二箇相承(にかそうじょう)とは、1282年(弘安5年)、日蓮が、弟子の日興に宛てたとされる二通の書。二通をまとめて二箇相承といい、もともとは重須本門寺(北山本門寺)に伝えられたものであるが現在は日蓮の真筆は共に無く、写本のみが京要法寺、富士大石寺、西山本門寺等に伝えられている。またさまざまな異本が存在する。一通目には日興が日蓮の一切の法の継承者であることが記されており、1282年(弘安5年)5月、日蓮が湯治のため身延を出発する直前に身延山中で書かれたと記述されているため身延相承とも、内容から日蓮一期弘法付属書とも総付嘱書とも称される。身延を出発した日蓮は途中池上で病が篤くなり入滅した。その直前に書かれたとされる二通目には日興を身延山久遠寺の住職とすると記しており、池上(池上本門寺)で書かれたため池上相承とも、また身延久遠寺の別当(住職)であるとの記述から身延山付属書とも別付嘱書とも称する。身延相承は日付が9月13日になっているが、元祖化導記には9月8日に身延沢を出発したとあり13日にはすでに身延山に日蓮は居ないことになる。この日付のずれから二箇相承は偽書であるとの指摘がされている。上代には記録が無いことも偽書であるという主張の根拠とされているが、富士大石寺によると日蓮滅後27年目に六老僧の一人日頂の本尊抄得意抄添書があるとされる。ただしこの書では教主日蓮と記されているのに対し、日蓮の真筆とされる多くの遺文では教主を釈尊としていることから、この書も後世の偽作との指摘がある。「日興に授くる遺札」が二箇相承である証拠はないが、なんらかの相承書があったとみることができる。日蓮の弟子たちは、日蓮の教えを法と呼び、これを正しく伝えることを相承、付属、付法などと呼んでいる。唯受一人(ゆいじゅいちにん)血脈相承とも嫡々付法ともいい、日興が正統であるという主張の根拠としている。厳密には、二箇相承と血脈相承とは別ものである。ただ日興のみ一人が相承したという日興門流の主張は、他の日蓮各派は認めていない。日廣本は未公開であるため、その内容は確認できないが、後に紹介する日教は、同じ住本寺の出身であるため日教本と同じ内容と考えられている。住本寺の日叶が文明14年ころ大石寺に帰伏し名を日教と改めた。日教本と呼ばれているものは2種類あり、身延相承と池上相承の中身が入れ替わっている。(*内が正しいのでは?)ただし、大石寺に伝わる第14世日主(在位:1573年 - 1586年)の写本は「身遠山」となっており、大石寺側は、正本が「身遠山」であった可能性もあるとしている。日主の写本は、日辰本とほぼ同じとされている。二箇相承以外にも、両巻血脈といわれる「百六箇抄(血脈抄)」「本因妙抄(法華本門宗血脈相承事)」などがあるが、いずれも同門他派からは疑義の強い書として批判されている。日蓮正宗では、『身延山付嘱書』(別付嘱書・池上相承とも。二箇相承の一。)を根拠として、日興が宗祖滅後から身延離山まで7年間身延山久遠寺別当を務めた、と主張している。その一方で、日蓮宗は、同書を偽書とし、同主張を是としていない。■日蓮正宗史の研究 高橋粛道著 妙道寺事務所
出典:wikipedia
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