井上 純(いのうえ じゅん、1970年6月8日 - )は宮城県出身の元プロ野球選手(外野手)。1988年、東陵高校時代は大会屈指のスラッガーとして、3年生時に当校の甲子園初出場(夏の甲子園に出場)に貢献。宮城県大会決勝の東北高校戦では3ラン本塁打を放って東稜高校の甲子園初出場に貢献した。初戦の福井商業高校に敗退したものの打撃力と俊足を評価され、横浜大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)から3位指名を受け入団。(同期入団は谷繁元信、石井琢朗など)入団当初「屋鋪要よりも速い」と評されたほどの俊足や、高校通算打率3割・38本塁打の打撃で期待されたが、プロの壁は厚くレギュラー争いに食い込めず。1995年はキャンプでの打撃フォーム改造が奏功し、9月にプロ初本塁打。その後は徐々に打撃技術が向上し、代打の切り札として一軍に定着。1998年は波留敏夫の欠場もあり前半戦は中堅手として大いに活躍する。打席数こそ少ないものの打率.330の好成績を残した。西武との日本シリーズ第5戦、8番DHでスタメン出場。チームは38年ぶりのリーグ優勝・日本一。1999年も打率3割をマークし、プロ入り後最多の4本塁打を放った。2001年も3割をクリアするなど、少ない出場機会の中で確実に成績を残した。2002年は腰痛や足の故障、若手の台頭により出場機会が激減。年齢的な面もありシーズンオフに戦力外通告を受けた。2003年にはロッテのテストを受け入団。花粉症の影響で、オープン戦やシーズン開幕直後は極度の不振。そのため当初は期待外れと酷評されたが、シーズン中盤からは大車輪の活躍。9月には3番スタメン出場が定着していた。8月19日に故郷仙台での西武戦で森慎二投手より本塁打を打ったが、これは高校3年の県大会の決勝で打った本塁打(前述)と同様のコース、同様の直球、同様のスウィングで打ったものだった。 この年はプロ入り後最高の成績を収めた。 2004年は春先に受けた死球の影響で調子を落とすものの、復活後はベテランらしい活躍を見せる。前年同様に主軸として活躍し、自己最高の24打点をマークした。2005年はかつての所属球団である横浜とのセ・パ交流戦で古巣横浜スタジアムのレフトスタンドに本塁打を放つ。この年は打率が1割台と苦しんだが、プレーオフ第2ステージ第5戦で、8回裏から左翼手の守備に着き、リーグ優勝のウイニングボールを捕球。チームは阪神との日本シリーズも制し、31年ぶりのリーグ優勝・日本一を手にした。2006年はアジアシリーズでの1試合4三振などの屈辱をバネにフォームを改造。これが功を奏し、絶好調な状態で開幕を迎え5番を打ったこともあったが、夏に近づくにつれ調子を落とし、10月2日に戦力外通告を受け、現役を引退。2006年10月16日に古巣の横浜ベイスターズ二軍、湘南シーレックスの外野守備走塁コーチに就任。背番号90。2010年からは一軍外野守備走塁コーチを務め、2011年は再び二軍外野守備走塁コーチを務めた。8月16日に行われたイースタン・リーグのロッテ戦で審判員に暴行したとして退場処分を受けた。2012年は就任したばかりの中畑清監督の下で一軍打撃コーチを務め打率リーグ最下位、得点5位と低迷し同年退団。2013年からは地元宮城で楽天イーグルスのベースボールスクールジュニアコーチに就任。2014年頃からJ SPORTSプロ野球中継の楽天主催試合(球団制作映像)の一部で同ジュニアコーチ複数名が解説者を兼任するようになり、井上も年間数試合程度ながら解説を行うことがある。1998年に横浜の38年ぶりの日本一、2005年にロッテの31年ぶりの日本一と、セ・パ両リーグで30年以上優勝から遠ざかっていたチームのリーグ優勝、日本シリーズ制覇(日本一)を経験するという珍しい経歴の持ち主。千葉マリンスタジアムでのスコアボードの表記は、2003年は同姓の井上貴朗が在籍していたため、「井上純」と表記されていたが、井上貴朗が退団した2004年以降は「井上」となっていた。それでも「じゅん」という親しみやすい名前で、彼が打席に入ると井上コールの合間に「じゅん!」と合いの手が入っていた。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。