ギイ・ラフレール(Guy Damien Lafleur、1951年9月20日 - )はカナダケベック州サーソー (Thurso) 生まれのプロ・アイスホッケー選手である。NHLではモントリオール・カナディアンズなどで右ウイングを務め、ギイ・ラフレールがパックを持っただけで、観客が身を乗り出したといわれるほどの絶大な人気を博したことが伝えられている。愛称は"The Flower"。カナダ最高勲位のオーダー・オブ・カナダを受勲している。ラフレールは、幼い時からアスホッケーに目覚め、用具一式を着こんで睡眠し夜明けとともに鍵のかかったリンクにいそいそと出かけては抜け道から中に入り込んで練習していたといわれる。長じてからもその熱意は衰えることなく、夜8時開始の試合が待ちきれず午後4時からユニフォームを着込み、スケート靴の紐を結び、手にはスティックを持っていたとも伝えられる。10代になって、ラフレールはケベック・メジャージュニア・ホッケーリーグ (QMJHL 、Quebec Major Junior Hockey League) 所属のケベック・ランパーツ (Quebec Remparts) を1971年のメモリアル・カップ進出に導き、その知名度が一気に上昇した。モントリオール・カナディアンズの敏腕GM 、サム・ポロック (Sam Pollock) は、ラフレールにどうしてもカナディアンズのユニフォームを着せたいと考え、カリファルニア・ゴールデンシールズから第1位指名権を譲り受けるための取引を行った。こうして1971年の全指名選手中第1位(なお、同年の第2位はQMJHL のライバルリーグであるOHL出身でデトロイト・レッドウィングスに指名されたマーセル・ディオン)でカナディアンズに加入したラフレールは、1971-1972シーズンから1984-1985シーズンまでは同チームで活躍した。ラフレールが入団した1971年当時のカナディアンズは、NHL 史上最古の歴史を持つ名門チームで、1950年代に5度、1960年代に5度のスタンレー・カップを獲得した古豪でもあった。入団直前に所属したジュニアチームで130ゴール、79アシストと驚異的な成績を残したことに加え、名選手の Jean Beliveau が引退したばかりでもあり、ラフレールには過剰ともいえる期待が寄せられていた。入団後最初の3年間の成績は、順に、64ポイント、55ポイント、56ポイントと決して凡庸ではなかったが、ルーキーから華々しい活躍をした同期のマーセル・ディオンと常に対比されマスコミはラフレールに対し、辛い点をつけたとされる。ラフレールが飛躍したのは、4年目の1974-1975シーズンからであった。このシーズンから、ラフレールは怪我防止のためのヘルメットの着用を止めたのであるが、創造的で果敢な彼のプレーと長髪が風になびく姿がよくマッチしたといわれている。カナディアンズは1970年代においても、6度のカップ優勝を果しているが、ラフレール自身もそのうち5度の優勝経験をもち、チーム記録となる1,246ポイント(518ゴール、728アシスト)の記録を残し、1976年、1977年、1978年と3年連続でリーグ得点王(アート・ロス記念賞)に輝いた。また、レギュラーシーズン最優秀選手賞(ハート記念賞)を2度、選手達の選ぶ最優秀選手賞(レスター・B・ピアソン賞)3度、プレイオフ最優秀選手賞1度(コーン・スマイス賞)をそれぞれ獲得している。ラフレールは1970年代のいわゆるカナディアンズ王朝を支えた屋台骨であった。もっとも、カナディアンズにおける最後の1984-1985シーズンでは、かつての同僚で新コーチとなったジャック・ルメール( Jacques Lemaire )や GM のチーム戦略と反りが合わなかったともいわれる。後の1995年にニュージャージー・デビルスをスタンレー・カップ優勝に導いたルメールは、ディフェンス重視のゲーム観を持っていたといわれ、ある意味で才能任せ、自由奔放なプレーが身上のラフレールとは相容れない点があり、出場機会も大幅に減少した。その一方で、トレードを申し入れても、フロントは実績と人気を誇るラフレールを放出する決断ができなかったとされる。こうして、ラフレールは不本意ながら引退し1988年にホッケーの殿堂入りを果す。しかし、その後、1988年のトライアウトで現役復帰を果し、1988-1989シーズンはニューヨーク・レンジャーズに、1989-1990、1990-1991シーズンはケベック・ノルディクス(コロラド・アバランチ)でプレーした。なお、ホッケーの殿堂入りを果してから現役に復帰したプレーヤーとしては、ラフレールの他に、先輩のゴーディ・ハウと後輩のマリオ・ルミューがいるのみである(2005年現在)。ラフレールは、NHL 史上初となる6年連続シーズン50ゴール以上かつ100ポイント以上の成績を残した。ラフレールの選手としての評価であるが、見方によっては、1980年代から1990年代に登場するスーパースターウェイン・グレツキーの先駆者であったと位置づけができる。特に、プレースタイルがスリリングであり多くのファンを興奮させ、愛称のとおり花のある選手であったとされる。カナディアンズのチーム史上では、ポイント数とアシスト数で最高記録を保持し、ゴール数では伝説のモーリス・リシャールに次ぐ第2位の記録を持つ(2005年現在)。ラフレールの背番号10は、カナディアンズ6人目の永久欠番とされている。1976年と1981年のカナダ・カップにおいて、カナダチームに参加、1976年の大会ではチームの優勝に貢献した。この功により、1977年にカナダで最高に顕著な活躍をした運動選手に贈られるルー・マーシュ賞を受賞している。1978年のスタンレー・カップ優勝後、ラフレールは故郷サーソーの友人にカップを見せるため無断でそれを借用し、週末に家の前の芝生の上に置いておいたと伝えられる。また、現役時代でも、一日に2箱のタバコを欠かさないヘビー・スモーカーであった。
出典:wikipedia
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