青函連絡船(せいかんれんらくせん)は、1908年(明治41年)から1988年(昭和63年)までの間、東北本線及び奥羽本線の終点である 青森駅と、津軽海峡を隔てた北海道、函館本線の起点、函館駅とを結んでいた鉄道連絡船。鉄道国有化直後の国鉄により開設され、国鉄分割民営化後、間もなく開業した青函トンネルにその役割を譲って終航した。航路の名称は青函航路、実距離は61海里、旅客営業キロ程113.0km、貨物営業キロ程300kmで、青函航路は陸岸から最も離れる津軽海峡中央部でも20海里以内のため、就航船の航行資格は沿海区域であった。国鉄・JR以外の組織が青森港 - 函館港間に運航する航路は「津軽海峡フェリー」「青函フェリー」を、帝国鉄道庁(国鉄)による連絡船就航以前の沿革については「青函航路」を参照。イギリスで建造された当時最新鋭の蒸気タービン船比羅夫丸型2隻を擁して、国鉄直営航路として1908年(明治41年)に開設されて以来、本州と北海道の鉄道を連絡する基幹ルートとして、客貨双方の輸送を担って来た。1925年(大正14年)には、日本初となる大型車載客船 翔鳳丸型4隻による 鉄道車両航送を開始し、貨物輸送効率の画期的な向上を達成した。しかし太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)と、1954年(昭和29年)の洞爺丸台風では、多くの尊い人命と連絡船を失い、そこからの復興に努めながら、その後の日本の高度経済成長を支える大動脈として、当時の最先端技術を駆使した連絡船を多数就航させた。1972年(昭和47年)には、1日最大30往復もの運航をする最盛期を迎えたが、この頃から開設され始めた長距離フェリー航路の影響、国鉄運賃に対する航空運賃の相対的低下、1973年(昭和48年)秋の第1次オイルショックに続く景気低迷、更には、度重なる労働争議による「国鉄離れ」もあって、1970年年代後半(昭和50年代)以降は、旅客、貨物とも急激に減少し、減船、減便を重ねながら、1988年(昭和63年)3月13日の青函トンネル開業まで、この基幹ルート維持の使命を全うした。運航区間は全期間を通して、青森と函館間であったが、1944年(昭和19年)から1984年(昭和59年)までは函館港内有川埠頭の貨物専用岸壁も使用された。また、青森側でも、1946年(昭和21年)から1948年(昭和23年)にかけての短期間、夏泊半島東側の小湊にLST改装貨車渡船用の桟橋を急造し、上記の有川埠頭との間にLST改装貨車渡船航路が開設されていたことがあった。また、夏期を中心とした連絡船による航路外の港への周遊運航は、1926年(大正15年)以来、 終航まで、1936年(昭和11年)から1947年(昭和22年)の輸送力不足と戦争、混乱の時代を除いて度々実施された。1908年(明治41年)3月7日の開設当初は、青森、函館とも連絡船が着岸できる岸壁はなく、沖繋りで、旅客、貨物は小蒸気船やハシケを用いて乗下船、荷役が行われた。運賃・料金はすべて廃止時のものである。普通運賃はこども半額で、それ以外の料金は大人子供同額。なお、国鉄(JR)の鉄道・バス路線と航路とを乗り継ぐ場合には、それぞれ別々に運賃・料金を計算したが、航路を間に挟んで国鉄(JR)の鉄道路線を利用する場合、前後の鉄道路線の営業キロは通算し、そこに青函航路の運賃を加算する方法がとられていた。通過連絡運輸に準じた取扱いである。例えば東京から東北本線・青函航路・函館本線経由で札幌に行く場合、運賃は東北本線と函館本線の営業キロ数を通算した運賃と、青函航路の運賃の合計となった。乗用車の航送は、車の長さが3mまでが9,700円、4mまでが12,900円、5mまでが16,200円、5mをこえ5.3mまでが21,100円で、航送料金には運転する人1名の運賃が含まれ、往復割引も設定されていた。航送申込の際には車検証を提示する必要があった。自動車以外は、自転車は700円、オートバイ・スクーターは125cc以下のものが1,100円、125ccをこえるものは2,200円だった。なお、いずれも乗船者の運賃別である。青函航路は、本州・北海道間の一般的な移動手段が鉄道だった時代には、メインルートの一部を担っていた。青森発着の「はつかり」「みちのく」「白鳥」などの特別急行列車や特急「はくつる」、「ゆうづる」、急行「八甲田」、「十和田」などの夜行列車、函館発着の特急「おおぞら」、「北斗」、「北海」、「おおとり」、急行「宗谷」、「ニセコ」、「すずらん」などの優等列車や夜行普通列車は、青函連絡船との接続を重視したダイヤを組んでいた。青森と函館では深夜・早朝に発着する例(下記の1・2便接続)も見られたが、札幌での時間を有効に使えることから、利用率はかなり高かった。なお、上野駅 - 青森駅を結ぶ寝台特急「ゆうづる」は、最盛期には7往復が設定され、岩手県内や青森県内での有効時間帯を重視したダイヤ以外に、電車寝台を使用した列車を中心として青函連絡船接続(3・4便)を意図したダイヤも組まれていた。列車番号に関しても、電車寝台を使用した1往復を除き2本ずつの続行運転を行っていたため、下り列車は先発列車が5000番台、続行列車が一桁もしくは二桁の列車番号が与えられていた(上り列車は逆となる)。各列車の列車番号と、接続する青函連絡船の便名は揃えられており、下りの1便接続を例にとると、本州側がはつかりの「1M」や白鳥の「4001M」など、北海道側がおおぞらの「1D」や北海の「11D」などとなっていた(同時間帯の上りはそれぞれが「2」となる)。青函航路と接続列車との間には最短でも20分程度の乗り換え時間が取られていたが、列車が青森駅や函館駅に到着した際、あるいは連絡船がそれぞれの桟橋に着岸した際には、目指す船や列車の席(自由席)を確保しようとする乗客でプラットホームや跨線橋がごった返す様子もみられ、荷物を抱えた乗客が競って駆け出すことから「桟橋マラソン」と呼ばれる光景を見せていた。ときには接続する連絡船が定員を超えて乗船できない「積み残し」が起こることもあった。なお、鉄道の座席指定券の発売は乗車1か月前(1980年(昭和55年)9月までは7日前)からが原則であるが、青函連絡の乗客の座席を最優先に確保するため、本州・北海道の指定券を乗継割引で購入する場合は、指定券は1980年(昭和55年)9月までは8日前から、同年10月以降は1か月1日前からそれぞれ発売された。1か月1日前発売(1980年(昭和55年)9月までは8日前)となる列車は指定されており、函館発は全ての列車が対象になっていたのに対し、青森発の列車は「はつかり」(1980年(昭和55年)9月までは全列車、同年10月以降は2号のみ)、「みちのく」、「白鳥」、「しらゆき」、「いなほ4号」(8日前発売は1980年(昭和55年)9月まで、同年10月以降は1か月前発売)のみが対象となった。国鉄・JRの規則では、航路の乗船券の名称も「乗車券」だった。多数の乗客を安定的に輸送するため、本航路では、青森駅・函館駅での接続列車の指定券を持つ乗客を最優先に乗船させる施策をとった。航路廃止時(1988年(昭和63年)3月13日)には、函館と札幌方面を結ぶ函館本線の特急「北斗」には、青函航路連絡の乗客の乗車を確実なものとするために全車指定席の便が1往復設定されていた。次に優先されたのは優等列車の乗客で、青森、函館着の特急列車・急行列車の車内では、優等列車からの乗継を区別するため、「特」の文字や赤い線が印刷された乗船名簿を配布する方法が用いられた。本州・北海道を結ぶ動脈の役割を担った青函連絡船は、貨物が1971年(昭和46年)に855万3033トン、旅客が1973年(昭和48年)に利用者498万5695人を数え、それぞれピークを迎えたが、航空機とフェリーの利用の増加、国鉄の鉄道利用客(旅客と荷主)の減少などの要因により、1974年(昭和49年)以後は利用が減少傾向に転じ、「国鉄離れ」の加速で歯止めが効かずに末期には閑散としていた。末期でも、青森ねぶた、函館港まつりの行われる旧盆、弘前・函館の観桜と時期が一致するゴールデンウィーク、年末年始などの最多客期には超満員となり、臨時便(臨時客扱)の運航や、乗船名簿に便名、または出航時刻をスタンプで押印した乗船名簿を配布する措置がとられることがあったが、通常期の利用状況は悪かった。利用客数は最末期で年間に約200万人だった。しかし廃止が決定されてからの1年間は260万人に利用客が増えた。その多くが青函連絡船に別れを惜しんでやってきた者たちであり、それまで一度も連絡船に乗ったことのない者までが、「お別れ乗船」のために全国から訪れた。普段であれば冬季間は閑散としていたが、1988年(昭和63年)1月から3月の土日には、臨時客扱(臨時便)を行うほどの活況を呈した。1988年(昭和63年)3月13日の青函トンネルの開通に伴い、同日をもって青函航路の通常運航が終了し、青森 - 函館間の連絡は青函トンネルにゆだねられた。その後、青函トンネル開通記念博覧会に合わせて同年6月3日から9月18日まで1日2往復の暫定運航(復活運航)がなされた。これが終了した翌9月19日付で青函連絡船は正式に廃止となり、津軽海峡から完全に姿を消した。なお、この期間は通常営業時は入ることができなかった操舵室や車両甲板が公開された。また、船尾扉を航海中に開いて見せることも行ったが、監督官庁の指導により中止された。廃止後20年以上が経過した現在でも、青森駅には連絡船の案内表示や桟橋の可動橋へ向かう線路など、青函連絡船の痕跡が数多く残っており、函館駅や有川桟橋周辺にも着岸の際に目標として用いていた標識などが今でもわずかに残っている。1986年(昭和61年)には、国鉄が荷物・郵便輸送から撤退したのに伴い、青函連絡船での郵便輸送が廃止され、貨物輸送も廃止前日の1988年(昭和63年)3月12日に終了した。1967(昭和42)年6月1日より乗用車の航送を開始。当初は2往復のみの取り扱いだった。自動車航送は1便あたりの搭載台数こそ少なく、積載台数は当初は6台、後に12台、末期には最大13台搭載だった。また車両寸法にも規定があり、全長5300mm、車幅2100mm、車高1850mm、車両重量2.5t未満の車両しか積載できず、そのため小型トラックやワンボックスカーでもトヨタ・ハイエースや日産・キャラバンなど車高1850mmを超える自動車は積載できなかった。しかし、積み下ろしの待ち時間が少ないこと、発着場所がそれぞれの都市の中心駅であることなどから、ターミナルが郊外に位置する東日本フェリーとの棲み分けが成立しており、固定需要があった。津軽丸型で行われていた自動車航送は、露天の遊歩甲板後部に乗用車を搭載していたため、荒天時には、波しぶきが航送車両にかかることもあった。1982(昭和57)年に石狩丸と檜山丸が貨客船に改造され、自動車航送も取り扱うようになると、石狩丸(3代)・檜山(2代)の両船では船体内部(船楼甲板後部)に自動車を収容して航送を行うようになった。搭載台数は20台で、末期には最大22台搭載可能だった。自動車の航送は青森1岸、函館2岸に着岸する甲便、丙便で行われていたため、通常、客扱いをしていない便でも行われていた。そのため日本交通公社などから発売されていた日本国有鉄道監修時刻表の、国鉄の営業案内ページの連絡船に関する部分には航送船の時刻表が掲載されており、欄外には「時刻表本文に載っていない便は、乗用車・自転車・オートバイ・スクーター航送の運転者・同乗者以外はご利用になれません」と書かれていた。航送予約に関しても自動車の航送予約は乗船日の14日前からの受付で、一部の駅の窓口や一部の旅行センター、日本交通公社と日本旅行の一部営業所しか取り扱わなかった。1982年当時、窓口で航送予約取り扱っていたのは青森・函館両駅の他に、釧路・帯広・旭川・札幌・東室蘭・長万部・八雲・森・浅虫・一戸・盛岡・弘前・大館・秋田の北海道・青森・岩手・秋田の4道県の16駅のみだった。駅の旅行センターでは新宿のみで取り扱っていた。乗用車は、青森1岸ではスロープによる乗降、函館2岸ではエレベーターによる乗降だった。船舶電話を介して、全国各地と通話が可能であった。船内からかける場合は、船内案内所に申し込んだ上で通話が可能だった。船内へかける場合は、北海道は函館船舶台、本州・四国・九州からは青森電話台へそれぞれ申し込んだ上で船内への通話が可能だった。船内の廃棄物は海峡の途中で投棄していたが、下北半島の国定公園等に漂着して美観を損ねたり、陸奥湾内の沿岸に漂着するなどして漁業被害も出るようになったため、1971年(昭和46年)12月1日より船内の廃棄物は函館に陸揚げし陸上で処理するようになった。日本初の蒸気タービン船を導入して運行を開始。日本初の車載客船、1925年(大正14年)8月から車両航送を開始した。1942年(昭和17年)以降は戦時下の鉄道貨物輸送の増加に対応するためW型戦時標準船が急ピッチで建造されたが、1945年(昭和20年)7月の空襲で青函連絡船は一時全滅し、終戦直後稼働できたのは第七・第八青函丸の2隻のみであった。戦災による輸送力不足を補うため休止状態の関釜航路・稚泊航路から連絡船を転属させると共に、貨車航送船にも客室(デッキハウス)が造設された。戦争中に着工していた戦時標準船3隻が就航。1946年にGHQが建造を許可した客貨船4隻・貨物船4隻が急ピッチで建造された。設計期間短縮のため戦時標準船の設計を踏襲している。1954年(昭和29年)の洞爺丸事故で喪失した3隻の代船が建造された。船尾扉を設けるなど事故を教訓に設計が改められている。以降の新造船は全てディーゼル船。青函航路廃止時の補助汽船
出典:wikipedia
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