという。

出典:wikipedia

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