アブロ バルカン()は、イギリスの航空機メーカーのアブロ社が開発し、イギリス空軍が使用した戦略爆撃機。いわゆる3Vボマーの一つで、冷戦期に核武装して配備された他、フォークランド紛争では通常の爆撃任務にも就いた。1947年、軍需省調達仕様B.35/46が提示された。これは初期の原子爆弾に等しい4,500 kg(10,000ポンド)のペイロードを積み、最高速度925 km/h(575 mph)、上昇限度15,000 m(50,000フィート)、航続距離5,556 km(3,452マイル)のスペックで、ソビエト連邦への侵攻を想定したものだった。同調達仕様には、アブロ以外にもハンドレページ、ショートの両社が呼応し、更に1948年にはバックアップ目的で別の調達仕様B.9/48が提示され、これにはヴィッカースが応じた。レシプロ4発重爆アブロ ランカスター等で実績のあるアブロ(バルカン)と、ハンドレページ(ヴィクター)、ヴィッカース(ヴァリアント)の3機種が選定され、軍需省から同時に発注された。ロイ・チャドウィック指揮の下で基礎設計が始まったバルカンは、未経験のデルタ翼の飛行特性を確認する目的で、スケールダウンモデルが1948年に先行試作された。大推力エンジンの実用化が遅延した事も相まって開発には慎重が期された。1952年8月30日にロールス・ロイス エイヴォンを搭載した原型機の698型が初飛行し、直ちにバルカンと命名されて翌年のファーンボロー国際航空ショーに出展した。当所計画では当時最強力級のブリストル オリンパスを予定していたが、完成が遅れていたため試作機にはアームストロング・シドレー サファイアも搭載された。試験中、高速高高度飛行に際して主翼のバフェッティングが発生したが、外翼の前縁を延長することで解決した。イギリス実用機初のデルタ翼を採用し、軽量、低抵抗と翼内スペースを利して長大な航続距離を狙った。計画の初期段階では垂直尾翼すら廃した完全な無尾翼機だったが、間もなく垂直尾翼が追加され、爆弾倉は胴体内に設けられた。高々度飛行のため低翼面荷重が採用された結果、1955年のファーンボローでは離陸直後にバレルロールしてみせるなど、低空でも異例な軽快性を誇った。副次的な特徴として、特定の角度では機影がレーダーに映りにくい事も発見された。また主翼面積が大きいため、地表効果の生じる超低空では気圧式高度計が誤作動することが事故の結果明らかになり、レーダー式高度計が新規に開発された。コックピットからの後部視界が皆無なため、方向舵やエレボンの状態を示す専用表示器やテレビモニタが設けられ、またシステム士官 (AEO) はペリスコープを介して爆弾倉扉と下方を視認できた。バルカンはテストベッドとしても利用された。1961年にホーカー・シドレー トライデントやBAC 1-11向けに開発された世界初の実用ターボファン・エンジンであるロールス・ロイス スペイ、また1966年にはコンコルド向けのオリンパス 593、更に1973年にはパナヴィア トーネード用のRB199を各々搭載し試験した。1956年9月にイギリス空軍は、最初のバルカン B.1 (XA897) を受領した。すぐさま発揚のため世界一周に出発し1956年10月1日に一周を完了したが、ロンドン・ヒースロー空港への着陸時にXA897は事故で破損した。B.2は1957年に初飛行し、1960年に空軍で運用を開始された。イギリス単独の核抑止力として、最初にブルー・ダニューブを搭載した。ブルー・ダニューブは核分裂によるエネルギーを使用する核爆弾であった。イギリスは水素爆弾の開発に乗り出し、これらが準備ができるまでの繋ぎとして、ブルー・ダニューブとグリーン・グラスなど400 ktの核出力をもつ強力だが重い核爆弾を装備した。最初の水素爆弾イエロー・サンは、アメリカ製Mk 28核弾頭のイギリス向けレッド・スノーを搭載した。バルカン以外にもハンドレページ ヴィクターにもイエロー・サンは搭載された。より小型のレッドベアードは、1962年からキプロスとシンガポールにおいてバルカンとヴィクターによって運用された。バルカン B.2Aには、スタンドオフミサイルであるブルースティール Mk.Iを搭載した。1962年のキューバ危機の際には、ソ連への攻撃に備えて緊急即応体制が取られている。初期のころは核爆発の閃光から自身を守るため全面を白色に塗装し、国籍マークも薄く描かれていた。その後ソ連が地対空ミサイルの配備を進めると、ソ連領空外から目標を射程に収めるアメリカ製空中発射弾道ミサイル、スカイボルトの配備も計画した。しかし、ブルースチール Mk.Iの退役、同Mk.IIの開発中止、およびスカイボルトの取得失敗によって、イギリスの核抑止は戦略原潜から発射されるポラリスSLBMが主となった。バルカンの主任務は、低空侵攻による自由落下核爆弾WE177による戦術核攻撃となり、迷彩塗装も施された。なお、1960年に行われたスカイシールド演習では、キューバを発進したソ連の爆撃機を模した仮想敵機役を務め、優れた低空侵攻能力とECMによりアメリカ合衆国の防空網を突破してニューヨーク上空への進入に成功している。1973年11月1日に洋上レーダー偵察機として使用するため改修されたB.2 (MRR)は、スキャプトン空軍基地の第27飛行隊に配備された。主な外観の違いは、光沢塗装と対空カメラ、燃料補給ブローブ、シンブル機尾レーダー (地形追従レーダー:TFR) などである。B.2 (MRR)のうち、5機は空気サンプリングが可能で、これらの機には翼端のハードポイントに機材が取り付けられた。他にも増槽や機首の大型化などの改修がなされた。どちらの任務でも高高度での運用であったため、TFRは撤去された。1970年代後期、他の飛行隊と交代された。1982年3月31日には、空中給油機に改修された少数機を残し、B.2 (MRR)は退役した。バルカンの主要装備は核爆弾であったが、454 kg (1,000 lb) 通常爆弾約20発を装備して二次的な役割である通常爆撃を行うこともできた。1982年にフォークランド紛争が勃発すると、通常爆弾を用いてポートスタンリーを攻撃することが決定した。滑走路、レーダーサイト、地対空ミサイル発射機の爆撃などが任務となったが、後に滑走路攻撃を除いてキャンセルされた。5機のバルカンが爆弾倉の改造、空中給油システムの復旧、電子機器の更新を受けた。改修は1982年4月9日から始まり、翼下のパイロンと翼端にハードポイントが設計、製造され、ECMポッドとシュライク対レーダーミサイルが装備された。バルカンは1982年4月30日にアセンション島から出撃し、途中ヴィクターからの空中給油を受けつつ、長駆6,300 kmを飛行し、爆撃に成功した。5月1日にも同じくアセンション島から出撃して爆撃を行い、無事帰還した。これがバルカンにとっての唯一の実戦任務となった。フォークランド紛争の終結後、バルカンは空軍から退役することになっていた。しかし、第57飛行隊の解散とロッキード トライスターの有用な運用が遅れ、ブラック・バック作戦において複雑な空中給油に成功したことから、バルカンは空中給油機として運用が続けられることになった。臨時の処置として、6機のバルカン B.2の胴体後部上にHDU (Hose drum unit) ボックスを付け加える改修がなされた。粗雑な改修であったが、ECMは取り除かれ、HDUボックスとその他の追加装備が機能を補完した。1982年6月23日、最初のバルカン (XH561) がウォディントン空軍基地へ送られた。1982年から1984年までバルカン K.2として第50飛行隊で運用された。さらに少数機が燃料積載量を増強するため、爆弾倉に燃料タンクを設けられ、総燃料積載量は45,000 kgとなった。1984年3月をもって第50飛行隊のB.2とK.2が退役し、全てのバルカンが退役した。その後長らくバルカンが空を飛ぶことはなかったが、展示用として良好に保存されていた XH558 号機が「Vulcan to the Sky」プロジェクトの下で改修のための寄付を募り、再び空を目指した。一時期は資金難から計画そのものが危ぶまれたが、個人としては最高額の 50万ポンドを提供したジャック・ヘイワード卿を含め、最終的に 136万ポンドの資金が集まった結果 XH558 は2007年10月18日に再飛行を果たし、毎年航空ショーで展示飛行を行っていたが、整備が困難となってきたため、2015年をもって飛行は終了し、その後は博物館で展示されることが発表された。
出典:wikipedia
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