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教如

教如(きょうにょ、敎如)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての浄土真宗の僧。東本願寺第12代法主 。年齢は、数え年。日付は文献との整合を保つため、いずれも旧暦(宣明暦)表示を用いる(生歿年月日を除く)。永禄元年9月16日(1558年10月27日)、顕如の長男として誕生。永禄13年(1570年)2月、父・顕如のもと13歳で得度。元亀元年9月12日(1570年10月11日)、織田信長との間で石山合戦が始まる。父・顕如を助けて信長と徹底抗戦する。元亀2年(1571年)6月、朝倉義景の娘である三位殿と婚約。天正8年(1580年)3月、顕如は正親町天皇の勅使・近衛前久の仲介による講和を受け入れ、石山本願寺から紀伊国鷺森(和歌山県和歌山市)へ退去する。しかし教如は徹底抗戦を主張する。そのため顕如は、教如を義絶する。義絶後も石山本願寺に籠城する(大坂拘様)。8月2日、近衛前久の説得に応じ、信長に石山本願寺を明け渡す。その直後に、石山本願寺は失火により炎上し灰燼に帰した。天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こり、信長は暗殺された。6月23日、後陽成天皇は顕如に教如の赦免を提案。6月27日、顕如より義絶を赦免される。赦免後は、顕如とともに住し、寺務を補佐する。文禄元年(1592年)11月24日、顕如の示寂にともない本願寺を継承する。この時、石山合戦で篭城した強硬派を側近に置き、顕如と共に鷺森に退去した穏健派は重用しなかった為、教団内に対立が起こる。文禄2年(1593年)閏9月12日、豊臣秀吉は教如を大坂に呼び、下記の十一か条を示した。穏健派が秀吉に働きかけたと考えられる。つまり、問題点(上記の1~8)を挙げ、10年後に弟の准如に本願寺法主を譲る旨の命が下される。この事を聞いた強硬派の坊官が、秀吉に異義を申し立てる。秀吉の怒りを買い「今すぐ退隠せよ」との命が下される。閏9月16日、准如に法主が継承する事が決定し、教如は退隠させられる。慶長3年(1598年)8月18日、秀吉歿。慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康より京都七条烏丸に四町四方の寺領が寄進され、七条堀川の本願寺の一角にある堂舎を、その地に移す。慶長8年(1603年)、上野厩橋(群馬県前橋市)の妙安寺より「親鸞上人木像」を迎え、東本願寺が分立する。一説によると、若き日に三河一向一揆に苦しめられた事のある家康が、本願寺の勢力を弱体化させるために、教如を唆して本願寺を分裂させたと言われているが、明確にその意図が記された史料がないため断定はできない。現在の真宗大谷派はこの時の経緯について、「教如は法主を退隠してからも各地の門徒へ名号本尊や消息(手紙)の配布といった法主としての活動を続けており、本願寺教団は関ヶ原の戦いよりも前から准如を法主とするグループと教如を法主とするグループに分裂していた。徳川家康の寺領寄進は本願寺を分裂させるためというより、元々分裂状態にあった本願寺教団の現状を追認したに過ぎない」という見解を示している。東西本願寺の分立が後世に与えた影響については、『戦国時代には大名に匹敵する勢力を誇った本願寺は分裂し、弱体化を余儀なくされた』という見方も存在するが、前述の通り本願寺の武装解除も顕如・准如派と教如派の対立も信長・秀吉存命の頃から始まっており、また江戸時代に同一宗派内の本山と脇門跡という関係だった西本願寺と興正寺が、寺格を巡って長らく対立して幕府の介入を招いたことを鑑みれば、教如派が平和的に公然と独立を果たしたことは、むしろ両本願寺の宗政を安定させたとも言える。慶長19年10月5日(1614年11月6日)、57歳で示寂。分立後も、昭和62年(1987年)までは、東西ともに「本願寺」が正式名称である。分立当初は、教如の「本願寺」を、「信淨院 本願寺」・「本願寺隠居」・「七条本願寺」・「信門」と称し、准如の「本願寺」を、「本願寺」・「六条門跡」・「本門」と称した。のちに教如の「本願寺」は、准如が継承した「(七条堀川の)本願寺」の東に位置するため「東本願寺」と通称され、「(七条堀川の)本願寺」は、相対的に「西本願寺」と通称される。

出典:wikipedia

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