旭國 斗雄(あさひくに ますお、1947年4月25日 - )は、立浪部屋所属の元大相撲力士。最高位は東大関。北海道上川郡愛別町出身で農家の三男として生まれる。本名は太田 武雄(おおた たけお)、現役時代の体格は身長174cm、体重121kg、血液型はB型。引退後は長く年寄・大島として大島部屋を経営し、日本相撲協会の理事として巡業部長も務めた。幼い頃からスポーツが得意で中学校時代は野球をしていた。3年生の時に人数不足から相撲部の助っ人として大会に出場し優勝。大島親方(元前頭19枚目・若浪)を紹介され昭和37年(1962年)、立浪部屋に入門した。床山の新弟子と間違われたほど小柄だったため新弟子検査では4場所続けて不合格になり、諦めかけたが、兄弟子や親方に励まされてもう1度受けることを決意、少しでも身長の計測で有利になるようにと兄弟子にたのんで頭を殴ってもらい瘤を作り、床山にたのんで髪を持ち上げてもらい検査を受けた。幸運にもその時(昭和38年=1963年7月場所)の検査を担当したのが師匠の立浪親方(元横綱・羽黒山)だったため御目零しで合格の判を押してもらえた。幕下時代に盲腸の手術を受けたが傷が癒える前に稽古を始めてしまい、しかも大酒を飲んだことがたたって膵臓を患い苦しまされた。この膵臓炎は結果として「現役時代に10数回入院し、最長で28日間絶食」という苦しい経験をもたらす程に大きな障害となった。膵炎の原因は根本として若浪の付き人を務めていた頃に酒を飲み過ぎたことにあり、若浪自身もそれを後年述懐していた。昭和44年(1969年)7月新入幕。しかし昭和45年(1970年)3月に急性胆嚢炎で途中休場し、翌場所は9勝6敗と勝ち越すも7月に4勝11敗と大負けして十両陥落。昭和46年(1971年)11月に再入幕したが翌場所に膵臓炎で休場してしまい陥落。昭和47年(1972年)5月に再々入幕しようやく幕内に定着する。小結だった昭和50年(1975年)3月は膵臓炎で入院し初日から休場したが点滴が終わると病院を抜け出して稽古をしていた。医者に「こんな体で相撲取ったら死ぬぞ」と警告されても「土俵で死ねれば力士の本望」と10日目から出場して4勝2敗。背骨の両脇に上下に並ぶ鍼の跡の絆創膏が大きく目立った。翌場所11勝して三役に復帰すると定着し昭和51年(1976年)1月関脇で12勝3敗、大関獲りとなる3月は13勝2敗で横綱・輪島との優勝決定戦に出場、敗れはしたが大関に昇進した。28歳11ヶ月での新大関昇進は、年6場所制が定着した昭和33年(1958年)1月場所以降初土俵の力士では当時最年長であった(現在は琴光喜が記録を保有)。大関になってからも膵臓炎の影響で満足な成績を出せる場所は多くはなかったが昭和52年(1977年)9月は誰もが驚く絶好調、連戦連勝で横綱・北の湖と優勝争いの先頭を併走、直接対決には敗れ優勝はできなかった(北の湖は全勝優勝)が、堂々の14勝1敗。しかし綱獲りとなる11月は8勝7敗に終わり横綱昇進は果たせなかった。平幕など下位の相手には技量・力量を見せつけ、比較的勝ち星を量産できたものの、横綱・大関との対戦になる場所後半に負け込むことがほとんどだった。横綱との対戦でとりわけ苦手にしていたのは輪島であり、対戦成績は4勝31敗(決定戦含む)と大きく差をつけられた。大関昇進を決めた昭和51年3月場所でも、本割・優勝決定戦の両方で輪島に敗戦している。また、北の湖との対戦も7勝27敗と大きく差をつけられた。この7勝のうち、6勝は大関昇進前の勝ち星であり、昇進以後は昭和52年5月場所に一度勝利したのみで、全く勝てなかった。前述通り大関在位中に千秋楽まで優勝を争った場所でも北の湖に負けたことで優勝を逃している。その他、大関貴ノ花にも分が悪く、通算で11勝26敗と大きく負け越している(不戦敗を含む。両者が大関同士では対戦成績は4勝13敗)。それでも持病の膵臓炎で度々入院治療を続けながら、翌昭和53年(1978年)3月場所7日目、魁傑との取組で二度水入りの大相撲となり、勝負がつかずに両者に休憩時間を与えるべく当日の結びの一番(北の湖敏満 - 青葉山弘年戦)を先に行い、10分後に改めて取り直し、これも大相撲となって3度目の水入りかという所で力尽き掬い投げで敗北を喫したものの合計10分19秒の大熱戦で、場所前に退院したばかりの旭國にとっては正に「土俵上で死ねたら本望」の言葉通りの相撲であった。昭和54年(1979年)9月場所7日目に、同期生である新横綱・三重ノ海との対戦で負傷して途中休場後、再起は難しいと考えて引退した。現役引退に際し、「一度は優勝したかった」と名残惜しそうに述べていた。現役引退後は年寄・2代大島を襲名、分家独立して大島部屋を開設した。その後は第63代横綱・旭富士を筆頭に、関脇・旭天鵬、小結・旭道山、旭豊、旭鷲山、幕内・旭豪山、旭里らを育てた。平成4年(1992年)、当時外国出身力士の入門を自粛する方向にあったにもかかわらず、解雇も辞さない覚悟をもって、モンゴルから6人の新弟子をスカウトした。その内3人(旭鷹・旭雪山・旭獅子)は日本文化に馴染めず3月の大阪場所が終わり東京に帰るとすぐにモンゴルへ帰国したわずか3ヶ月だった。しかし、残りの3人は日本に残り土俵に上がり続けた。モンゴル人として最初の十両・幕内・三役力士となった旭鷲山は平成18年(2006年)11月場所で引退、幕下・旭天山も平成19年(2007年)11月場所で引退し、そして旭天鵬は平成27年(2015年)9月場所までと、最も長く土俵を務めあげた。ちなみに6人の中で逃げ帰らなかったのは旭天山ただ一人だった。旭天山が逃げず日本に残ったおかげで旭天鵬たちが帰国し、後のモンゴル人力士の時代を築いたパイオニアの一人といって、過言ではないといっていた。(旭道山 直談)1998年から2010年まで6期12年の間、日本相撲協会理事を務めた。この相撲協会理事の選挙は10人の改選を5つある一門ごとに理事候補を調整して無投票で決定することが慣例であったところ、2010年2月の選挙では貴乃花親方が立候補したため4期(8年)ぶりに10人の理事を11人で争う形になったが、評議員の投票の結果、大島親方が8票で落選した。その後は役員待遇委員であったが、2011年4月に大相撲八百長問題で弟子(旭南海)が関与したことを受け、委員に降格した。旭天鵬の日本国籍取得に際して養父となり、2012年4月の定年(角界では「停年」と表現)退職後は大島部屋を旭天鵬に継承させる予定であったが、旭天鵬自身が「もう少し(現役を)続けたい」と現役続行の意思を固めたことから、3月場所後に大島親方が停年を迎えた後、大島部屋を一旦閉鎖し、所属力士は全て友綱部屋へ移籍する形を採ることとなった。そのため大島部屋は、自身が同年4月24日付で停年退職するのと同時に消滅した。定年直後の5月場所では、友綱部屋に移籍した旭天鵬が西前頭7枚目の地位で、37歳の高齢ながらも初の幕内優勝を果たす。なお旭天鵬の優勝パレードには、自身もオープンカーの助手席に同乗(優勝旗手は同じ立浪一門で宮城野部屋の第69代横綱・白鵬が務めた)。元愛弟子の平幕優勝達成に「引退すると迷ったこともあったが、もう一回やる気持ちになってくれてよかった」と手放しで喜んでいた。
出典:wikipedia
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