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硫黄島の戦い

硫黄島の戦い(いおうとうのたたかい、いおうじまのたたかい、, 1945年2月19日 - 1945年3月26日)は、太平洋戦争(大東亜戦争)末期に東京都小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間で行われた戦いである。アメリカ軍側の作戦名はデタッチメント作戦()。1944年8月、グアムの戦いにおいてグアム島をほぼ制圧し終えたアメリカ軍は、日本本土攻略に向けた次の攻撃予定として、同年12月20日にフィリピンのレイテ島(のちのレイテ島の戦い)に上陸、翌1945年2月20日にはルソン島(のちのルソン島の戦い)もしくは3月1日に台湾上陸、との作戦計画を立案したが、台湾か沖縄かはこの時点では決定されていなかった。しかし、アメリカ海軍太平洋艦隊司令部ではすでに1944年9月にレイモンド・スプルーアンスの献策から、台湾攻略は補給能力の限界に達していることと日本本土への影響力行使の観点から、意味がないと判断した。レイテ沖海戦において、日本海軍は大敗北を喫したため戦闘能力はなくなり、台湾攻略の戦略的な価値が下がったが、アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサーは依然として台湾攻略を主張していたため、統合参謀本部で海軍と陸軍は真っ向から対立した。その中、陸軍航空軍のヘンリー・アーノルドがより効果的な日本本土への戦略爆撃が可能になることから硫黄島攻略の意義を唱え、10月2日に硫黄島攻略という基本戦略が40日後の沖縄上陸(のちの沖縄戦)への前提としてアメリカ軍全体の方針となった。これを受けて、1945年2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が艦載機と艦艇の砲撃支援のもと開始された。上陸から約1か月後の3月17日、栗林忠道陸軍大将を最高指揮官とする日本陸軍の激しい抵抗を経てアメリカ軍は同島をほぼ制圧、3月21日、日本の大本営は17日に硫黄島守備隊が玉砕したと発表する。しかしながらその後も残存日本兵からの散発的な遊撃戦は続き、3月26日、栗林忠道大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅、これにより日米の組織的戦闘は終結した。日本軍に増援や救援の具体的な計画は当初よりなく、守備兵力20,933名のうち96%の20,129名が戦死あるいは戦闘中の行方不明となった。一方、アメリカ軍は戦死6,821名・戦傷21,865名の計28,686名の損害を受けた。大東亜戦争(太平洋戦争)後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計)実数が日本軍を上回った稀有な戦いであり、また、硫黄島上陸後わずか3日間にて対ドイツ戦(西部戦線)における「史上最大の上陸作戦」ことノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)における戦死傷者数を上回るなど、フィリピンの戦い (1944-1945年)や沖縄戦とともに第二次世界大戦屈指の最激戦地の一つとして知られる。硫黄島は、東京の南約1,080km、グアムの北約1,130kmに位置し、小笠原諸島硫黄島村に属する火山島である。島の表面の大部分が硫黄の蓄積物で覆われているところからこの島名がつけられた。長径は北東から南西方向に8km未満、幅は北部ではおよそ4km、南部ではわずか800mである。面積は21km²程度、最高点は島の南部にある標高169mの摺鉢山である。土壌は火山灰のため保水性はなく、飲料水等は塩辛い井戸水か雨水に頼るしかなかった。戦前は硫黄の採掘やサトウキビ栽培などを営む住民が約1,000人居住していた。日本軍は1941年12月の大東亜戦争(太平洋戦争)開戦時、海軍根拠地隊約1,200名、陸軍兵力3,700ないし3,800名を父島に配備し、硫黄島をこの部隊の管轄下に置いていた。開戦後、南方方面(東南アジア)と日本本土とを結ぶ航空経路の中継地点として硫黄島の重要性が認識され、海軍が摺鉢山の北東約2kmの位置に千鳥飛行場を建設し、航空兵力1,500名および航空機20機を配備した。1944年2月、アメリカ軍はマーシャル諸島を占領(ギルバート・マーシャル諸島の戦い)、トラック島へ大規模空襲を行い、多数の艦艇や航空機を含む日本海軍の兵力を粉砕した(トラック島空襲)。日本の大本営はカロリン諸島からマリアナ諸島、小笠原諸島を結ぶ線を絶対国防圏として死守することを決定する。防衛線の守備兵力として小畑英良陸軍中将の指揮する第31軍が編成され、配下の小笠原地区集団司令官には、太平洋戦争緒戦の南方作戦・香港攻略戦で第23軍参謀長として従軍、攻略戦後は留守近衛第2師団長として内地に留まっていた栗林忠道陸軍中将が任命され就任した。硫黄島には3月から4月に増援部隊が到着し、総兵力は5,000名以上に達した。1944年夏、アメリカ軍はマリアナ諸島を攻略し(マリアナ・パラオ諸島の戦い)、11月以降、従来は中国大陸から行っていたB-29爆撃機による日本本土への長距離爆撃を同地から開始した(日本本土空襲)。しかし、小笠原諸島は日本本土へ向かうB-29を見張り、無線電信で報告する早期警戒システム(防空監視所)の監視拠点として機能していた。特に硫黄島からの報告は最も重要な情報源であった。これにより、日本軍は本土上空で戦闘機をB-29迎撃に向かわせることができた。また、B-29のマリアナ諸島からの出撃では飛行距離が片道約2,000kmと長距離であるため護衛戦闘機が随伴できず、さらに日本上空で損傷を受けたり故障したり航法ミスによりB-29がマリアナ諸島までたどり着けず海上に墜落や不時着することも多かった。そして、しばしば日本軍の爆撃機・四式重爆撃機「飛龍」や銀河、一式陸上攻撃機が硫黄島を経由してマリアナ諸島にある飛行場を急襲し、地上で駐機中のB-29に損害を与えていた。とりわけ、12月には硫黄島を飛び立った第一御楯特別攻撃隊の機銃掃射によって、サイパン島のイスレイフィールド・アスリート両飛行場で11機のB-29が破壊され、8機が大きな損害を受けた。そのため、アメリカ統合参謀本部は、等を目的として、硫黄島の占領を決定した。フィリピンにおけるレイテ島の戦いが終わりに近づくと、沖縄侵攻までの2か月間に行う作戦計画として硫黄島攻略が決定され、一連の進攻作戦は「デタッチメント作戦」と命名された。1944年5月、小笠原方面最高指揮官として栗林忠道陸軍中将は父島へ赴任した。当初は要塞のある父島に司令部を置くことになっていたが、情勢を調査した結果、アメリカ軍は飛行場適地がある硫黄島へ進攻すると判断した。硫黄島には陸軍の伊支隊と海軍部隊が所在していたが、(陸軍部隊は)他の在小笠原方面部隊と併せ22日に第109師団(兵団文字符:「膽」)に改編、師団司令部と主力も硫黄島に移動した(硫黄島に混成第2旅団、父島に混成第1旅団、母島に混成第1連隊を配置)。制空権と制海権を持つアメリカ軍に対して、硫黄島が長く持ちこたえることができないことは明白であったが、栗林中将は上陸部隊にできるだけ大きな対価を支払わせ、日本本土への進攻を1日でも遅らせる決意をしていた。防衛計画の第一歩として軍人・軍属を除く民間人全員の疎開が7月後半までに完了した。次に、島の全面的な要塞化が立案された。地上設備は艦砲射撃や爆撃に耐えられないため、天然の洞窟と人工の坑道からなる広範囲な地下坑道が建設されることになった。同年6月26日、大本営直轄部隊たる小笠原兵団が編成された。これは第109師団以下の陸軍部隊を「隷下」に、第27航空戦隊以下の海軍部隊を「指揮下」とし、兵団長は栗林中将(第109師団長)が兼任した。この帝国陸軍の小笠原兵団が硫黄島守備隊であり、その主な基幹部隊としては新たに増強された同守備隊唯一の歩兵連隊(他の歩兵戦力は既存の独立歩兵大隊)である歩兵第145連隊(連隊長・池田増雄陸軍大佐)、同じく九七式中戦車(新砲塔)と九五式軽戦車を主力とする戦車第26連隊(連隊長・西竹一陸軍中佐)があり、またその他の有力部隊として、秘密兵器である四式二十糎噴進砲・四式四十糎噴進砲(ロケット砲)を装備する噴進砲中隊(中隊長・横山義雄陸軍大尉)、九八式臼砲を装備する各独立臼砲大隊、九七式中迫撃砲を装備する各中迫撃大隊、一式機動四十七粍砲(対戦車砲)を装備する各独立速射砲大隊が配属されていた。ペリリューの戦いにおいて、中川州男陸軍大佐の日本陸軍守備隊は地下陣地を活用して長期の抵抗に成功したが、栗林中将はこの戦術をさらに発展させた。1944年6月8日の栗林中将硫黄島着任前は、タラワの戦い・マキンの戦い・サイパンの戦いなどで行われた、一般的なバンザイ突撃の為の陣地構築が進められていたが、同月20日には中将はそれを無意味かつ貴重な資材や時間の無駄な浪費として撤回させ、内陸部に誘い込んでの持久戦や遊撃戦(ゲリラ)を基本方針(後退配備)とし、23日には陸軍の伊支隊は後方陣地構築に転換した。しかしながら、これに対して同島の千鳥飛行場確保に固執する海軍側(同島守備隊および大本営海軍部)から極めて強硬な批判が起こり(水際陣地および飛行場周囲へのトーチカ群の構築を進言等)、陸軍側(栗林中将)が譲歩する形で一部の水際・飛行場陣地構築を約束することとなる(海軍提供資材をもって陸軍が構築協力。栗林中将自身は持久戦(後方・地下陣地構築)方針は一切変更しておらず、水際・飛行場陣地用海軍提供資材の半分を後方・地下陣地構築に転用している)。なお、海軍が要求したこれらの水際・飛行場陣地はアメリカ軍の砲爆撃によって、わずか十数機の海軍機・飛行場機能ともども早々に壊滅した反面、陸軍の地下陣地は耐えぬき活用されている。栗林中将は後方陣地および、全島の施設を地下で結ぶ全長28kmの坑道構築を計画(設計のために本土から鉱山技師が派遣された)、兵員に対して時間の7割を訓練、3割を工事に充てるよう指示した。硫黄島の火山岩は非常に軟らかかったため十字鍬や円匙などの手工具で掘ることができた。また、司令部・本部附のいわゆる事務職などを含む全将兵に対して陣地構築を命令、工事の遅れを無くすため上官巡視時でも作業中は一切の敬礼を止めるようにするなど指示は合理性を徹底していた。そのほか、最高指揮官(栗林中将)自ら島内各地を巡視し21,000名の全将兵と顔を合わせ、また歩兵第145連隊の軍旗(旭日旗を意匠とする連隊旗)を兵団司令部や連隊本部内ではなく、工事作業場に安置させるなどし将兵のモチベーション維持や軍紀の厳正化にも邁進した。しかしながら主に手作業による地下工事は困難の連続であり、激しい肉体労働に加えて防毒マスクを着用せざるを得ない硫黄ガスや、30°Cから50°Cの地熱に曝されることから連続した作業は5分間しか続けられなかった。清水の入手方法が雨水程度のため、将兵は塩辛く硫黄臭のする井戸水に頼らざるを得ず、激しい下痢に悩まされた。またアメリカ軍の空襲や艦砲射撃による死傷者が出ても、補充や治療は困難であった。「"一掘りの土は一滴の血を守る"」を合言葉に作業が続けられたが、病死者、脱走者、自殺者が続出した。坑道は深い所では地下12mから15m、長さは摺鉢山の北斜面だけでも数kmに上った。地下室の大きさは、少人数用の小洞穴から、300人から400人を収容可能な複数の部屋を備えたものまで多種多様であった。出入口は近くで爆発する砲弾や爆弾の影響を最小限にするための精巧な構造を持ち、兵力がどこか1つの穴に閉じ込められるのを防ぐために複数の出入口と相互の連絡通路を備えていた。また、地下室の大部分に硫黄ガスが発生したため、換気には細心の注意が払われた。栗林中将は島北部の北集落から約500m北東の地点に兵団司令部を設置した。司令部は地下20mにあり、坑道によって接続された各種の施設からなっていた。島で2番目に高い屏風山には無線所と気象観測所が設置された。そこからすぐ南東の高台上に、高射機関砲など一部を除く硫黄島の全火砲を指揮する混成第2旅団砲兵団(団長・街道長作陸軍大佐)の本部が置かれた。その他の各拠点にも地下陣地が構築された。地下陣地の中で最も完成度が高かったのが北集落の南に作られた主通信所であった。長さ50m、幅20mの部屋を軸にした施設で、壁と天井の構造は栗林中将の司令部のものとほぼ同じであり、地下20mの坑道がここに繋がっていた。摺鉢山の海岸近くのトーチカは鉄筋コンクリートで造られ、壁の厚さは1.2mもあった。硫黄島の第一防衛線は、相互に支援可能な何重にも配備された陣地で構成され、北西の海岸から元山飛行場を通り南東方向の南村へ延びていた。至る所にトーチカが設置され、さらに西竹一中佐の戦車第26連隊がこの地区を強化していた。第二防衛線は、硫黄島の最北端である北ノ鼻の南数百mから元山集落を通り東海岸へ至る線とされた。第二線の防御施設は第一線より少なかったが、日本軍は自然の洞穴や地形の特徴を最大限に利用した。摺鉢山は海岸砲およびトーチカからなる半ば独立した防衛区へと組織された。戦車が接近しうる経路には全て対戦車壕が掘削された。摺鉢山北側の地峡部は、南半分は摺鉢山の、北半分は島北部の火砲群が照準に収めていた。1944年末には、島に豊富にあった黒い火山灰をセメントと混ぜることでより高品質のコンクリートができることが分かり、硫黄島の陣地構築はさらに加速した。飛行場の付近の海軍陸戦隊陣地では、予備学生出身少尉の発案で、放棄された一式陸攻を地中に埋めて地下待避所とした。アメリカ軍の潜水艦と航空機による妨害によって建設資材が思うように届かず、また上述の通り海軍側の強要により到着した資材および構築兵力を水際・飛行場陣地構築に割かざるを得なかったために、結局坑道は全長28kmの計画のうち18km程度しか完成せず、司令部と摺鉢山を結ぶ坑道も、残り僅かなところで未完成のままアメリカ軍を迎え撃つことになった。だが戦闘が始まると地下陣地は所期の役割を十二分に果たすことになる。日本軍の増援部隊も徐々に硫黄島へ到着した。栗林中将はまず大須賀應陸軍少将指揮下の混成第2旅団5,000名を父島から硫黄島へ移動させた。旅団長は12月に千田貞季陸軍少将に交代する。サイパン陥落に伴い、池田益雄大佐の指揮する歩兵第145連隊2,700名も硫黄島へ転進した。海軍ではまず第204建設大隊1,233名が到着し、速やかに地下陣地の建設工事に着手した。8月10日、市丸利之助海軍少将が硫黄島に着任し、続いて飛行部隊および地上勤務者2,216名が到着した。次に増強されたのは砲兵であり、1944年末までに75mm以上の火砲約361門が稼動状態となった。なかでも帝国陸軍の新兵器・ロケット砲(噴進砲)である、四式二十糎噴進砲(弾体重量83.7kg・最大射程2,500m)、四式四十糎噴進砲(弾体重量509.6kg・最大射程4,000m)および、緒戦の南方作戦(シンガポールの戦い等)から実戦投入され、大威力を発揮していたスピガット・モーター(差込型迫撃砲)である九八式臼砲(弾体重量約300kg・最大射程1,200m)などは、航空爆弾に相当する大威力をもつと同時に発射台が簡易構造なことから、迅速に放列布置が可能で発射後はすぐに地下陣地へ退避することができるという利点を持っていた(また、この噴進砲・臼砲は独特かつ大きな飛翔音を発するため友軍および敵軍に対する心理的効果も備えていた)。これらの火力は通常の日本軍1個師団が保有する砲兵火力(師団砲兵)の4倍に達しており、また特筆する点として重榴弾砲(九六式十五糎榴弾砲等)や加農(九二式十糎加農・八九式十五糎加農等)といった長射程の重砲ではなく、輸送や操砲が容易で面積が狭い硫黄島での運用に適し、隠匿性に優れる迫撃砲・ロケット砲が集中運用されていることが挙げられる。これらの火砲は海空からの支援や補給が絶望的な日本軍守備隊の貴重な大火力であり、また比較的小口径の対戦車砲や野砲も地形を生かした放列布置により多数の戦車・装甲車を撃破する等、実戦で特に活躍することとなる。しかしながら、海岸砲を主体とする摺鉢山の火砲陣地のみ、海軍の不手際によって敵軍上陸を迎える前に全滅している(同山に展開していた海軍管轄の海岸砲が、栗林中将が事前に定めていた防衛戦術を無視しアメリカ軍の事前砲撃時に発砲を行い、その結果火砲位置を露呈してしまい反撃を受けたため)。さらに、北満駐屯ののち釜山へ移動していた戦車第26連隊が配備された。連隊長は騎兵出身でロサンゼルス・オリンピック馬術金メダリストである、「バロン西」こと男爵西竹一陸軍中佐で、兵員600名と戦車(九七式中戦車・九五式軽戦車)計28両からなっていた。26連隊は陸軍輸送船日秀丸に乗り7月中旬に本土を出航したが、7月18日、父島まで250kmの海上でアメリカ海軍のガトー級潜水艦コビアの雷撃によって撃沈された。このときの連隊の戦死者は2名だけだったが戦車は他の硫黄島向け資材や兵器とともにすべて海没した。補充は12月に行われ、最終的に11両の九七式中戦車(新砲塔)と12両の九五式軽戦車の計23両が揚陸された。サイパン島・ルソン島・占守島等と異なり、面積が極めて狭い孤島である硫黄島への戦車連隊の配備は比較的異例であり、西中佐は当初、戦車を機動兵力として運用することを計画したが、熟慮の結果、戦車は移動ないし固定のトーチカとして待伏攻撃に使われることになった。移動トーチカとしては事前に構築した複数の戦車壕に車体をダグインさせ運用し、固定トーチカとしては車体を地面に埋没させるか砲塔のみに分解し、ともに上空や地上から分からないよう巧みに隠蔽・擬装された。アメリカ軍の潜水艦と航空機による断続的な攻撃によって多くの輸送船が沈められたが、1945年2月まで兵力の増強は続いた。最終的に、小笠原兵団長・栗林中将は小笠原方面陸海軍最高指揮官として陸海軍計兵力21,000名を統一した指揮下に置くことになった。しかしながら、硫黄島総兵力の半数に達する程の海軍部隊については海軍の抵抗により完全なる隷下とすることができず、また最高指揮官である市丸海軍少将以下兵に至るまで陸上戦闘能力は陸軍部隊には及ばない寄せ集めでありながら、水際防御・飛行場確保・地上陣地構築に固執するなど大きな問題もあった。そのため、栗林中将は海軍の一連の不手際、無能・無策を強く非難し、また陸海軍統帥一元化に踏み込んだ内容を含む総括電報「膽参電第三五一号」(最後の戦訓電報)を戦闘後期の1945年3月7日に参謀本部(大本営陸軍部)に対し打電している。栗林中将は硫黄島着任間もなくして島民に対して本土または父島への避難(強制疎開)をさせている。日本軍将兵が総力を挙げて要塞化を進める一方で、栗林中将は防御戦術を練っていた。第31軍司令官小畑中将は、上陸には水際防衛で対抗すべしという当時の原則から海岸近くでの戦闘を命じていた。しかし栗林中将は、水際での抵抗はアメリカ軍の艦砲射撃による防御射撃を招き、意味が薄いと考えていた(実際にサイパンの戦いで水際作戦を取った際には、上陸3日で3万人の守備隊が壊滅する事態に陥っていた)。栗林中将の採用した戦術は、サイパンやペリリューの戦訓を勘案し、従来の水際防御戦術を改めて内陸での持久抵抗戦を主とし、上陸した敵部隊に消耗を強いることを主眼とする以下のようなものであった。火砲は摺鉢山の斜面と元山飛行場北側の高台の、海上からは死角となる位置に巧みに隠蔽されて配置された。食糧と弾薬は持久抵抗に必要となる2.5か月分が備蓄された。だが、混成第2旅団長の大須賀應陸軍少将、第109師団参謀長の堀静一陸軍大佐、硫黄島警備隊および南方諸島海軍航空隊司令の井上左馬二海軍大佐らは、水際作戦にこだわり、栗林中将の戦術に強く反対したため、大須賀少将・堀大佐を賛成派の千田貞季陸軍少将・高石正陸軍大佐にそれぞれ交代し、司令部の意思の統一を図った。1945年1月に発令された最終作戦は、陣地死守と強力な相互支援を要求したもので、従来の攻撃偏重の日本軍の戦術を転換するものであった。兵力の大幅な損耗に繋がる、防護された敵陣地への肉弾突撃・万歳突撃は厳禁された。また、栗林は自ら起草した『敢闘ノ誓』を硫黄島守備隊全員に配布し、戦闘方針を徹底するとともに士気の維持にも努めている。特に最後の「一 我等ハ敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ」と「一 我等ハ最後ノ一人トナルモゲリラニ依ツテ敵ヲ悩マサン」は、長期持久戦を隷下将兵に徹底させる旨の一文であり、この誓いは実際の戦闘で生かされることとなる。さらにより実践的指導として、同じく栗林が起草・配布した『膽兵ノ戦闘心得』では以下のように詳述している(特に陣地防御と持久戦を重要視している)。防御準備の最後の数ヶ月間、栗林中将は、兵員の建設作業と訓練との時間配分に腐心した。訓練により多くの時間を割くため、北飛行場での作業を停止した。12月前半の作戦命令により、1945年2月11日が防御準備の完成目標日とされた。12月8日、アメリカ軍航空部隊は硫黄島に800tを超える爆弾を投下したが、日本軍陣地には損害をほとんど与えられなかった。以降、アメリカ軍のB-24爆撃機がほぼ毎晩硫黄島上空に現れ、航空母艦と巡洋艦も小笠原諸島へ頻繁に出撃した。頻繁な空襲で作業は妨害され、守備隊も眠れぬ夜が続いたが、実質的に作業進行が遅れることはなかった。1月2日、十数機のB-24爆撃機が千鳥飛行場を空襲し損害を与えたが、栗林中将は応急修理に600名を超える人員と、11台の自動貨車および2台のブルドーザーを投入し、飛行場をわずか12時間後に再び使用可能とした。飛行場確保に固執する海軍の要請により飛ばす飛行機も無いのに行われた飛行場修復を、のちに栗林中将は戦訓電報で批判している。1945年1月5日、市丸少将は指令所に海軍の上級将校を集め、レイテ沖海戦で連合艦隊が壊滅したこと、そして硫黄島がまもなくアメリカ軍の侵攻を受けるだろうという予測を伝えた。2月13日、海軍の偵察機がサイパンから北西へ移動する170隻のアメリカ軍の大船団・艦隊を発見する。小笠原諸島の日本軍全部隊に警報が出され、硫黄島も迎撃準備を整えた。なお、硫黄島守備隊は映像(ニュース映画)である日本ニュースで2回報道されている。「第246号」(「戦雲迫る硫黄島」2分36秒。他3本。1945年2月20日公開)では、2月16日頃にアメリカ軍が行った硫黄島空襲に対し迎撃や対空戦闘を行う海軍部隊の様子が。「第247号」(「硫黄島」3分14秒。他2本。3月8日公開)では、硫黄島神社に揃って参拝する陸海両軍の軍人・木枝から滴る水を瓶で集めての飲料水化・地熱と温泉を利用する飯盒炊爨など、硫黄島における将兵の日常生活、また一〇〇式火焔発射機による火焔攻撃、戦車第26連隊(軍隊符号:26TK)の九七式中戦車改・九五式軽戦車を仮想敵とした肉薄攻撃など、戦闘訓練の模様が撮影されていると同時に、わずか数秒足らずではあるものの、両ラペルに中将襟章(昭18制)を付した将校准士官防暑襦袢姿の栗林中将の鮮明な映像が収められている(「前線指揮所に、敵必殺の策を練る我が最高指揮官、栗林陸軍中将」)。1944年10月9日、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ海軍大将はデタッチメント作戦の準備を発令した。参加兵力は第5艦隊司令官レイモンド・スプルーアンス海軍大将指揮下の5個任務部隊であった。硫黄島派遣軍最高指揮官には第51任務部隊司令官リッチモンド・ターナー海軍中将が任命され、第53任務部隊、戦艦を含む水上打撃部隊である第54任務部隊、高速戦艦2隻と空母12隻からなる第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将指揮)、上陸部隊である第56任務部隊(司令官:ホーランド・スミス海兵中将)がその指揮下に入った。また硫黄島の戦場にはジェームズ・フォレスタル海軍長官自らの同行視察が予定された。上陸部隊はシュミット少将指揮下の第5水陸両用軍団(海兵隊第3、第4、第5海兵師団基幹)だった。第3海兵師団はブーゲンビル島の戦いやグアムの戦いですでにその名を知られていたが、1944年秋の時点ではまだグアムにあり、残存日本兵の掃討作戦に従事していた。上陸第1波は第4、第5海兵師団(第26海兵連隊を除く)で、硫黄島東海岸に対して第4海兵師団が右側、第5海兵師団が左側に並んで上陸し、第3海兵師団はDデイ+3日まで沖合いで予備兵力として残るとされた。作戦計画は、橋頭堡の迅速な確保と、第5海兵師団には南の摺鉢山、第4海兵師団には右側面の元山周辺の速やかな占領を要求していた。もし両地点の占領に手間取れば、両方向から砲撃を受けて上陸部隊に多数の死傷者が出ると予想された。東海岸には不利な寄せ波の可能性があったため、西海岸へ上陸する代替計画も立てられたが、北北西の季節風によるうねりの危険性もあり、実行される可能性は低かった。東海岸は摺鉢山から北東へ伸びる約3kmの海岸があり、アメリカ軍はこれを500yd (457.2m) ごとに7つの区画に分割し、左から右(南西から北東)に向かってグリーン区、レッド1区、レッド2区、イエロー1区、イエロー2区、ブルー1区、ブルー2区と名付けた。第5海兵師団は、第28海兵連隊が一番西側に当たるグリーン区に上陸し摺鉢山へ進撃する。その東側には第27海兵連隊が上陸し西海岸まで到達、次に北東へ向きを変えて作戦区域「O-1ライン」まで前進する。第26海兵連隊は予備兵力とされた。第4海兵師団は、第23海兵隊がイエロー1区とイエロー2区に上陸し、千鳥飛行場を占領して北東へ進撃、元山飛行場の一部と作戦区域「O-1ライン」内を制圧する。第25海兵隊はブルー1区に上陸後、千鳥飛行場とブルー2区を占領しつつ、北東方向へ進撃して作戦区域「O-1ライン」への到達する。第24海兵隊はDデイ初日は予備とされた。1945年2月16日、作戦開始を控えた記者会見でスミス中将は説明した。「攻略予定は5日間、死傷は15,000名を覚悟している。」。アメリカ軍は、島や洞窟に潜む日本兵を殲滅し、アメリカ兵の被害を少なくするためには毒ガスの使用が最も効果的との結論を得ていたが(毒ガス禁止のジュネーヴ議定書に当時の日米は署名をしていたが、批准はしていなかった)、統合参謀本部議長のウィリアム・リーヒ海軍元帥から反対する意見具申もあって国際的非難を顧慮したフランクリン・ルーズベルト大統領は許可しなかった。マリアナから第7空軍のB-24が上陸準備として74日間の連続爆撃を行ったが、水平爆撃ではピンポイント攻撃は不能であり、資材運搬の日本軍の二等輸送艦を数隻(参加した全て)撃沈できたのみで日本軍陣地へのダメージは少ないと判断された。そこで、海兵隊は10日以上の準備艦砲射撃を要請したが、海軍側は沖縄上陸作戦などの事後の作戦の都合から、準備砲爆撃の期間を3日間に短縮した。理由は、硫黄島と本土との後方遮断の作戦のため空母部隊での日本本土空襲を行う予定であったが、参加予定の米新鋭空母艦隊は2月中旬までは補給ができず、しかも、沖縄上陸戦開始への日程が迫っており、B-29の戦略爆撃の支援のための硫黄島攻略に、主作戦の日本本土上陸への足がかりの沖縄戦への戦力を削ってまで、硫黄島への兵力を投入はできないというものであった。これは上陸後の海兵隊の苦戦の一因とされている。そして、2月16-17日、アメリカの高速空母機動部隊は硫黄島上陸の前哨戦ともいえる日本本土の攻撃を艦載機によって2日間に渡って行い、航空施設を攻撃し、40機程度の日本機を撃墜した(ジャンボリー作戦)。この攻撃で日本側の注意を硫黄島上陸作戦からそらし得たと判断したアメリカ軍は、硫黄島上陸作戦を開始した。1945年2月16日(日本時間)、アメリカ軍硫黄島派遣軍は硫黄島近海に集結し攻撃を開始した。新鋭戦艦3隻、旧式戦艦3隻、巡洋艦5隻よりなる砲撃部隊は、偵察機によって調べられた既知の陣地に砲撃を加え、撃破すれば海図に記載し、次の箇所を撃滅するというノルマンディー上陸作戦以来の方法で各受け持ち地区を砲撃した。そして、これに付随した護衛空母の艦載機は弾着観測と個別陣地の撃破を行なった。通常弾はほとんど効果がないことから、ロケット弾が多用されるにいたった。効果ありと判断したアメリカ軍は、これにより、歩兵を乗せた12隻の上陸用舟艇が東岸に移動した。すると、摺鉢山の海軍管轄の海岸砲が舟艇を砲撃し9隻を行動不能にし、3隻が大破した。この攻撃により重砲陣地の場所を知ったアメリカ軍は摺鉢山の海岸砲陣地に対して戦艦ネバダより艦砲射撃を行い、摺鉢山の主要な火砲はほぼ戦力を失った。この際、あるアメリカ兵が「俺達用の日本兵は残っているのか?」と、戦友にたずねたというエピソードがある。しかし、偵察機ではうかがい知れないその答えを、海兵隊員は上陸後、身をもって知ることになる。17日、機雷や暗礁などの障害物を調査するため、掃海艇と武装舟艇 (LCI(G)) が東海岸に接近した。さらに、LCI(G) に乗っていたアメリカ海軍水中爆破処理隊 (UDT) は東海岸へ一時上陸し、上述の上陸地点を示す小旗を砂浜に立てて撤収した。この際、上陸用舟艇 (LCI) を改装した LCI(G) の接近を見た日本軍は本格的な迎撃を行ったため、アメリカ側のさらに激しい砲爆撃を招いている。19日、午前6時40分に艦砲射撃が始まり、8時5分にB-29爆撃機120機、その他B-24や海兵隊所属機を含む艦載機による銃爆撃に交代(効果は上がらなかったと報告されている)、8時25分から9時まで再度艦砲射撃が続いた。9時、第4、第5海兵師団の第1波が上陸を開始した。水際での日本軍の抵抗は小火器や迫撃砲による散発的な射撃にとどまり、海兵隊は円滑な上陸に意外の感を受けつつ内陸へ前進した。だが日本軍は地下坑道の中で艦砲射撃に耐え、機をうかがっていた。午前10時過ぎ、日本軍は一斉攻撃を開始、海兵隊の先頭へ集中攻撃を浴びせた。柔らかい砂地に足を取られ、動きがままならない状態の所に攻撃を受けたためたちまち第24、第25海兵連隊は25パーセントの死傷者を出し、M4 シャーマン中戦車は第1波で上陸した56両のうち28両が撃破された。これほどの濃密な火力の集中を受けた戦場は南方作戦緒戦を除き、太平洋ではそれまで例がなかった。硫黄島の土壌は崩れやすい火山灰のため、しっかりした足場も無く、海兵隊は塹壕(蛸壺)を掘ることもできなかった。また高波を受けて、上陸用舟艇や水陸両用車が転覆や衝突によって損傷した。各地に上陸した誘導隊の努力にもかかわらず、海岸には舟艇や車輌があふれて後続部隊の上陸を妨げた。やっとの思いで揚陸した戦車も日本軍高射砲の水平射撃によって撃破された。19日だけで海兵隊は戦死501名、戦傷死47名、負傷1,755名という損害を受けた。夕方までに海兵隊30,000名が上陸して海岸堡を築き、ごく少数ではあるが、突進して西海岸に到達する将兵も現れた。海兵隊はそれまでの島嶼作戦で日本軍の常道だった夜襲と万歳突撃を待ち構えたが、日本兵は来なかった。日本軍が実施したのは少人数による手榴弾を使った襲撃(挺進攻撃)と夜間砲撃というハラスメント(嫌がらせ)攻撃であり、アメリカ軍が浜辺に集積していた物資の一部がこの攻撃により炎上し損害を受けた。しかし、それも海兵隊が警戒し始めると効果は薄くなり始め、帰ってこない日本兵が徐々に増えていった。この夜襲は日本軍にとっても死傷率の高い作戦であり、所属部隊が全滅後に他の隊と合流した将兵や、陸戦に慣れていない海軍兵が主に指名された。2月20日、準備砲爆撃の後、第28海兵連隊が摺鉢山へ、他の3個海兵連隊が元山方面の主防衛線へ向けて前進した。海兵隊は夕方までに千鳥飛行場を制圧し、摺鉢山と島の中央部に位置していた小笠原兵団司令部との連絡線が遮断された。摺鉢山の日本軍は摺鉢山地区隊(独立歩兵第312大隊および独立速射砲第10大隊など)が守備にあたっており、その斜面は1mごとが戦闘の連続だった。砲撃は日本軍の地下陣地に対してはあまり効果がなく、海兵隊は火炎放射器と手榴弾でトーチカを処理しながら前進し、日本軍では摺鉢山守備隊長の厚地兼彦陸軍大佐が戦死した。市丸海軍少将は「本戦闘ノ特色ハ敵ハ地上ニ在リテ友軍ハ地下ニアリ」という報告を大本営へ打電している。21日、予備兵力の第3海兵師団が上陸した。同日、千葉県香取基地から出撃した爆撃機・彗星12機、攻撃機・天山8機、直掩の零式艦上戦闘機12機の計32機からなる神風特別攻撃隊第二御盾隊による攻撃が行われた。この特攻は日本本土から初めて出撃したもので、八丈島基地で燃料を補給したのちに硫黄島近海のアメリカ艦隊に突入した。同隊突入前に、木更津の第七五二海軍航空隊の一式陸攻2機が欺瞞隊として硫黄島上空に到達、錫箔を撒いてレーダーを攪乱した。御楯隊は艦隊の混乱に乗じ、護衛空母ビスマーク・シーを撃沈、正規空母サラトガを大破炎上、護衛空母ルンガ・ポイントと貨物船ケーカック損害などの戦果を挙げた(この光景は硫黄島守備隊にも目撃されている)。艦隊は「われ、カミカゼの攻撃を受けつつあり。救援頼む」と発信。その電波は、日本軍の守備隊にも傍受された。その後も、日本軍は陸軍航空部隊の四式重爆撃機「飛龍」や、海軍航空部隊の陸攻による上陸部隊および艦船への夜間爆撃を数回実施している。アメリカ軍の被害について(翌22日公式発表)「2月21日1800現在、硫黄島での損害推定は戦死644、負傷4108、行方不明560」と公表されると、ワシントンの一部新聞が硫黄島での毒ガス攻撃を呼びかけるほど、本国では硫黄島戦における苦戦が衝撃的であった。22日、元山方面を攻撃していた第4海兵師団は損害の大きさに第3海兵師団と交代する。摺鉢山の山麓では死闘が続いていた。アメリカ軍は火炎放射器で坑道を焼き尽くし、火炎の届かない坑道に対しては黄燐発煙弾を投げ込んで煙で出入口の位置を確かめ、ブルドーザーで入口を塞いで削岩機で上部に穴を開けガソリンを流し込んで放火するなどして攻撃した。日本軍ではこうした方法を「馬乗り攻撃」と呼んだ。23日午前10時15分、第5海兵師団は遂に摺鉢山頂上へ到達し、付近で拾った鉄パイプを旗竿代わりに、28in.×54in.の星条旗を掲揚した。硫黄島攻略部隊に同行していたジェームズ・フォレスタル海軍長官は、前線視察のため上陸した海岸でこの光景を目撃し、傍らにいたホーランド・スミス海兵中将へ「これで(創設以来、アメリカ軍部内で常にその存在意義が問われ続けてきた)海兵隊も500年は安泰だな。」と語り、この旗を記念品として保存するように所望した。そこで、揚陸艇の乗員が提供した5ft×8ftと先の旗の2倍となる星条旗を改めて掲げ、先の旗と入れ換えることになった。午後12時15分にAP通信の写真家・ジョー・ローゼンタールが、まさに「敵の重要地点を奪った海兵隊員達が戦闘の最中に危険を顧みず国旗を掲げた」その瞬間を捉えたような印象を与える(つまり後撮り)写真とあわせ写真3枚を撮影した。この写真は同年ピューリッツァー賞(写真部門)を受賞している(『硫黄島の星条旗』、")。硫黄島の戦いは「アメリカ海兵隊は水陸両用作戦のプロである」という存在意義を広く世界へ向けて示したのだった。しかしその4日後のサンフランシスコでは「(タラワ、サイパン、硫黄島での損害の大きさに)マッカーサーの指揮した戦闘では、このような損害は一度も出ていない」と海軍批判の社説が掲載された。アメリカ軍はようやく攻撃開始7日目に擂鉢山山頂を制圧したが、擂鉢山付近での散発的な日本軍の抵抗はまだ継続していた。硫黄島に派遣された経験を持つ秋草鶴次によると、24日の早朝、気が付くと山頂に日章旗が翻っているのを、玉名山から目撃したという。『十七歳の硫黄島』では、その後擂鉢山へアメリカ軍のロケット砲攻撃があり、再び星条旗が掲げ直され、その星条旗は24日中そのまま掲げられていたが、翌25日早朝の摺鉢山頂上では又も日の丸の旗がはためいていたため、これはその周辺にいまだに頑張っている日本兵がおり、日の丸を揚げに夜中、密かに山頂へ来ていたのではないか、と秋草は推測して書いている。その後の戦闘ののち、アメリカ軍によってもう一度星条旗が掲げられ、それが日章旗に代わることはもうなかったという。フォレスタル海軍長官はアメリカ本国へ戻っていったが、硫黄島の戦いはいよいよ激しさを増していった。24日、アレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵隊総司令官の長男、アレクサンダー・ヴァンデグリフトJr.中佐も重傷を負う。24日から26日にかけ、海兵隊は馬乗り攻撃を繰り返しながら元山飛行場へ向けて少しずつ着実に前進した。前進速度は10m/h。市丸少将はアメリカ軍の戦術を「さながら害虫駆除のごとし。」と報告している。摺鉢山を攻略したアメリカ軍は3個師団全力で島北部への攻撃に移り、日本軍は戦車第26連隊を投入するも、2月26日夕刻、元山飛行場は陥落した。この時点で日本軍の兵力は2分の1に減少、弾薬は3分の1に減少した。同日にはアメリカ海軍建設大隊により、確保された千島飛行場で観測機の使用が可能となり、3月初めには飛行場の機能が殆ど完成した。そして3月4日、東京空襲で損傷したアメリカ軍のB-29爆撃機「ダイナ・マイト」号が、両軍砲火の中緊急着陸に成功し、補修と燃料の補給を受けた。これが、硫黄島に不時着した最初のB-29である。元山正面の日本軍陣地は千田少将の率いる混成第2旅団が守備していた。混成第2旅団は元々練度の低い寄せ集め部隊であったのだが、歩兵戦闘の専門家である千田少将の訓練の下で強兵に生まれ変わっていた。元山正面の守りは堅く、アメリカ軍は「ミート・グラインダー」(肉挽き器)と呼んで恐れた。だが混成第2旅団の戦闘力も限界に近づいていた。5日、栗林中将は戦線縮小を決定し拠点を島の中央部から北部へ移す。7日、第3海兵師団がアメリカ軍としては異例の払暁奇襲を断行、中央突破に成功し日本軍を島の北部と東部に分断した。3月7日、栗林中将(第109師団)は最後の戦訓電報(戦闘状況を大本営に報告する一連の電報)である総括電報「膽参電第三五一号」を発する。名義は膽部隊長(第109師団長栗林)で、宛先は参謀次長(参謀本部:大本営陸軍部)と、栗林中将の陸軍大学校時代の兵学教官である恩師・蓮沼蕃陸軍大将(当時、帝国最後の侍従武官長)であった(「参謀次長宛膽部隊長蓮沼侍従武官長ニ伝ヘラレ度」「以上多少申訳的ノ所モアルモ小官ノ率直ナル所見ナリ 何卒御笑覧下サレ度 終リニ臨ミ年釆ノ御懇情ヲ深謝スルト共二閣下ノ御武運長久ヲ祈リ奉ル」)。のちの作戦立案などに生かすため参謀本部(大本営陸軍部)に送る戦訓電報を、畑違いである蓮沼侍従武官長にも宛てた理由としては、栗林中将が強く訴えている陸海軍統帥一元化と海軍批判が黙殺されることを危惧したためであり、また、栗林中将が硫黄島で展開した一連の防衛戦術は、栗林中将が陸大学生時代に蓮沼教官から教わったものを基本としていることによる(「硫黄島ノ防備就中戦闘指導ハ陸大以来閣下ノ御教導ノ精神ニ基クモノ多シ 小官ノ所見何卒御批判ヲ乞フ」)。特に海軍側の数多い大失態の例として以上の3例があり、以下の「膽参電第三五一号」の原文の太字は陣地構築および戦闘中における海軍の不手際や無能・無策の批判となる。なお、栗林中将はこのように海軍側および中央を猛烈に批判しているが、栗林中将自体は軍人を目指す弟に対し陸士ではなく海兵受験を薦めるなど海軍嫌いというわけではなく、単に合理的かつ常識的な進言にすぎない。水の乏しい硫黄島で日本軍の飲用水は払底し、将兵は渇きに苦しんだ。暗夜に雨水を求めて地下陣地を出た兵士の多くは戻って来なかった。3月14日、小笠原兵団基幹部隊として栗林中将を支えてきた歩兵第145連隊長・池田大佐が軍旗を奉焼した。16日16時過ぎ、栗林中将は大本営へ訣別電報を送った。南の孤島から発信されたこの訣別電報は、本土最北端である海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別通信所により傍受され、通信員が涙ながらに大本営へ転送したとされる。17日、アメリカ軍は硫黄島最北端の北ノ鼻まで到達した。この日、大本営よりその多大な功績を認められ(「追テ本人ハ第百九師団長トシテ硫黄島ニ在テ作戦指導ニ任シ其ノ功績特ニ顕著ナル……」)、同日付けで特旨を以て日本陸海軍最年少の大将(陸軍大将)に昇進した栗林は、同日に最後の総攻撃を企図し、隷下各部隊へ最後の指令が送られた。しかし同日は出撃の機会を見つけられなかったため、夜に約60m離れた来代工兵隊壕(歩兵第145連隊指揮所)への転進が行われ、市丸少将以下の海軍残存兵力と合流した。戦車第26連隊を率いていた西中佐は火炎放射器によって負傷してもなお戦い続け、正確な最期は分かっていないが19〜21日頃に戦死したとされる。25日深夜、木更津基地から6機の一式陸攻が離陸、うち根本正良中尉の一式陸攻のみが硫黄島に到達し、単機爆撃を行った(根本機は生還)。これが硫黄島における日本軍最後の航空攻撃となった。26日、17日以来総攻撃の時機を待っていた栗林大将は最後の反攻を敢行。栗林大将以下、約400名の将兵がアメリカ軍陣地へ攻撃をかけた。この最後の攻撃は栗林が戦闘前から戒めていた決死の万歳突撃ではなく必至の夜襲であり、また攻撃を受けたアメリカ陸軍航空軍の野営地には整備員など戦闘の訓練を受けていない者が多く、当地は混乱に陥った。アメリカ側では53名が戦死、119名が重傷を負ったとされる。市丸少将は遺書としてアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた『』をしたため、これをハワイ生まれの日系二世三上弘文兵曹に英訳させ、アメリカ軍が将校の遺体を検査することを見越して懐中に抱いて出撃した。司令部に勤務し、生還した松本巌(海軍兵曹)によれば、書簡文日本文は村上治雄(海軍通信参謀)、英文は赤田邦雄(第二十七航空戦隊参謀)が体に巻いていたという。状況から、日英文3部書かれたと思われる。アメリカ海兵隊によれば、書簡(和文・英文)は硫黄島北部壕内で発見された。『ルーズベルトニ与フル書』は目論見どおりアメリカ軍の手に渡り、7月11日、アメリカで新聞に掲載された。それは日米戦争の責任の一端をアメリカにあるとし、ファシズムの打倒を掲げる連合国の大義名分の矛盾を突くものであった。「卿等ノ善戦ニヨリ、克ク「ヒットラー」総統ヲ仆(たお)スヲ得ルトスルモ、如何ニシテ「スターリン」ヲ首領トスル「ソビエットロシヤ」ト協調セントスルヤ。」。なお、ルーズベルトは4月12日に死去しているため、本書を本人が読むことはなかった。書簡はチェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官によりアナポリス海軍兵学校海軍博物館に提出された。書類上は米国海軍省広報室次長キャンベル大佐が、博物館に貸し出した形式となっている。一方、栗林中将の最期の模様は正確には分かっていない。一説には、突撃時に敵迫撃砲弾の破片を大腿部に受け前線から避退、近くの洞窟で中根中佐らと自決したとされている。海兵隊は栗林大将に敬意を表し遺体を見つけようとしたが、栗林中将は軍服の襟章(階級章)や軍刀の刀緒、所持品など、佩用・所有者の階級や職が把握できる物を外して最後の総攻撃を率いていたため、見つけることはできなかった。これを以って、日本軍の組織的戦闘は終結した。だが、残存兵力によって局地的戦闘やゲリラによる遊撃戦が終戦まで続いている。栗林大将による最後の総攻撃に先立つ3月6日、機能を回復した硫黄島の飛行場に最初のP-51戦闘機部隊が進出した。3月15日(日本時間)、アメリカ軍は硫黄島の完全占領を発表した。また3月21日、日本の大本営は硫黄島守備隊の玉砕を発表した。「戦局ツヒニ最後ノ関頭ニ直面シ、17日夜半ヲ期シ最高指導官ヲ陣頭ニ皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ全員壮烈ナル総攻撃ヲ敢行ストノ打電アリ。通爾後通信絶ユ。コノ硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ。」硫黄島の奪取によってアメリカ軍はマリアナから出撃して日本本土空襲を行っていたB-29を支援するための理想的なポジションを手に入れた。その中で硫黄島陥落後の変化は護衛戦闘機の直援を受けたB-29爆撃機による昼間の中高度以下の爆撃が可能となったことと、不時着飛行場が確保できたことである。組織的な戦闘が終わり島の大部分がアメリカ軍に制圧された後、わずかな水源や食糧を求めて生き残った負傷した日本兵が島の海軍航空隊の壕などに集結した。NHKスペシャル「硫黄島玉砕戦〜生還者61年目の証言〜」(2006) において生還者たちは、「お腹が空いて、仕方がなかった。それでね、(死んだ仲間がいる施設の)炭を食べた。今でも涙が出て来る」「(隠れ家に)たどり着いても、追い出されて、敵のいる所を歩いて行けと言われた。どうせ死んじゃうだろうと」などと証言した。その後も生き残った日本兵が地下陣地に潜伏しており、アメリカ軍は投降を促した。生き残った日本兵の一部はこれに応じて投降したが、拒否する日本兵もおり、アメリカ軍は掃討作戦を決行し投降しなかった日本兵が潜伏していると思われる壕の入り口を埋め、潰していった。最後の生存者として、終戦から4年後の1949年(昭和24年)1月2日に潜伏していた元日本兵2名がアメリカ軍に投降した。海軍所属であった両名は千葉県出身の一等兵曹 (38) と、岩手県出身の二等兵曹 (25) であり、終戦後も島内の洞穴などに隠れて4年間にわたり硫黄島に暮らしてきたものであった。両名によると終戦から1年半が過ぎた頃に島内に駐在しているアメリカ兵が捨てたとおぼしき雑誌を拾ったところ、その雑誌に東京の不忍池でアメリカ兵と日本人女性が一緒にボートを漕いでいるグラビア写真があるのを見つけたことにより、日本が戦争に敗れたことに気付くとともに激しくショックを受けたと言う。この元日本兵2名は1月22日に羽田空港に帰還した。その後、二等兵曹が「硫黄島に日記を忘れてきた、本を出版するためにどうしても日記を取りに戻りたい」とアメリカ軍に申し出て、同年5月7日に再びアメリカ軍機に乗って硫黄島へと戻った。ところがいくら探しても日記が見つからず、摺鉢山の火口から400mほど離れた場所から「万歳」と叫びながら飛び降り自殺をしてしまった。この二等兵曹は日本に帰国したあと周辺の者に「生きて返ってきて申し訳ない」「硫黄島へ日記を取りに行って見つからなかったら日本へは戻らない」などと漏らしていたことから自殺の覚悟を決めていた節があり、戦友の死んだ地で自分も死のうとしたのではないかと推察された。硫黄島の戦いで、日本軍は守備兵力20,933名のうち20,129名(軍属82名を含む)が戦死した。捕虜となった人数は3月末までに200名、終戦までに併せて1,023名であった。アメリカ軍は戦死6,821名、戦傷21,865名の損害を受けた。硫黄島の戦いは、太平洋戦争後期の島嶼防衛戦において、アメリカ軍地上部隊の損害が日本軍の損害を上回った稀有な戦闘であったと同時に、アメリカが第二次大戦で最も人的損害を被った戦闘の一つとなった。2月23日に星条旗を摺鉢山に掲げた6名の海兵隊員のうち、生きて故国の地を踏むことができたのは3名のみであった。第3、第4、第5海兵師団は硫黄島の戦いで受けた損害のために沖縄戦には参加できず、硫黄島上陸当日における戦死者数501名は、1日の戦闘によって生じた戦死者数としては海兵隊創設以来から2010年(平成22年)現在に至るまで最大である。第二次大戦中にアメリカ海兵隊に与えられた名誉勲章(メダル・オブ・オナー)の4分の1以上が硫黄島攻略部隊のために与えられており、摺鉢山に星条旗が掲げられた日は、戦後「アメリカ海兵隊記念日(合衆国海兵隊記念日)」に制定された(現在ではアメリカ軍の記念日に統一されており各軍の個別記念日は無い)。アーリントン国立墓地の近くに位置する合衆国海兵隊戦争記念碑は、『硫黄島の星条旗』をかたどったものである。また、海軍はいくつかの艦船に「イオー・ジマ (USS Iwo Jima)」もしくは「スリバチ(USS Suribachi)」と命名している。1985年(昭和60年)2月19日、硫黄島において、日米双方の元軍人・退役軍人ら400名による合同慰霊祭が行われた。かつて敵として戦った双方の参加者たちは互いに歩み寄り、抱き合って涙を流したという。この日建立された慰霊碑には日本語と英語で次の文章が綴られている。「我々同志は死生を越えて、勇気と名誉とを以て戦った事を銘記すると共に、硫黄島での我々の犠牲を常に心に留め、且つ決して之れを繰り返す事のないように祈る次第である。」。なお、片方の当事者チェスター・ニミッツ海軍大将は「"硫黄島上で戦った人の間で、類稀な勇気は共通の美徳だった。"」とこの戦いを著書の中で総括している。2015年(平成27年)4月30日、安倍晋三首相のアメリカ合衆国議会合同会議の演説の場で、かつて海兵隊大尉として戦闘に参加した退役中将と栗林中将の孫である新藤義孝衆議院議員が握手を交わし、安倍首相は「歴史の奇跡」と紹介し両国の和解を象徴した。また、スノーデン退役中将は硫黄島の合同慰霊祭に頻繁に出席し、「硫黄島には、勝利を祝うため行ったのではない、行っているのでもない。その厳かなる目的は、双方の戦死者を追悼し、栄誉を称えることだ」とコメントしている。

出典:wikipedia

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