谷川 雁(たにがわ がん、本名:谷川 巌(たにがわ いわお)、1923年12月25日 - 1995年2月2日)は日本の詩人、評論家、サークル活動家、教育運動家。社会主義的なリアリズムを基調とにした詩人として知られ、評論集「原点が存在する」「工作者宣言」は1960年代の新左翼陣営に思想的な影響を与えた。熊本県水俣市に六人兄妹の次男として生まれる。兄は民俗学者の谷川健一、弟に東洋史学者の谷川道雄、日本エディタースクール創設者の吉田公彦。
旧制熊本中学、第五高等学校を経て、1945年、東京大学文学部社会学科卒。戦後、西日本新聞社に勤務。同人誌「九州詩人」「母音」に詩を発表し、安西均、那珂太郎などと交遊。
1947年、日本共産党に入党すると大西巨人、井上光晴らと活動し、新聞社を解雇される。
1954年、第一詩集「大地の商人」を刊行。
1956年、第二詩集「天山」、1960年「定本谷川雁詩集」を刊行、その“あとがき”で「私の中の『瞬間の王』は死んだ」として、以後詩作しないことを宣言する。
1958年、福岡県中間市に移住。上野英信、森崎和江、石牟礼道子らと雑誌「サークル村」を創刊し、炭鉱労働者の間で活動する。
評論集「原点が存在する」「工作者宣言」などを発表。アジア的土俗的な地域性に根ざした特異なナショナリズム論と、「大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆である」という工作者の思想によって注目を受ける。
1960年、安保闘争を機に共産党を離党し、吉本隆明らと「六月行動委員会」を組織して全学連主流派の行動を支援する一方、地元の大正炭鉱を巡る争議では「大正行動隊」を組織して活動した。「多数決を否定する」「連帯を求めて孤立を恐れず」といった、個人の自立性、主体性を重視し既成組織による統制を乗り越えようとした組織原理と行動原理は、その後の全共闘運動にも大きな影響を与えている。
1961年、吉本隆明、村上一郎と思想・文学・運動の雑誌「試行」を創刊したが、8号を最後に脱退(「試行」はその後、吉本の単独編集となる)。評論集「戦闘への招待」を発表。
1962年、吉本と「自立学校」を創設。
1963年、評論集「影の越境をめぐって」を刊行。大正鉱業退職者同盟を組織して退職金闘争を展開。
1965年、闘争の終息とともに執筆を含めた一切の活動を停止。語学教育を展開する「ラボ教育センター」の重役に招かれて上京し、創設に参加した。組合との対立では、かつての左翼運動家谷川雁の「変節」が話題を呼んだ。以後、「らくだ・こぶに」の筆名で、同センターの『ことばの宇宙』などに執筆する。また、ラボ活動の素材となる「ラボ・ライブラリー」(英語・日本語の朗読つきの絵本)に、オリジナル童話や、世界の童話や日本神話を翻案した作品を発表。また、間宮芳生、中西夏之、高松次郎、赤瀬川原平ら当時の前衛芸術家の作品とコラボレーションをした。ラボは長野県黒姫山麓に「ラボランド」を創立。
1978年、長野県黒姫山(上水内郡信濃町)へ移住。
1981年、定村忠士らと「ラボ教育センター」から離脱し、「十代の会」を主宰。1982年には「ものがたり文化の会」を発足させる。宮沢賢治の研究を中心に児童文化活動に取り組むなどの活動を再開した。
1989年、作曲家新実徳英と共作で合唱曲「白いうた 青いうた」の制作を開始。
1995年2月2日午後5時6分、肺癌のため神奈川県川崎市の病院で逝去、71歳。前年秋より入院していた。「白いうた~」は100曲を目指すとの話もあったが、雁の死により53曲で中止となった。作家のC・W・ニコルの親友で、ニコルを永住の地である黒姫に導いたのは谷川であった。
出典:wikipedia
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