周 恩来(しゅう おんらい、チョウ・エンライ、1898年3月5日 - 1976年1月8日)は中華人民共和国の政治家。字は翔宇。中華人民共和国が建国された1949年10月1日以来、死去するまで一貫して政務院総理・国務院総理(首相)を務めた。毛沢東の信任を繋ぎとめ、文化大革命中も失脚しなかったことなどから「不倒翁」(起き上がり小法師)の異名がある。1972年に、日本国首相の田中角栄(当時)と日中共同声明に調印したことでも知られている。妻は鄧穎超、子女は孫維世(養女・文化大革命で迫害死)、李鵬(養子・のちに国務院総理)。周恩来は江蘇省淮安の官僚地主の家に生まれた。周恩来が13歳となった1911年、辛亥革命が起きる。翌1912年、清朝が崩壊し、中華民国が建国された。1913年、周恩来は天津の南開中学校に入学し、革命の息吹に触れる。南開中学卒業後の1917年に、日本に留学。日本語の習得不足により第一高等学校と東京高等師範学校の受験に失敗し、東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)、東京神田区高等予備校(法政大学付属学校)、明治大学政治経済科(旧政学部、現政治経済学部)に通学。日本では勉学に励む他、友人と活発に交流して祖国の将来について語り合っている。また日比谷公園や靖国神社、三越呉服店や浅草など、各所を積極的に見てまわっている。1918年5月1日には靖国神社の大祭を見物し、「それを見てはなはだ大きな感慨を催す」。また6月2日にも游就館を訪れたことも日記に記している。日本社会や日本人についてもよく観察しており、これが知日派としてのベースをつくった。同年、留学生の一斉帰国運動も起きるが、周恩来は冷静な対応をしている。一旦中国に帰るが、再来日。帰国前の数ヶ月については記録もなく、よくわかっていない。苦渋の中で、酒に溺れがちだったという説もある。やがて、母校の南開学校が大学部を創設するということを知って、帰国を決意した。船に乗るために神戸に向かう途中、京都の嵐山に寄って歌った詩「雨中嵐山」は、嵐山の周恩来記念碑に刻まれている。河上肇の著書で初めてマルクス主義に触れ、京都大学でその講義を聴講もしている。1919年4月に帰国し、南開大学文学部に入学。その直後に中国近代史の起点となる五・四運動が起きる。周恩来は学生運動のリーダーとなって頭角を現していく。なお日本滞在中の様子については、『周恩来 十九歳の東京日記』が最も正確で詳細な記録である。東京日日新聞の神近市子記者のインタビューを受けたという、従来の伝聞や伝記にあった誤りも指摘されている。1920年パリに留学する。労働党の研究のためにイギリスに渡り、エディンバラ大学に入学を許可されるが、中国政府からの奨学金が下りずに断念しフランスに戻る。その後中国共産党フランス支部を組織し、ヨーロッパ総支部が作られるとその書記となった。この留学時代の仲間には、李立三や鄧小平、陳毅、朱徳など後の中国共産党の幹部となった者が多数いた。第一次国共合作が成立した1924年、周恩来は帰国し、孫文が創立した黄埔軍官学校の政治部副主任となった。ちなみに校長は蒋介石であった。翌1925年、五・四学生運動時代の恋人鄧穎超と結婚した。1926年、周恩来は上海に移り、ここで労働者の武装蜂起を指導して上海市民政府を樹立したが、入城した蒋介石の北伐軍に弾圧されて捕らえられ、処刑される寸前で脱出した。その後、国民革命軍の南昌蜂起を朱徳と共に指導した。1931年、江西省の瑞金に中華ソビエト共和国臨時中央政府が樹立されると瑞金に入り、軍事委員会副主席として活動、長征に妻と共に参加した。遵義会議では自ら自己批判をし、毛沢東が主導権を掌握するのを助けた。以来、最後まで毛沢東路線を支える役割を果たした。周恩来の名が世界に知られるようになったのは、1936年の西安事件での活躍であった。これは当時「安内攘外」(国内を安定させてから外国勢力を追い払う)政策を採って共産党と抗日運動を弾圧していた蒋介石を、東北軍の張学良と西北軍の楊虎城が西安で拘束、一致抗日を要求した事件である。蒋介石がこの要求に応じないことに困惑した張学良が、共産党に周恩来の派遣を求め、蒋が国内平和を実現し、日本に対して強硬姿勢をとることに同意することを条件に蒋の釈放を提案した。周恩来は両者の間を調停し、誠心誠意、蒋介石に一致抗日を説いた。妥協しない決意を固めていた蒋介石に開口一番「お久しぶりです。校長」と呼び掛けた周恩来の物腰と、その熱意の前に暗黙の了解をしたと言われる。日中戦争(支那事変)が始まると、周恩来は共産党の代表として重慶に駐在し、蒋介石との統一戦線の維持に努めた。日本が中華民国を含む連合国に対して降伏した後はそのまま重慶に止まり、毛沢東と共に戦後の連合政府の樹立に向けた国共会談を続けた。しかし、これは物別れに終わり、国共内戦が始まった。内戦に勝利した共産党は、1949年10月1日、中華人民共和国を建国した。なお、中国共産党政府は日本人戦犯(捕虜)の思想改造を行った上で、戦争犯罪について判決を出したいと考えていたが、それをいかにして行うか、計画があったわけではないようだ。ただし、日本人戦犯の処遇に直接あたった周恩来の理想主義が色濃く出ている。撫順管理所の孫明斎所長、金源副所長、曲初副所長らが『覚醒』のなかの論文で述べており、また部下によれば、周恩来は東北人民政府の公安部に対し、「外部に対して厳重に警護し、戦犯たちの安全を確保する。一人の逃走者も、一人の死亡者も出さず、内部は緩やかにし、殴ったり、人格を侮辱したりしない。彼らの民族的な風俗、習慣を尊重し、思想面から彼らの教育と改造を行う」とまず指示したという。その後日本軍の捕虜に対して、「服役期間中に態度が良好だった戦犯に関しては、早期釈放をしても良い。年配者や体が弱い者或いは病人も釈放を考慮し、家族の訪中や見舞いなどを許可する」「民族間の恨み、階級間の憎しみ、それを忘れてはいけない。しかし、それでも私たちは彼らを「改造」し良くしなくてはいけない。彼らを生まれ変わらせ、我々の友にしよう。日本戦犯を『鬼』から『人』に変えられるかどうか、これこそ中国文化の知恵と力量に対する試練なのである」と述べている。管理所職員やその家族などの多くが日本軍の被害を受けていたため戦犯を厚遇する事に反発がでたが周恩来は『復讐や制裁では憎しみの連鎖は切れない。20年後に解る」と諭した。「最初の日本人戦犯裁判で起訴155人死刑7人執行猶予付き死刑3人が確定したが周恩来の指示で最終的に起訴51人死刑なし無期懲役なし懲役20年4人に減刑された。あまりの寛大な処置に収容所スタッフから不満が出たが「今は分からないかも知れないが20年後、30年後に分かる。」周恩来は言ったという(ちなみに連合軍側が裁いたBC級戦犯の裁判では死刑判決が920人、終身刑判決が383人だった)。元戦犯たちが日本に帰国し中国帰還者連絡会を結成した。そして、その代表団が日中国交正常化後に再び訪中した際面会した周恩来はこう言ったという。「今度、日中両国の間に国交が回復(実際は国交正常化)したことはまことに喜ばしいことです。これは経済的基盤の異なる両国の総理が紙の上で約束したものであります。しかし、本当の友好はこれからでありましょう。中国人民と日本人民がお互いにもっともっと理解を深め、その相互理解の上に信頼の念が深まってこそ、初めて子々孫々に至るまで変わることのない友好関係が結ばれることでしょう。これにはまだ永い年月がかかることでしょう。日中友好のためお互いにいっそう努力しましょう」。また、日本人戦犯だけでなく、対日協力者だった戦犯にも寛容であり、満州国皇帝の愛新覚羅溥儀や蒙古聯合自治政府主席のデムチュクドンロブなどが周恩来から特赦と役職を与えられている。中華人民共和国の建国後、周恩来は国務院総理(首相に相当。建国当初は政務院総理と称していた)に就任し、1976年に死去するまで27年間この地位にあった。また、1958年まで外交部長(外務大臣)を兼任し、外交政策を主管した。周恩来は1954年のジュネーヴ会議に中華人民共和国代表として出席し、第一次インドシナ戦争休戦の実現に尽力し、その間にインドのジャワハルラール・ネルー首相と会談して、平和共存・内政不干渉などの平和五原則を発表した。翌1955年にはインドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)にも出席して平和五原則を平和十原則に拡張し、新中国がアジア・アフリカの反植民地主義の立場にある第三世界であることを世界にアピールした。特にインドネシアのスカルノ大統領とは「北京=ジャカルタ枢軸」と呼ばれる関係を築き、国際連合の非加盟国でつくる「第二国連」を構想して(CONEFO)を結成し、台湾の中華民国が加盟する国際オリンピック委員会に対抗して新興国競技大会なども行った。1960年代に入り、中華人民共和国とソビエト連邦との対立(中ソ対立)が激しさを増すと、中華人民共和国はアメリカ合衆国や日本との国交正常化を求めるようになった。周恩来は文化大革命の最中、総理として両国との交渉を管掌した。1971年には当時のウ・タント国連事務総長の支持を受けて東側諸国や非同盟諸国、英仏など西側諸国からの賛成も得てアルバニア決議が国連で可決され、中華人民共和国は国連安保理常任理事国として国連に加盟し、中華民国を国連から追放させ、各国と国交断絶させることに成功する。1972年、アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンの訪中を実現させ、アメリカとの国交正常化交渉を前進させた。さらに同年、訪中した日本国内閣総理大臣田中角栄と数度にわたる交渉に臨み、日中共同声明に調印して日本との国交正常化を実現した。調印式で交わした田中角栄との固い握手とその写真は時代の象徴として語り草になった。「日本人民は軍国主義者の犠牲になった被害者だ」、「日中両国には、様々な違いはあるが、小異を残して大同につき、合意に達することは可能である」「わが国は賠償を求めない。日本の人民も、わが国の人民と同じく、日本の軍国主義者の犠牲者である。賠償を請求すれば、同じ被害者である日本人民に払わせることになる」と話し、日本のマスコミから賞賛されたが、近年明らかにされた外交文書ではアメリカ合衆国国務長官ヘンリー・キッシンジャーに対し「日本の台頭は米中両国の脅威である」などと話していたことが明らかになっている。周の誠実な人柄と、自ら権力を欲しない謙虚な態度と中国革命への献身は、中華人民共和国の民衆から深い敬愛を集めていた。また、その人柄からニクソンやキッシンジャー、田中角栄など、諸外国の指導者層からも信頼が厚かった。文化大革命(プロレタリア文化大革命)が勃発しても周恩来は毛沢東に従い続け、走資派(実権派)のレッテルを張られた劉少奇らの粛清に協力した。文革勃発時に有力幹部の殆どが失脚、または死亡する者さえいた中、周恩来は最後まで地位を保った。周恩来は毛沢東の路線に従い、毎日紅衛兵を接見して指示を与えた。劉少奇を「敵のスパイ」と決め付ける党の決定を読み上げたのも周恩来だった。その一方で周恩来は文革の「火消し屋」として紅衛兵の横暴を抑えようとした。紅衛兵が北京の道路を「右派に反対する」と言う理由で左側通行に変えさせた為、交通が大混乱に陥った時も、周恩来が介入して止めさせた。また故宮を紅衛兵が破壊しようとした際にも、軍隊を派遣し文化遺産を保護した。更に出来うる限り走資派のレッテルを張られた多くの党幹部を保護しようと努めた。例えば1968年8月26日、外相の陳毅が紅衛兵に襲われそうになったとき、周は「君たちが陳毅を吊るし上げるのなら私は前に立ちはだかる。それでもまだ続けたいのなら私の身体を踏みつけてからにせよ!」と叫び、身を挺して守った。しかし、周恩来のこれらの行動には限界があり、全体として文革の嵐を止めることは出来なかった。ここに、最後まで毛沢東に忠実だった宰相・周恩来の限界があった。その象徴的事例として、彼の養女であり女優であった孫維世の悲劇がある。孫維世は毛沢東の妻である江青の激しい憎悪の対象であった。江青のこの感情は、江青が上海で女優をしていた時、不遇だった自分に比べ脚光を浴びていたからとも、「延安四大美女」のひとり、或いは「紅色公主」(赤いプリンセス)と呼ばれていた彼女に毛沢東が関係を迫った事を知っての嫉妬だったとも言われる。江青の差し金によって逮捕された孫維世は北京獄中で拷問を受けて死亡した。遺体には大型の釘が打ち込まれていた頭頂部など拷問の痕跡が発見され、これを見た周恩来は検視を要求したが、「遺体はすぐに火葬する」と告げられたという。しかし、周恩来は養女である彼女のために何もしなかった。それどころか、孫維世へ対する「ソ連修正主義者のスパイ」という逮捕状にサインしていたのは周恩来本人だったとの証言も残されている。転機となったのが1971年の林彪失脚(林彪事件)であった。林彪は毛沢東の後継者とされ、ナンバー2であったが、じきに毛沢東の信頼を失い、毛の暗殺を計画したが失敗(林彪は毛沢東が文革で中国を破壊する事に批判を強めていたとも言われる)。ソ連に逃亡する途中に搭乗機がモンゴルで墜落し死亡した。これが契機となって鄧小平が復権、一部幹部の名誉が回復された。周恩来は鄧小平と協力して文革の混乱を収拾しようとした。更にその後、周恩来は江青ら四人組との激しい権力闘争を強いられたが、最後まで毛沢東に信任され、実権を握り続けた。1975年には国防・農業・工業・科学技術の四分野の革新を目指す「四つの現代化」を提唱し、後の鄧小平による「改革・開放」の基盤を築いた。周恩来は文革の最中、長時間の紅衛兵との接見や膨大な実務に奔走した。十数時間も執務し続けることも珍しくなかった。これに前述の孫維世の件など激しい心労も加わり、彼の体は病に蝕まれていった。1972年に膀胱癌が発見される。その後も休むことなく職務を続けたが、病状は悪化の一途をたどった。1974年6月1日、北京の解放軍第305病院に入院。だが、病室でなおも執務を続けた。1975年1月の第4期全国人民代表大会第1回会議では、病身を押して、国務院総理として政治活動報告を行う。同会議において総理に再選。しかし、同年秋から病床を離れられなくなり、ついに1976年1月8日、周恩来は死去した。彼の死後、文革によって苦しめられていた民衆が周恩来を追悼する行動を起こし、これを当局が鎮圧するという第一次天安門事件が起こった。また、その遺骸は本人の希望により火葬され、遺骨は飛行機で中国の大地に散布された。これらは生前に妻の鄧穎超と互いに約束していたことであった。四人組によって遺骸が辱められることを恐れたためと言う。周の葬儀には宋慶齢も参列した。1972年のニクソン大統領訪中のお膳立てをしたキッシンジャーは、周恩来を「今までに会った中で最も深い感銘を受けた人物」の一人に数え、「上品で、とてつもなく忍耐強く、並々ならぬ知性をそなえた繊細な人物」と評している。国連事務総長だったダグ・ハマーショルドは「外交畑で今まで私が出会った人物の中で、最も優れた頭脳の持ち主」と証言している。ノロドム・シハヌークは中国の援助したクメール・ルージュに苦しめられた経験があったが、周恩来は高く評価していた。その理由を尋ねられたシハヌークは「だって、彼のほうが私よりよっぽど王族らしいじゃないか」と答えている。『周恩来伝』を書いたジャーナリストのディック・ウィルソンは、周恩来をケネディやネルーと比較し、「密度の濃さが違っていた。彼は中国古来の徳としての優雅さ、礼儀正しさ、謙虚さを体現していた」と最大級の賞賛をしている。また、1954年以来チャーリー・チャップリンとも親交を持ち(ジュネーヴ会議出席の際、1952年からスイス在住であったチャップリンを訪ねている)、彼の作品の一つ「黄金狂時代」の名シーンであるチャーリーが靴を食べる場面を見て、長征の際の苦難を思い出し、懐かしがったと言う。日本でも周恩来に傾倒した著名人は多く、日本人70名が寄稿した文集『日本人の中の周恩来』がある。中国政府と関わりが深かった創価学会名誉会長の池田大作は「名優のごとく、言葉がわかりやすく、しかも深い。鋭さと温かさがある」と周恩来を評している。しかし、周恩来とインド訪問などでともにしたダライ・ラマ14世は毛沢東を「革命の真の偉大な指導者」とする一方で、周恩来は「大変ずる賢いと思った」と評している。鄧小平は周恩来が文革期に毛沢東に妥協して走資派(実権派)粛清に協力したことに複雑な胸中だったと言われるが、周の没後ジャーナリストに対しては以下のように語っている。「彼(周恩来)は同志と人民から尊敬された人物である。文化大革命の時、我々は下放(地方、農村での思想矯正)したが、幸いにも彼は地位を保った。文化大革命のなかで彼のいた立場は非常に困難なものであり、心に違うことをいくつも語り、心に違うことをいくつもやった。しかし人民は彼を許している。彼はそうしなければ、そう言わなければ、彼自身地位を保てず、中和作用をはたし、損失を減らすことが出来なかったからだ」周恩来が、日本留学時に京都の嵐山で失意のうちに作った「雨中嵐山」の詩を刻んだ石碑が、嵐山公園(亀山公園)内にあり、現在では日中友好のシンボル、中国人観光客の観光スポットとなっており、中国要人が関西を訪問した際も大抵ここを訪問する。碑文は廖承志中日友好協会会長が、日中友好条約締結時の1978年に揮毫したものによる。
出典:wikipedia
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