戦車連隊(せんしゃれんたい)とは、地上部隊の部隊編制の一つで、戦車を中心として編成された連隊のことである。なお、ドイツ軍については慣用的に装甲連隊(そうこうれんたい)と和訳する(呼ぶ)人が多い。部隊名は「連隊」であるが、必ずしも複数の大隊で構成されているわけではなく、複数の中隊によって構成される実質大隊規模のケースもある。戦車のみで構成される部隊編成としては最大規模のものであり、戦車のほかには連隊本部と整備要員程度しか持たないのが一般的である。連隊より大きな編制である機甲師団などの場合、通常、歩兵部隊・兵站部隊などを含む諸兵科連合の編制となる。戦車連隊は、連隊単独で戦闘を行うことは少なく、歩兵や工兵、砲兵と一緒になった戦闘団(諸兵科連合部隊)を臨時に編成して戦闘を行う場合が多い。第二次世界大戦時のドイツ軍においては、装甲連隊は複数の装甲大隊によって構成されていた。大戦末期には、1個装甲連隊は2個装甲大隊で構成されている。連隊に所属する戦車の種類は、主力戦車の登場前であることもあって統一されておらず、重戦車中隊などが含まれていた。1941年時点におけるソ連軍の戦車連隊は4個中隊編成であったが、1942年頃には、緒戦の損害による戦車や乗員の不足のため3個中隊編成となった。各中隊の車種が統一されていないこともあって、必ずしも柔軟な作戦行動を行えるわけではなかった。大戦後半には連隊内の車種の統一が行われ、作戦への柔軟性が向上している。第二次世界大戦時のイギリス軍は、旅団の隷下に戦車連隊を置いており、各戦車連隊は3個中隊で構成されていた。アメリカ陸軍の機甲師団には、戦車連隊が存在していない。各師団が複数の戦車大隊を隷下においており、必要に応じて戦闘団の司令部に指揮させる方法を取っている。海兵隊の場合も、戦車大隊が最大の編制単位である。大日本帝国陸軍の戦車部隊は、1925年(大正14年)5月1日創設の「第1戦車隊」(久留米)と「歩兵学校戦車隊」(千葉)に始まり、1933年(昭和8年)8月に、それぞれ戦車第1連隊(第12師団に所属)と戦車第2連隊(第1師団に所属)に改編され、最初の戦車連隊となった。これらの2個戦車連隊の他、1933年(昭和8年)10月に戦車第3大隊が、1934年(昭和9年)4月に戦車第4大隊が編成され関東軍の独立混成第1旅団に所属し、1936年(昭和11年)4月に支那駐屯戦車隊が編成され支那駐屯軍に配備された。その後、1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発すると戦車第3・4大隊が連隊に改編された他、1938年(昭和13年)には戦車第8連隊までが編成された。第二次世界大戦前期の大日本帝国陸軍においては、標準編制の戦車連隊は4個中隊で構成され、そのうち第1中隊は軽戦車を、第2から第4中隊は中戦車を装備していた。例外的な編制としては、2個中隊しか有しない小規模の連隊や、機動歩兵中隊などを有する諸兵科連合型の連隊も存在した。後に砲戦車を装備した第5中隊が加えられたが、実際に砲戦車が配備された例はほとんど無く、部隊は編成されたものの装備は揃わない、といった状態がほとんどであった。1942年(昭和17年)にはより集団的な戦車の運用を目的として、戦車連隊を中核とした機甲軍-戦車師団-戦車旅団が編成された。しかし実際には、機甲軍は1年あまりで解体され機甲軍団として戦闘に投入されたことは無く、日本軍においては、歩兵部隊を基幹とした通常の師団を支援するという形で、師団、旅団、連隊単位での作戦参加が行われたに過ぎなかった。陸上自衛隊では機動打撃を担当する第7師団(機甲師団)に3個戦車連隊、道北防衛担当の第2師団に1個戦車連隊が存在する。各戦車連隊は5個戦車中隊で構成され、保有台数も通常の師団・旅団に所属の戦車大隊に比べ大幅に増えた編制となっている。なお、陸上自衛隊では普通科連隊以外の師団直轄部隊は師団番号を冠称するのが通例であり、戦車連隊の場合も、第2師団所属の戦車連隊は第2戦車連隊となっている。しかし、第7師団の場合、隷下の戦車連隊が複数あることから、70番台の番号が振られている(2015年現在。詳細は"陸上自衛隊の連隊等一覧"参照)。
出典:wikipedia
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