藤原 佐理(ふじわら の すけまさ/さり)は、平安時代中期の公卿・能書家。太政大臣・藤原実頼の孫。左近衛少将・藤原敦敏の長男。応和元年(961年)従五位下に叙爵し、侍従に任ぜられる。右兵衛権佐・右近衛少将を経て、康保4年(967年)冷泉天皇が即位し、養父・藤原実頼が関白に就任すると従五位上に、翌安和元年(968年)正五位下と続けて昇叙される。安和2年(969年)円融天皇の即位後まもなく右中弁に転任すると、天禄元年(970年)従四位下、天禄2年(971年)左中弁、天延3年(975年)従四位上、貞元2年(977年)正四位下と、円融朝の前半は弁官を歴任しながら順調に昇進し、天元元年(978年)参議に任ぜられ公卿に列した。円融朝末の永観2年(984年)従三位に叙せられる。同年に花山天皇が即位したのち一条朝にかけて、天皇の外戚である藤原義懐(花山天皇外叔父)や、藤原道隆・道兼・道長兄弟(一条天皇外叔父)らに昇進で次々と先を越される中、正暦2年(991年)には参議を辞して大宰大弐として九州に赴任している。正暦3年(992年)正三位。長徳4年(998年)7月25日薨去。享年55。最終官位は前参議正三位兵部卿。草書の第一人者として評価が高く、流麗で躍動感のある彼の筆跡は「佐跡」と呼ばれ、小野道風・藤原行成とともに三跡の一人に数えられる。当時より能書家で知られ、円融・花山・一条の3天皇の大嘗会の屏風の色紙形の筆者を務めた。『参議要抄』には『佐理参議抄(佐理抄)』なる書が引用されており、小野宮家の一員らしく、故実についても一家言あったと思われる。一方で酒を好み、いいかげんな性格だったようで『大鏡』は「如泥人」(泥のような者)と描写し、当時の関白藤原道隆が東三条殿を造営した際、襖の色紙形に歌を書くように命じられた佐理が遅刻して道隆が立腹した話を伝える。現代に残る彼の作品は、しでかした不始末のわび状や言い訳の類が多い。例えば「離洛帖」(りらくじょう)は、西国下向に際して上司に挨拶を忘れたとりなしを縁者に頼む内容である。また金にも困っていたらしく「去夏帖」は、自邸が壊れかけているが、修理費がないことを訴えている。
出典:wikipedia
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