浅丘 ルリ子(あさおか ルリこ、1940年7月2日 - )は、日本の女優。本名、浅井 信子(あさい のぶこ)。愛称はルリルリ。身長156cm、体重35kg。サイズ B79/W53/H75 血液型はA型。前夫は石坂浩二。満州国新京市(現・長春)に生まれる。東京の下谷生まれの父・浅井源治郎は芝中学、上海の東亜同文書院、中央大学卒業後大蔵省に入省。1933年、満州国奉天に派遣され、その地で母・ちょうと結婚、ルリ子は4人姉妹の次女として生まれる。父は満洲国経済部大臣秘書官を経て1943年にタイのバンコクへ軍属として転居。終戦後に一家はメナム川の岸辺にあったパンパートン抑留所へ強制収容されるが翌1946年には引き揚げが始まる。しかし軍属を最優先として先に出港したその船は沈没してしまい一家は命拾いする、やがて大洗港の近くに住む親戚を頼り、まもなく館山の引き揚げ寮へ入寮。信子が小学校3年生の時に父が代議士秘書の職を得て一家で東京神田鍛冶町の借家に落ち着く。ちなみに実妹のクラスメートに星由里子がいた。家庭は大変貧しかったものの母が毛布を裁断し染めることに依ってコートに仕立ててくれたりと貧しいながらにも創意工夫に満ちた生活を送っていた。読売新聞に連載されていた北条誠の小説(挿絵は中原淳一)『緑はるかに』を 水の江瀧子プロデュース・井上梅次監督で映画化するに当たって、ヒロインのルリコ役を募集しているのを 千代田区立今川中学校在学中の1954年(昭和29年)夏に知り、両親賛成のもと応募、11月23日に面接が行われ約3,000人の中から中原淳一の強力な推薦の下選ばれ銀幕デビュー、ルリコカットが流行し、美少女として脚光を浴びる。しかし学校を長期欠席しての撮影だったため、PTAと生徒会が奉祝の花輪を出したことで一時物議を醸した。1956年2月、映画「愛情」の軽井沢ロケでキッスシーンがあることを知らされ、公私共に初めてであることから大変動揺する、だが父より「どんな役でも立派にやり遂げなければ一人前の女優になれない!」と諭され奮起する。1961年8月に小林旭と別れ、この頃より生活が荒むものの石原裕次郎に励まされ持ち前の根性で再起する。また1964年には「夕陽の丘」でレコードデビューした。日活の看板女優として数多くの映画に出演し、人気を博した。現在までの映画出演本数は150本以上。日本映画全盛期に一世を風靡した日活アクション映画における代表的なヒロインであり、小林旭の『渡り鳥』『流れ者』『銀座旋風児』の三大アクション・シリーズや 石原裕次郎のムード・アクション・シリーズ(『赤いハンカチ』(1964年)、『夕陽の丘』(1964年)、『夜霧よ今夜も有難う』(1967年)等)など多数の作品でヒロイン役を演じた。蔵原惟繕監督の『銀座の恋の物語』(1962年)や、『憎いあンちくしょう』(1962年)、『何か面白いことないか』(1963年)、『夜明けのうた』(1965年)の典子三部作により男性スターの彩り的存在から脱皮、100本出演記念映画となった蔵原惟繕監督の『執炎』では、愛する夫を戦争に奪われた女性の姿を演じ、同じ蔵原監督の映画『愛の渇き』(1967年)でも熱演を魅せた。1966年には日活との専属契約を解消し、石原プロへ入社。1972年、石原プロが劇場用映画製作から撤退したことにより石原プロ退社。また、映画の主題歌などを中心に歌手としても多くの曲を発表、1969年のシングル『愛の化石』はヒットした。その他にも、『太平洋ひとりぼっち』、『水で書かれた物語』、『私が棄てた女』、『栄光への5000キロ』、『戦争と人間・第一部〜第三部』、『告白的女優論』、『鹿鳴館』、『博士の愛した数式』などの映画の話題作に出演した。特に、映画『男はつらいよシリーズ』で演じたクラブ歌手の「リリー」の役は大好評で、マドンナとしてシリーズ最多の4回の出演を数え、最後の作品となった『男はつらいよ 寅次郎紅の花』でもマドンナ役を務めた。この最終作の撮影現場で具合の悪そうな主演の渥美清の姿を見て、「もしかしたらこれが最後の作品になるかもしれない」と思ったという。そのため、監督の山田洋次に「最後の作品になるかもしれないから、寅さんとリリーを結婚させてほしい」と頼んだと言うが、山田は50作まで製作したかったらしく、浅丘の願いは叶えられず、渥美は映画公開後9ヶ月後にこの世を去り、「紅の花」が最後の作品になってしまった。1980年代以降は活動の中心を舞台に移し、泉鏡花の作品などに出演している。1960年頃に一時、小林旭と事実婚の関係にあったがその後解消。1971年日本テレビのドラマ『2丁目3番地』での共演をきっかけに石坂浩二と結婚。石坂は当時の世の男性の羨望を一身に集める事となったが、程なく別居。2000年に離婚後は大衆演劇俳優で「劇団誠」座長、松井誠との交際を公にしていたが、2013年3月には金児憲史との交際が報じられて話題になった。2008年11月山形県東根市で開催されたひがしね湯けむり映画祭にゲストで招かれトークショーを行う。これは、長い女優人生で初のことだったが、それからは解禁している。大女優でありながら、気さくで面倒見が良く、東根が縁で親しくなった山形市在住のラジオパーソナリティ・荒井幸博のラジオ番組にも何度か出演。2013年6月5日には天童市民会館でのきらやか銀行経営者セミナーにおいて二人でトークショーを行い、荒井のリクエストに応え、故渥美清を送る会で読んだ弔辞を17年ぶりに涙ながらに読んだ。更に、「港が見える丘」「愛の化石」と得意の歌も披露している。2011年5月21日にはプライベートでも親交が深く60年来の旧友であった長門裕之が逝去直後には津川雅彦と一緒に長門の自宅へすぐに駆けつけて、津川と二人でマスコミなどの対応に応じた。性格は姉御肌で青春映画全盛期だった当時の日活において後輩の男優と女優に対する躾が厳しく、特に高橋英樹はデビュー当時より教育係であった浅丘に散々世話をかけ、そして弟分のように可愛がられていたことから未だに「ヒデキ」と呼ばれている。大原麗子を実妹のようにたいへん可愛がっていた。佐久間良子ともデビュー当時から仲良しの親友である。親友だった長門とは麻雀仲間でもあったそうで麻雀の実力もプロ級といわれる。のちに「歌謡界の女王」と呼ばれた歌手・美空ひばりとは石原裕次郎のホームパーティーで知り合い意気投合して、その後プライベートでも親交が深く大親友だったことが知られている。「ファッショナブルな女優の代名詞」としても有名。趣味はスワロフスキービーズ細工。自身が身につける物はもちろんのこと、舞台の際は販売もしている。プロ級のセンスである。また、「スマスマ」で披露した、お手製ドレッシング、豚の角煮など、料理の腕前もプロ級。『私の履歴書』によれば、瞬く間にスターとなり、それまで神田の下宿住まいから、多忙のため日活撮影所近くの家を借り、遂にはその家を買って隣の空き地まで増築するほどだったという。その家は、前述のように高橋英樹ら若手俳優らが、毎日夕食をご馳走になりに来るほどであり、「私の収入のいくらが、彼らの胃袋に消えていったか」と、自嘲している。自身が大スターであるにも関わらず、遅刻が当たり前の風潮を良しとせず、先輩・後輩問わず厳しい態度で接している。実際に、1時間遅刻をした高橋英樹を楽屋に呼び、「ヒデキ、分かっているわね?」と問いただしたところ、高橋は顔面蒼白で「ルリ子さん、すみませんでした!」と、平身低頭で謝罪したという。また、『座頭市』で勝新太郎と共演した際も、2時間以上も遅刻してきた勝を演技中でも許さず、勝がようやく謝罪したところで許したという。※太字はキネマ旬報ベストテンにランクインした作品
出典:wikipedia
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