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原田真二

原田 真二(はらだ しんじ、1958年12月5日 - )は、日本のシンガーソングライター。広島市榎町(現・中区榎町)出身。ボーカル、作詞、作曲、編曲、プロデュース。楽器はギター、ピアノ、キーボードを主要に扱うが、ベース、パーカッション、マリンバ、ブルース・ハープ、ドラム、琴、和太鼓なども演奏。ミックス、プログラミングもこなす、マルチプレイヤー、マルチミュージシャンである。所属事務所はエアーフィールド(個人事務所)。広島舟入高等学校2年在学中に、フォーライフ・レコード新人オーディションに応募。吉田拓郎に見出され3,000曲の中から選ばれた。1977年4月、青山学院大学経済学部第二部経済学科入学と同時に上京。18歳だった同年10月25日に、拓郎プロデュースにより「てぃーんず ぶるーす」でデビューした。フォーライフに送った応募テープは、一人で多重録音をしていたといわれ、ピアノの他、ギター、シンセサイザーもこなし編曲も自分でやったといわれる。セカンド・アルバムをセルフ・プロデュースしたように最初から音楽的すごさ・才能のずば抜けた"早熟の天才"であった。デビューアルバムに参加した鈴木茂が、「ほとんどやることはなかったよ」と言ったという。原田真二バンドと佐野元春のバンド、ハートランドをドラマーとして掛け持ちした古田たかしは、ブレイク前の佐野を「すごいんだよ、マインドが真二とそっくりなんだ」と評した。「てぃーんず ぶるーす」発売後、翌11月に「キャンディ」、12月に「シャドー・ボクサー」をリリース。「3ヶ月連続レコードリリース」という前代未聞の形でデビューを飾ると、3曲が同時にオリコンベスト20入りするという、日本音楽史上初の快挙を達成した。「3ヶ月連続レコードリリース」は、当時の所属事務所の社長大里洋吉のアイデアによるものだが、どの曲も捨てがたく1曲にデビュー曲を絞れなかったという事情もあった。「てぃーんず ぶるーす」、「キャンディ」、そして翌年に発売された「タイム・トラベル」は『三部作』と呼ばれる。更にファーストアルバム「」(1978年2月発売)も、オリコン史上初の初登場第1位を獲得した(4週連続1位)。10代でのファーストアルバム、オリコン1位獲得は、男性シンガーソングライターでは未だ原田のみ(2011年10月現在)。1978年7月24日、デビュー1年目(9ヶ月)、10代ソロ歌手、では史上初の日本武道館公演を行う。この公演を皮切りに9月15日の大阪府立体育会館まで全国六都市12ヶ所で行ったアリーナ(体育館)ツアーも、井上陽水がやって以来のもの。まだコンサート用のアリーナが少ない時代で、5000〜6000人規模の全国の体育館を廻った。音楽最優先のスタッフが結集され、当時世界最高のPAシステムをアメリカとイギリスから導入した。お客はほぼ100%女子中高生であった。この年の武道館ライブを中心としたステージ・ドキュメント映画「OUR SONG and all of you」も製作されている。監督はドキュメンタリー映画「キャロル」で名をあげた龍村仁である。翌1979年の武道館では、数曲、サックスプレイヤーの手を借りた以外は、原田のバンド5人だけで全ての音を出した。ギター1本弾き語りの松山千春を除くと、当時の武道館コンサートでは、最も小さい編成でやり遂げ、バンド総体としてのハイレベルのパフォーマンスも高い評価を受けた。同年、4枚目のシングル「タイムトラベル」で『第29回NHK紅白歌合戦』にも初出場。「日本のニオイのまったくないメロディー」などと評され、それまでとは比べものにならないくらいポップ感覚にあふれた洋楽的なサウンドは、「和製ロック」に新しい可能性と展開をもたらした。原田自身も「最初から洋楽のロックの世界を目指した」と話している。ポール・マッカートニーやエルトン・ジョン、ギルバート・オサリバンなどのロック系シンガーソングライターに通じる本格的なポップス感覚は、それまでのフォークを基調にした"私小説的"な、日本のシンガーソングライターのイメージを覆した。"元祖ピアノロック"等と今日いわれるように、男性のピアノの弾き語りというスタンスが珍しかったこと、その特徴あるカーリーヘアーと少女マンガの世界から飛び出したような可愛いルックス、ハスキーボイスが、女子中・高校生を中心に絶大な支持を受けロック・アイドル的人気を博した。すさまじい人気は本家・男性アイドル新御三家を完璧に食い、洋楽アイドル、ベイ・シティ・ローラーズらにも対抗した。当時はまだ"ニューミュージック系の人達はテレビに出ない"という風潮がある時代であったが『ザ・ベストテン』(TBS、1978年1月放送開始)が始まったこの時期、大里と拓郎は原田を積極的にランキング番組やアイドル系歌番組にも出演させた。『ザ・ベストテン』には第3回(1978年2月2日)放送で、ニューミュージック系歌手として初出演、第5回(1978年2月16日)放送では、番組初の2曲同時ランクイン、以降も毎回のように出演し、少し早くデビューしたChar、同時期にデビューした世良公則&ツイストとともにロック御三家と呼ばれ、初めて頻繁にテレビ出演したロック系ミュージシャンであった。また「月刊明星」、「月刊平凡」、「セブンティーン」などのメジャーなアイドル雑誌、芸能誌にも頻繁に登場。当時アイドルの最大のステータスともいえた「月刊明星」(1978年3月号)の表紙や「TVガイド」の表紙をニューミュージック系、ロック系ミュージシャンとして初めて飾るなど、極めて歌謡曲的な売り方、話題先行型のプロモーション戦略をとり、これが見事に的中した。原田らが成功したことで、シングルチャートやテレビ、ラジオの歌謡曲番組へのニュー・ミュージック系ミュージシャンが、地すべり的に大量進出する傾向が決定的なものとなり、日本の音楽シーンの流れが大きく変わった。「ロック御三家」によって日本のロック・シーンが活況を呈し、テレビを中心とした用意周到なメディア戦略で打って出たサザンオールスターズ、それまで地味な活動を続けていたゴダイゴ、甲斐バンド、柳ジョージ&レイニーウッドなどが続いた。結果的にロックはアイドル化・歌謡曲化してゆくことでメジャー化し、巨大ビジネスとなっていったのである。「ロック御三家」が開拓したローティーン向けロック・アイドルの系譜は今日まで絶えたことはない。ロックアーティストがテレビと本格的に向き合う"尖兵"となった原田の登場は、後に続いた多くのポップシンガーに大きな影響を与えており、その功績は図り知れない。『ザ・ベストテン』で黒柳徹子から「ビーバーちゃん」という愛称を付けられる等 アイドル性が強調されたが、マスコミや業界の間では"生意気"で通っていた。まだ10代という若さ、かわいいルックスと相反する明確な主張ゆえに衝突を生んだ。バラエティー番組での番組プロデューサーとのトラブル(後述)に始まり、新人でありながら「レコード大賞」等、日本音楽界の権威の象徴であった音楽賞への参加を早々に辞退したことでマスコミから叩かれた。まだ"アーティスト志向"という括りがなかった芸能界において、洋楽的志向の裏返しから脱アイドルを望み「アイドルじゃなくてアーティストです」と主張したりした。「歌謡曲は最高にイヤ」「芸能界の体制には巻き込まれたくない」「全米でデビューしたい」 発言等、原田自身「『OUR SONG and all of you』に映る僕は生意気すぎて、今の僕にはまともに見れない」「洋楽の世界のような音楽界にデビューしたつもりでいたのが、そこは厳しい日本の芸能界だった」と当時を振り返り話している。この他、当時の音楽番組は基本的に生放送・生演奏が多く、出演歌手は番組専属のオーケストラのバック演奏で歌っていたが、生番組で自らのバンドを率いて演奏する原田らと番組スタッフが、演出法に対してもめる事が多かった。例えば、NHKホールなどの公開番組で、演奏に必要なモニタースピーカーが十分に用意されていなかったり、短時間の間にバンドを入れ替えセッティングするのは難しかった。新人が意見するということ自体がタブーだった時代、ちょっとでも意見をいうと「生意気なやつだ」となり一悶着、そういう時代であったという。メインのスタジオと別にセットを組む、別スタジオからの中継は原田らの登場から始まったものアサヒ芸能2010年10月21日号 徳間書店 p52-55。こうした改善も含めて彼らの頻繁なテレビ出演は、後のテレビ界・音楽界に多大な影響を及ぼしたといえる。原田は「そこを一番最初にちゃんと改善してくれたのは『ザ・ベストテン』で、スタジオ内に多チャンネルのミキサーを置いてくれたし、目の前にモニタースピーカーも用意してくれた。その後『夜のヒットスタジオ』なども良くなっていった。『ミュージックフェア』は昔から良かった」等と話している。父は英語塾の講師、母は小学校の国語教師。母の影響で幼少の頃から読書好きでニックネームが博士。宇宙飛行士になるのが夢だった少年だったが、小学校上学年の頃、ザ・モンキーズのテレビショーを見て音楽に興味を持つようになり中学からギターを始める。中学、高校は、エルビス・プレスリー、エルトン・ジョン、ポール・マッカートニー、スティービー・ワンダー等の洋楽に魅了される根っからの洋楽志向。ブラック・アンド・ホワイトの両方を好む。広島出身の原田が通った本川小学校は原爆ドームの川向いで、平和教育をごく必然的に学ぶ環境であった。また中学の時、高校受験を突破するという名目で通った、プラスの方向へ潜在意識を動かすことにより、人間の潜在能力を引き出すメンタルトレーニングのセミナー「考え方教室」で、心の大切さ、人間の可能性について学び、人にはもっとやれることがあるんじゃないかという考えが芽生える。これらの学びがその後の原田の音楽的テーマの基盤となっている。関連して、精神世界関連等、広く探求していたこともあり、コスモポリタン、救世主、潜在意識、ヒーリング、プラス思考といった、当時としては聞き慣れない難解な用語を混ぜて音楽を語ったり、その哲学的側面も芸能界において異質とみなされる部分もあった。ちなみに、デビュー当時の座右の銘は、ジョセフ・マーフィーの「人生に奇跡をおこす」。近年では「Where there is a will,there is a way!」(意志のある所に、道は開ける) と言っている。デビュー時の所属事務所アミューズは、現在はサザンオールスターズ(桑田佳祐)の貢献により大手となっているが、当初は渡辺プロダクションのマネージャーだった大里洋吉(現アミューズ会長)が渡辺プロダクション退社直後に原田を紹介され、原田のために設立した弱小個人事務所であった。アルバム(LP)中心のアーティストのためのプロダクションを経営したいと考えていた大里のところに、原田に最初に接触したバーニングプロダクションとフォーライフが原田のプロモーション・マネジメントを持ちかけた。「マスメディアを使うにもバーニングでは原田との接点がない、フォーライフではマスメディアとの接点がないということで、ぼくが間に立つことになった」と大里は説明している。デビュー間も無くの人気沸騰で、毎日がアイドル雑誌の取材やテレビ出演など息つく暇なく多忙な日々に追われた。また、事務所社長大里がキャンディーズの元マネージャーだった事から、改めて渡辺プロダクションに契約プロデューサーとして出向しその解散コンサートにかかりっきりとなったため、原田の活動を十分にケアーすることができなかった。この芸能界のリズムに巻かれ進んでいたのでは、アーティストとしての創作活動など無理なように思え、先々の不安が重なったことが事務所移籍を決断した大きな理由だった。結局、アミューズは半年で退社。入れ替えに入社したのがサザンオールスターズで、大里は「原田が辞めていなかったら、サザンオールスターズを売り出す余裕はなかった」と話している。またそのかわいいルックスとあえてピアノを弾いて歌うイメージ戦略、松本隆の繊細な詞の世界も、デビュー時の人気に一躍買ったわけだが、その一方で“ひ弱で軟弱なアイドル”的なイメージで見られる事も多く、原田自身は、一貫した音楽で伝えたいテーマを持っていたことから、脱アイドルを望み、意識的にロックテイストとメッセージ性の強いハードな方向へと進んでいく。そして、初めて作詞も手がけた6枚目のシングル「OUR SONG」は、どうしても強力なメッセージを込めたロックバラードに仕上げたかったという(Making of our song)。9枚目のシングル「」でも「自分だけの道を、自分の形で、自分以外のために」とこれからの方向性を示唆した。この曲を最後に、より自分らしい活動を求め21歳で独立。原田自身はこのデビュー時を振り返って、この時代、楽曲達があったからこそ、これから頑張らなきゃいけない時期まで今の自分が生かされてきたと語っている( 他、主にライブで発言された)。3万人とも言われたファンクラブ会員がいたこととは裏腹に、“アイドル”という括りにされることから“自分がやりたい音楽”がうまく出来ず、デビュー3年目でマネージャーだけ連れて、セルフ・プロダクション(個人事務所)「クライシス・マネージメント」(現・エアーフィールド)を興す。「普通は人気が確立されてから独立を考えますが、そういう状況じゃなく独立したので、たちまちイメージしていたものが打ち砕かれて大変な状況になった。今思えば無謀。でも、だからこそ経験できたこと、学べたことがいっぱいあった。ほとんどのアーティストは売れるまでに下積み時代があるのですが、僕にはそれがなかった。必要だからこそ通ってきた道なんだろうなあと今思う」と語っている。その後はデビュー時ほどのヒットは無いものの、コンスタントに自作を発表しており、現在までにリリースされたアルバム・シングルは50枚以上になる。1980年代からはソングライターとしても活躍し、吉川晃司や松田聖子とのコラボレーションでは、オリコンベストテンヒットも出している。その他のアーティストにも150曲以上の楽曲を提供。またCM・TV番組テーマ曲・ミュージカル音楽など多方面で活躍。複数の小学校の校歌も手がけている。2001年から2004年まで松田聖子のライブパートナー、プロデューサーとして活躍。これは少女期にファンクラブに入るなど原田ファンだった松田からの申し入れであった。二人の息子も音楽の道を志しているという。1981年12月25日、中野サンプラザでのクリスマスコンサートのステージ上から、米国への音楽留学による充電(約1年に及ぶ)を発表。英語圏での活動を夢とした原田は、向こうのマーケットの視察、自分のオリジナルなスタイルの確立、曲を書き貯める、歌詞の勉強、をその理由に挙げた。アメリカでは、本場のショーアップされたエンターテイメントとしての音楽を再確認するとともに「逆に日本にいて見えなかった日本のよさ」を強く感じ、日本人としての個性を取り入れたオリジナルなスタイルを確立すべく、洋楽的発想に和を融合させた音楽を模索。帰国後は日本の伝統楽器等を取り入れたジャパネスクな新境地の音楽スタイルも見せ、またダンサブルな方向、ショーアップされたステージへと移行していった( 他、多所で発言)。1983年12月、翌年のニューアルバム発売に先駆け「」と題したアクトを取り入れたコンサートを渋谷公会堂で開催。舞台セット/ライティング/エキストラ/パントマイム/ブレイクダンス等を駆使しオープニングアクト(演劇風演出)等を取り入れ、アルバムと平行したメッセージをライヴでも発信。このショーアップされたステージはアクト・ライヴと題され、1990年代初頭までの彼のコンサートスタイルの一つとなる。。1985年10月には新たに「」というイベントを企画し、金曜日の夜に定期的にライヴを行った。飲食できるスペースも確保しつつ、スタンディング・ライヴで盛り上がる空間の演出と演奏。当時の日本ではまだクラブ感覚でライヴを楽しめる場所がなかった時代に、欧米風システムを持ち込んだ。バンドメンバーもオーディションにより一新。原田自身も大胆に化粧を施し、オリエンタルなコスチュームでビジュアルにも拘った。その後のやのメンバーもこのイベントに参加している。デビューアルバムのタイトルが「」だったように、デビューから音楽のテーマが「」。広島出身であるという事も重なり、当時から一貫して「純粋に音楽の持つ力を信じていて、音楽を通してメッセージを発信し平和に貢献したい」「世界の一人一人が同じ意識を持てば、世の中は平和に近づけるはず」と語っている。近年ではなおいっそうその意識が高くなり、2000年から、自然環境・心の環境問題(やさしさの復活)をテーマにしたチャリティーイベント「鎮守の杜コンサート」を定期的に開催。明治神宮、伊勢神宮、厳島神社などの代表的神社から大中小、全国の神社をその会場としている。2005年より主に鎮守の杜コンサート他、原田のチャリテーイベントをサポートする趣旨のNPO法人「ジェントル・アース(Gentle Earth)」を設立。「鎮守の杜コンサート」他、、「希望の音・夢のはじまり」、「(ニューヨーク)」、「」他、大小様々なチャリティー&平和イベントに携わる。今後も求められるなら、国内外問わず、あらゆる場所に出向き演奏したいと語る。「鎮守の杜コンサート」は現在、開催される地元で実行委員会を立ち上げてもらい、地元の人たちとじっくり作り上げていく。主に神社本殿にステージを作り、レーザー光線、地元の合唱団、ブラスバンド、ダンスチーム、和楽器、サンバ隊などとコラボ。幻想的かつ、お祭り空間を演出。当日は出演者・スタッフ・観客が一体になって達成感を味わい、このコンサートの最大のテーマである(平和のキーワードともなりえる)、大和民族に元来備わっていた、まず他者を思いやり共鳴しあう和の心(調和)、優しさの重要性を身をもって体感してもらい伝えている。上京、初レコーディング/:フォーライフオーディションを合格した原田は、高校卒業後のデビューが決まっていたが、高3の夏休みにレコード会社の招待で上京。銀座の音響ハウスというプロのスタジオを自由に使っていいからと言われ3曲ほど多重録音をさせてもらったが、スタジオには吉田拓郎、井上陽水、小室等、泉谷しげる等、当時のフォーライフの大御所たちが全員見学に訪れ見守り、質問もされる中での作業で、自由どころか、すごいプレッシャーのかかった初レコーディングになったという。デビュー曲/:デビュー曲は、まずは(知名度のある)自分が曲を書いて、と考えたプロデューサー吉田拓郎と、最初が肝心なのでなんとか自作曲で勝負したいと強く希望した原田との間で意見が合わず選択に難航。レコーディング地である箱根のホテルで明け方まで会議したが結論が出ず、早朝、拓郎と二人でプールサイドを散歩していると、いきなり拓郎にプールに突き落とされ、その一部始終を松本隆が8ミリビデオで撮影していたという、半ば計画的とも思えるハプニング。そのあと原田の希望が通り自作曲でのデビューが決まった。「あれはきっと "てぃーんずぶるーす" で行くぞっていうことだったと思うんですよね」と、当時のエピソードとして原田が語っている。なお、レコーディングが行われた南箱根の旧ロックウェルスタジオは、90年代後半に原田が買い取り所有。現在は「Studio Modern Vision」としてリニューアルしている。デビュー曲「てぃーんず ぶるーす」は「君の世代へ」というタイトルの原田が歌詞も付けたものが既に存在していたが、当時の暴走族問題なども取り上げ、自分たちの世代に向かっての強い想いを世界平和の願いも込めて歌うという、ヘビーすぎる内容であったため、拓郎は流行歌として商業ベースに乗せられることが可能な作詞家として松本隆を起用することとなる。松本は、「まだ若いんだから自分がのたうちまわるような歌詞にしたほうがいい」「原田を見たとき、男の子の痛み、壊れやすい少年の世界観が表現できると思った」「原田がセールスに結び付けられたことで、"男の子のアイドル"ボクの少年シリーズ" を、後の近藤真彦で集大成させた」と述べている。歌おう!原田真二と/:初のレギュラー番組はデビュー間もない1977年、東京12チャンネル(現・テレビ東京)の「歌おう!原田真二と」(毎週水曜日夕方4時30分から30分枠)。ゲストも登場し(天馬ルミ子など)最新ミュージックビデオ等も流したりする音楽情報番組であった。ただ大きく違うのは、主に原田とピアノ越しに出てくる人形(アリンス君)が会話をしながら進行していくということ。これには原田も違和感を覚えながらやっていたと十数年後のライブのMCネタで語っていた。全員集合しなかったドタキャン事件/:『8時だョ!全員集合』に出演する際、「少年少女合唱隊」のコーナーでの企画 (振り付けブームの折、デビュー曲「てぃーんずぶるーす」に合わせて振り付けしながら歌う) が、出演当日まで原田サイドに知らされていなかった。原田が拒否したわけではなかったが、リハを終えるとマネージャーがプロデューサーにかけあい、結果「真二帰るぞ」ということになってそのまま帰宅。その夜原田は自宅でバンドメンバーとドキドキしながら生番組の様子を見ていたという。司会のいかりや長介が「今日帰っちゃったやつがいるんだよ」とエクスキューズしたが、その後『8時だョ!全員集合』には二度と呼ばれることはなかった。「TVジョッキー」でアーティスト発言/:デビュー時、数人の新人歌手と一緒にお昼の生バラエティー番組『TVジョッキー』に出演し自己紹介を促された際、他はみんな笑顔で「よろしくお願いしまーす」と挨拶したのに対し原田は「アーティストの原田真二です」とクールに発言してしまい、この"アーティスト"という呼称に司会の土居まさるからはその場で注意を受け、番組終了後、上層部からマネージャー共々お呼び出しがかかり「新人が発する言葉ではない」と厳重注意を受けたという逸話が残る。「誰かに失礼なことを言ったわけでもないのですが、テレビではそういうことは言ってはいけないんだ」とその時初めて認識したという。なお『TVジョッキー』にはその後もお呼びがかかり、この番組の常連となり再三出演。カラオケで歌う歌手が多い中、生放送の小さな公開スタジオにバンド機材を持ち込み生演奏。アルバムの中の曲も歌わせてもらうなど、ロックバンドとしての待遇を受けた。"ジュリーに挨拶しない新人"報道/:新人時代「ザ・ベストテン」の楽屋で、本番前にバンドメンバーとセッションに夢中になり、通りかかった沢田研二に「おはよう」と声をかけられたが気づかず無視した形となった。後で事情を知って、すぐに侘びに行き、沢田は「気にしないよ」と言ってくれたのだが、その時局に居合わせた芸能リポーターが自分が担当する芸能情報番組「3時にあいましょう」の中で「ジュリーに挨拶も返さない生意気な新人」と誇張して話を広めた。真意を確かめようとしたが、その人物は逃げ回ったという。1978年 紅白歌合戦/:1978年は歌謡界にニューミュージックのムーブメントが最初に起こった年で、原田を含めて全員初出場だったツイスト、さとう宗幸、渡辺真知子、サーカス、庄野真代の紅白六組が「ニューミュージック・コーナー」という括りで続けて歌わされた後、ステージの上で一列に整列、みんなで審査員の講評を受けるという非常に珍妙なステージをやった。幻のジョンレノン・プロデュース/:1980年夏頃、ジョン・レノンプロデュースでのレコーディングの話が内々で持ち上がっていた。オノ・ヨーコを通して、ジョンも面白いと言ってくれているということで、翌年レコーディングするつもりで曲を書きはじめていたが、1980年12月8日、ジョンはニューヨークで銃弾に倒れ幻となった。当時、河口湖でバンド合宿中だったが、その日は練習を取りやめメンバー全員喪に服した。人生初のスキャンダル騒動/:2000年12月、この年から(〜2004年まで)プロデュースを手がけていた松田聖子の離婚発表に伴い、各マスコミが一斉に、新恋人、ダブル不倫、来夏結婚とまで報道され、報道陣が大挙自宅付近に押し寄せ大騒動になる。当事者の二人は否定、実際根拠となるものは何もなかったが、その後も週刊誌などが定期的にこの話題を取り上げた。後に「ただ純粋にプロデュースを依頼され、お引き受けし取り組んでいただけで、あくまで音楽を通じてのパートナーです」とした。一部メディアに対しては「せめてちゃんと取材して本当のことを伝えてほしい。発行部数を上げる為なら何を書いても、報道してもいいものなのだろうか」と語った。下記は『オデッセイ★原田真二編』記載の年表を主に構成。 (以下CDのみ) (以下CDのみ) (以下CDのみ)原田真二&クライシス()2000年以降上記以外のライヴサポートミュージシャン ※尚小室哲哉は、クライシス結成前後に行われた日比谷野外音楽堂でのライヴ後、正式にメンバー加入を目指しオーディションを受けたが採用には至らなかった。2000年〜2010年‐‐「鎮守の杜コンサート」全国神社Recent YearsRecent YearsラジオCM出演CMソングゲームテレビ映画

出典:wikipedia

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