『アメリカ横断ウルトラクイズ』(アメリカおうだんウルトラクイズ)は、日本テレビで全17回開催・放送された視聴者参加型のクイズ番組。略称は「ウルトラクイズ」あるいは「ウルトラ」。英語表記は"TRANS AMERICA ULTRA QUIZ"である。なお、タイトルロゴには"TRANS AM ULTRA QUIZ"と表記された。1977年(昭和52年)、『木曜スペシャル』枠で日本テレビ開局25年記念番組として放送された。翌年からレギュラー化し、年に1回制作、毎年10月下旬から12月上旬頃に放送された。番組名は『史上最大!第○回 アメリカ横断ウルトラクイズ』(第1回は回数表記なし)。1992年(平成4年)の第16回を最後に終了となったが、1998年(平成10年)日本テレビ開局45年記念番組『ネッツトヨタスペシャル 今世紀最後!! 史上最大! アメリカ横断ウルトラクイズ』(以下「“今世紀最後”」と記す)として一度限りの復活を果たした。番組名の「アメリカ」とはアメリカ大陸という意味であり、アメリカ合衆国(米国)のみを指したものではない。日本各地から集まった挑戦者たちが「知力、体力、時の運」を合言葉に広大なアメリカ大陸を横断しながら1,000問以上に及ぶクイズに挑戦し、ニューヨークを目指すという番組。旅の途中「チェックポイント」と呼ばれる各地で風土や名所などに合ったクイズを行い、勝ち抜ければ次のチェックポイントに進み、敗れると現地で厳しい罰ゲームを受けた後、日本へ強制送還される。数々のチェックポイントを勝ち抜き、ニューヨークには各回2名(第11回は3名)が進出し、ここで最後のクイズを行い、優勝者「日本一のクイズ王」を決定した。他のクイズ番組とは異なり、18歳以上(第11回までは45歳以下・第12回から第16回までは50歳以下・“今世紀最後”は上限なし)でパスポートを所持していれば、オーディションなしで誰でも番組に参加可能であった(高校生は不可。高専生は4年生から可。他にも細かい規定があった)。1987年(昭和62年)に第24回ギャラクシー賞特別賞と第4回ATP賞優秀賞を、翌年には第25回ギャラクシー賞25周年記念特別賞ユーモア賞を受賞。ギネス・ワールド・レコーズ(ギネスブック)には「世界で最も制作費のかかったクイズ番組」として記載された。2014年6月にCSのファミリー劇場で初めて第12回が再放送され(ただしCMと提供クレジットの部分は全部カットされ、第4週の第9チェックポイント・サンパウロのクイズ本編にも、一部カットされた箇所がある)、また進行役だった小倉淳が関係者をゲストに迎え、放送当時を振り返るオリジナル番組「今だから話せるウルトラクイズ丸秘証言集」(全3回)も制作された(この「史上最大!第12回アメリカ横断ウルトラクイズ&今だから話せるウルトラクイズ丸秘証言集」は、スカパーJSAT主催の「スカパー!アワード2014」にて「ココロ動いた番組賞」を受賞した)。このほか、第10回と“今世紀最後”については横浜市にある放送ライブラリーで視聴することができる。なお、日本テレビでは、オンエアテープ以外の映像資料については、同社が旧社屋から汐留社屋に移転した際、新社屋に保管場所がないとの理由で全て破棄したため現存していないという。2015年1月~2月には第13回、2015年7月には第11回、2016年7月には第7回の再放送も行われた。番組タイトルが出る場面のファンファーレはMFSB「Zach's Fanfare #2(ザックのファンファーレ #2)」の終盤の部分、番組のテーマ曲はメイナード・ファーガソン「Theme From Star Trek (スタートレックのテーマ)」に「The Cheshire Cat Walk(チシャ猫のウォーク)」の終わりの部分を組み合わせたもの。番組初期(1977年(昭和52年)-1985年(昭和60年))は、日本国外へ脱出できた挑戦者の大半が海外旅行初体験であったが、番組開始年の1977年には年間315万人強だった日本人の海外旅行者数が、番組末期の1990年代には番組開始時の3倍を超える年間1000万人超となり、時代の変化とともに海外旅行が庶民にも比較的容易に手に入る娯楽となったことで、相対的に挑戦者たちの驚きの価値は下がっていった。とはいえ番組中期以降(1986年(昭和61年)-1992年(平成4年))は、通常の海外旅行では行くことが困難な場所をルートとして選択するようになり、スケールを維持した。「突撃○×どろんこクイズ」や「バラマキクイズ」などの定番クイズと共に、第5回以降アメリカ合衆国以外の国にも上陸し、第9回ではアメリカ大陸を経てパリで決勝、第10回ではアメリカ南北ルートの選択、第12回では北南米大縦断、第13回ではオーストラリアとニュージーランド、第14回ではタヒチもルートに加えアメリカ大陸上陸後、かつてアメリカ西部開拓団が通ったオレゴン街道を全ルートバス移動で遡るなど、演出面でさまざまな工夫を凝らした。初回から番組名には「史上最大!」とうたっており、第1回は応募総数4,188名に対し実際の参加者は404名という、当時のクイズ番組の予選としてはかなり大規模であった。当初の第一次予選会場の後楽園球場でも1塁側スタンドの一角で行っていたが、回を重ねるごとに参加者は増え続け、1983年(昭和58年)の第7回では初めて1万名を、1988年(昭和63年)の第12回では2万名を突破した。しかし莫大な制作費に加え、第10回をピークに視聴率が徐々に下落していったことなどの問題により、1992年(平成4年)の第16回の放送を最後にレギュラー開催の終了が決定した。その後1998年(平成10年)に、日本テレビ開局45年記念番組として単発で復活。“今世紀最後”と題されたこの回は「第17回」とは称されず、ウルトラクイズのスペシャル版という意味合いが強かった。この大会では年齢制限を撤廃し、過去最多の50,453名が参加。応募総数は7万名を超え、実に2万名を超える人々が第一次予選会場の東京ドームに入ることができなかった。本番組の影響を受けた番組も多数生まれた(番組がもたらした影響を参照)。しかし、大人数を日本国外に集めてクイズを行う形式を踏襲した例はごく少ない。他局は真似しようにも、どうしても出国手続だけで1日費やしてしまい、できなかったのである。そのノウハウとは「成田(第1回のみ羽田)空港行きが決まった人全員分の決勝地までのチケット取得と出国手続きをジャンケン前に完全に済ませておき、ジャンケンに負けた人の分をその場でキャンセルする」という手法であったという(近畿日本ツーリストのウルトラクイズ担当談)。これは成田だけではなく、チケットは全員分決勝地まで用意しており、敗者が出るたびにキャンセルしていた。日本テレビ側のきちんとした主旨の説明、旅行代理店側の腕、航空会社や空港スタッフ側による番組の主旨への寛大な理解と協力が必要であった。番組の画的にも、時の運に翻弄される一喜一憂の表情が濃く現れることになった。タイトルは「クイズ」であっても、単にクイズの優勝者「クイズ王」を決めるためだけの番組ではなく、普通の人々が突然アメリカなどの広大な自然や冒険・難局に直面したときの表情、挑戦者同士の触れ合いなど、人間ドラマを色濃く描かれた演出が特徴的であった。番組の主眼は挑戦者の人間模様、クイズに敗れた敗者にあり、「クイズ形式の人間ドキュメンタリー」というコンセプトがあった。番組で共に旅したのを機に、挑戦者同士がその後も何らかの形で交流を続けるようになったケースも多く、挑戦者同士が結婚したケースもある。各クイズ後、勝者と敗者はすぐ引き離されるため、クイズを行う時は挑戦者は必ず自分の荷物を傍らに運び込んでおく必要があった。これは、あくまで旅の途上との演出も兼ね備えていた。勝者が敗者の行う敗者復活や罰ゲームなどと鉢合わせしないよう、観光という形で隔離することもあった。各チェックポイントにおいて失格またはドクターストップ以外の挑戦者本人の意思による自主的なリタイアは認められていない(ウルトラクイズ参加規定に明記されている。第7回では急病によるドクターストップで、挑戦者1名がリタイアとなった)。基本的に挑戦者はいつクイズを行うかは直前まで知らされず、たとえクイズの合間の観光に見えても、自分の荷物を持たされている限りいつクイズが始まるかわからない状態であった。風光明媚な土地などでは、挑戦者を驚かせるため、クイズ会場までアイマスクをしたまま移動させることもあった。このようなシビアな条件が極限状況を生み出し、挑戦者同士の連帯感を生む要素ともなった。機材の撤収や敗者への罰ゲームの収録を行う関係もあり、クイズの収録は午前中に行われることが多かったという。また、1日で複数のチェックポイントでのクイズの収録を行うこともあった。福留功男は番組当初から、挑戦者の人間模様にも焦点を当てるために、恋人や婚約者の名前、家族構成や勤務先などといったプライベートなことを聞き出し、番組の中で効果的に披露していた。優勝賞品はインパクト重視で、優勝賞品発表時の言葉から発せられるイメージと実物を見た瞬間のギャップが一つの見せ場となっていた。価値は100万円相当のものから無料同然のものまで年によってまちまちであり、実体も風変わりなものばかりであった。これは番組放送期間を含む1971年から1996年まで、オープン懸賞の上限が100万円に制限されていたことに加え、番組では東京からニューヨークまでの旅費も景品相当と解釈されていたためである。しかしながら比較的まともな賞品が進呈されたこともあり、「世界一周旅行」など日常では経験できないような賞品が用意されたり、優勝したニューヨークに家族を呼び寄せ高級ホテルに宿泊する権利が賞品となったこともある。なお、本クイズの優勝者に与えられるのは賞品のみで賞金は一切出なかった。回やチェックポイントによっては、勝者と敗者復活者などで食事などのランクに格差がつけられた場合もあった。1977年(昭和52年)の第1回大会から1992年(平成4年)の第16回大会までと、1998年(平成10年)に行われた“今世紀最後”大会をあわせて全17回が開催された。このほか、特別版として1982年(昭和57年)に『ウルトラクイズ 史上最大の敗者復活戦』が日本国内で開催された。各回毎に、グァムからニューヨークまでのルートは異なっているのが特徴である。予選以外では、主な舞台であるアメリカ合衆国のほか、第4回ではプエルトリコ自治連邦区、第5回以降はメキシコ、カナダ、バハマ、イギリス、フランス(本国および仏領ポリネシア)、ボリビア、ブラジル、アルゼンチン、チリ、オーストラリア、ニュージーランド、ドミニカ共和国の13か国と、第10回の第1チェックポイントのみ日本(成田空港での搭乗時に出題されたクイズ)でクイズが実施された。クイズ開催国の中で第10回のボリビアと第15回のドミニカ共和国には福留は訪れていない。これは第10回の南北コース分岐で福留は北米コース担当でボリビアとブラジルを訪問した南米コースは日高が担当、第15回のドミニカは福留引退後の大会で上陸したためである。日本国外で最も多くクイズが開催された場所は「クイズの都」ことニューヨークであり、全大会においてクイズが行われた。ニューヨークで決勝戦が実施されなかった第9回と“今世紀最後”でも、共にアメリカ大陸最後のチェックポイントとしてニューヨークは重要な位置に置かれた。その次に多く開催された場所はアメリカ最初のチェックポイントであるグァムとハワイ(ともに13大会)。アメリカ本土では、上陸後最初のチェックポイントとなることが多かったロサンゼルス(9大会)およびサンフランシスコ(7大会)となっている。アメリカ合衆国の州別で見てみると、ニューヨーク州の次に多く訪れたのは、上記の通り本土上陸後最初のチェックポイントになることの多かった西海岸のカリフォルニア州である(全17回中、第14回を除く16大会)。テレビ放送は、第1回から第16回まで、当時木曜日に放送されていた『木曜スペシャル』で毎年10月下旬から12月上旬の間に、複数の週をまたいで放送されていた。第1回は2週(当初は1週のみの放送予定が2週に拡大)、第2回から第4回までは3週、第5回から第11回まで、ならびに第15回と第16回は4週、第12回から第14回までは5週に分けて放送された(第9回から第11回までは『木曜スペシャル』の放送時間が19時からの2時間枠、そのほかの回は19時30分からの1時間30分枠だった)。関東地区では、本放送直後に『ビッグサタデー』で再放送された。地方では年末に再放送が行われることもあった。また大会開催の直前にも、『ビッグサタデー』で前回大会のダイジェスト版を放映した。一方、“今世紀最後”は1998年11月22日(日)・23日(月・祝)にそれぞれ2時間半、2夜連続で放送。「史上最大の敗者復活戦」は1982年(昭和57年)12月31日(金・大晦日)に、3時間半で放送された。視聴率は、第7回(4週目)で歴代最高の38.5%を記録(4週トータルの平均でも34.5%だった)。このほか、第10回開催前には、『ウルトラクイズ 史上最大の傑作選』が1986年(昭和61年)6月19日に放送された。これはもともと、木曜日の後楽園球場ナイター中継が中止になった時のための代替番組だった。出演者は、高島忠夫・石川牧子・福留功男・徳光和夫・小林完吾・日高直人の6名(小林と日高は後から参加)。内容は、「第1回」、「どろんこクイズ傑作選」、「成田のジャンケンの人間模様」(第4回クイズ王の上田由美が、ジャンケン相手からハチマキを貰ってどんどん勝ち進み、優勝するまでの模様も放送された)、「ウルトラクイズ珍解答集」、「激戦!第5回ノックスビル・通せんぼクイズ」、「罰ゲーム傑作選」など。また、“今世紀最後”放送日の本放送直前でも、特別番組として総集編が放送されていた。大会初期の頃は日本テレビのフルネット局が現在より少なかったため、クロスネット局や他系列の局で数週遅れで放送していた地域もあった。また都合により、放送が第16回以前で打ち切られる局もあった。2014年6月に、『ビッグサタデー』における数週間遅れのリピートならびに前年分のダイジェストを除けば初めてとなる再放送が、CSのファミリー劇場で第12回大会の模様が3週に渡って放送された。また、全3回で小倉淳が聞き手となり、番組スタッフや第12回大会の優勝者を含む出場者4人が出演し、ウルトラクイズの裏話などを明かす「今だから話せるウルトラクイズ丸秘証言集」が併せて放送された。放送時間は各回10分であるが、ファミリー劇場の番組ホームページでは各回20分以上のスペシャルロングバージョンがアップされている。ただし、第12回ではゲスト出演者側に関する事情のため一部がカットされている。2015年1月~2月には、同じくファミリー劇場で第13回大会の模様が5週に渡って再放送された。また各週の再放送後には、全5回で小倉淳が聞き手となり国内レポーターの徳光和夫と渡辺正行や番組スタッフ、第13回大会の出場者の4人が出演し、ウルトラクイズの裏話を明かす「今だから話せるウルトラクイズ丸秘証言集 PARTII」が併せて放送された。こちらの放送時間は各回30分となっている。2015年7月には、同じくファミリー劇場で第11回大会の模様が4週に渡って再放送された。この第11回の再放送では「丸秘証言集」の放送は無い。2016年5月にも再放送されている。さらに2016年7月には同じくファミリー劇場で第7回大会の模様が4週に渡って再放送された。この番組の厳密な意味での「司会者」は、スタジオで進行やルート紹介を行う「総合司会」であり、あくまで出題担当の福留/福澤は「出題・海外リポーター」(第1回-第10回)または「出題・リポーター」(第11回-第16回)であった。第1回から第16回までオープニングのクレジットでは一貫してこれらの表記がなされてきた(初期の紹介クレジット順は高島→石川→徳光→福留であった)。しかし、回を重ねるにつれて挑戦者とともにニューヨークを目指し、「アメリカ横断ウルトラクイズ」という旅の実質的な進行を行う「出題・(海外)リポーター」が番組の主軸をなす意味合いが強まっていった。そのため本番組の司会といえば福留/福澤と一般的に認識されており、福留/福澤ともに本番組司会者と自負している。スタジオでの番組全体の進行を担当した。詳しくはスタジオパートを参照。国内予選会場(後楽園球場、東京ドーム、成田(羽田)空港)で、敗者へのインタビューを行いつつ、ヘルメットをかぶり、敗者たちに玩具のピコピコハンマーで叩かれる役を毎回こなした。第一次予選の主に中盤以降で、敗者復活戦の実施を福留に要求(うち第10回では第1問終了直後で要求)したり、第二次予選では開始前に福留/福澤の前に現れて、ジャンケンの撤廃や全員通過を訴える役割、空港での敗者復活戦の進行役、敗者の代表として飛び立つ勝者たちが乗った飛行機に向かってのシュプレヒコール役も務めた。シュプレヒコールは、「お前たちは日本の恥部だ!」「俺達の青春を返せ!」「日本テレビはもう見ないぞ!」「NHKでやれ!」などの他、「今日から三週間は、天中殺だぞ!」(第3回。天中殺ブーム)、「対日感情はよくないぞ!」(第4回。日米貿易摩擦) 、「お前たちが泊まるホテルにはスプリンクラーがついてない!」「おまえらの泊まるホテルの社長は蝶ネクタイだぞ!」(第6回。ホテルニュージャパン火災)、「舳先は今サハリンに向かったぞ!」(第7回。大韓航空機撃墜事件)、「涅槃で待ってろ!」(第7回。沖雅也の遺書)、「機内食は辛子蓮根だ!」(第8回。辛子蓮根食中毒事件)、「ジャンケンで勝ったお前達は、疑惑の勝利者だ!」「お前達の帰り道は、フルハムロードだぞ!」(第9回。疑惑の銃弾・ロス疑惑)、「アメリカはエイズの国だ!」(第9回。エイズウイルス発見)と言った時事絡みのブラックジョークが多かった。国内予選で登場したが、その役目は主に徳光や渡辺とともに敗者にピコポンハンマーで叩かれる役回りである。海外リポーターとの兼任はここでは除外する。出題者の福留が万一病気などで現地での司会進行ができなくなった場合、代理として出題役を務められるように設けられた。第13回・第14回では敗者予想も行った。日本テレビのコンピュータルームにおいて、次のチェックポイントで失格となる挑戦者や、決勝戦で優勝する挑戦者の予想をコンピュータを用いて行った。後期の大会ではCGを使ったミニゲームも取りいれられた。スタジオパートを参照。通常、ナレーションはクイズ進行役の福留/福澤が行ったが、本編以外の次回予告や舞台裏などでは他の者が担当する場合もあった。この節では、1回ごとの「アメリカ横断ウルトラクイズ」の大会の大まかな流れを解説する。なお、ここでは最もオーソドックスなパターンのみを記し、例外は極力省く。クイズの詳細についてはアメリカ横断ウルトラクイズのクイズ形式を参照。以上が1回ごとの大会の大まかな流れである。日本テレビを出発してから優勝者が帰国するまでの行程は3週間から1か月ほどであった。ほぼ全編が海外ロケの本番組では、以下に挙げるような機材が使われた。解答席「早押しテーブル」は、金属製・もしくは木製の折りたたみ式のものが使用された。テーブル上には解答者が問題に答えるときのマイクと早押しボタン(後述)が設置された。マイクについているウインドスクリーンは後述の早押しハットと同色のものが使われた。早押しクイズだけでなく、三択クイズやリレークイズなど大多数の個人戦クイズで使用された。早押しテーブルは挑戦者の人数分横一列に並べられたが、残り人数10名以上の段階では2段に分けて配置されることもあった。挑戦者は第1回を除き原則として、カメラから向かって左側の席から(2段の場合は下段が先。ただし初期は上段が先の回もあった)挑戦者番号の若い順に着席した。リレークイズなどではあらかじめ抽選などで席順を決めた場合もあった。準決勝での通せんぼクイズ(通過クイズ)の通過席は、"今世紀最後"を除いて起立式のテーブルが使用された("今世紀最後"では挑戦者が目隠しをしていたためその場に起立していた)。デザインは基本的に濃紺に近い青色を基調としていた。デザインの移り変わりは次のとおり。挑戦者は早押しクイズを行うとき、早押しハットと呼ばれる帽子を頭に被って行った。別名として「ウルトラハット」、または単純に「帽子」と呼ばれることもあった。シルクハットを模した早押し判定機で、本体はアルミまたはスチール製、白い大きな星模様で、ハットの内側にはウレタンもしくはスポンジが張られ、ハットを頭に固定する白い紐とビニールチューブがあったが、第14回以降はベルトとマジックテープで固定する方式となった。重量は頭に被るものとしてはかなりあるようで、第15回クイズ王・能勢一幸は、初めてハットを被った時に「思っていたよりも重い」と発言している。基本は・・・・・の6色であるが、初期の頃は・・・等の色もあった。また、国内一次予選でのデモンストレーションや、第11回の準決勝で松尾清三が使うゲスト用、"今世紀最後"のハワイではそれぞれ星条旗柄の早押しハットが登場し、「史上最大の敗者復活戦」や翌年の第7回ではの早押しハットが登場した。挑戦者が多数いる序盤で使われる時は、早押しハット正面の星の部分に番号や名前が書かれている場合があった。基本的に有線式であるが、第13回のゴールドコーストでの敗者復活戦と第14回のタヒチでは、早押し機を背負うワイヤレスタイプがあった。第1回の早押しハットの色は解答者によって固定されており、勝ち残った解答者は決められた色の早押しハットを被っていた。決勝で使う早押しハットが赤と青に固定されたのは第3回から(基本的には向かって左の挑戦者が被るのが赤、右の挑戦者が青。逆の回もあった)で、第1回は桃(優勝者の松尾清三)と緑、第2回は赤と緑(優勝者の北川宣浩)の早押しハットが使われ、第11回で3名が決勝に進出した時は際は赤・青に加えて黄色が決勝で使われた。解答権を得るとハット上部の「?」マークが立ち上がる。開発当初は垂直に「?」マークが出てくる形を想定していたが、技術的に不可能だったため、「立ち上がる」スタイルになった。第11回の準決勝で対戦者の松尾清三の早押しハットの札がアメリカの交通標識の「STOP」札となっていた。第1回のみ電磁石で「?」マークがくっついており、解答権を得ると「?」マークが磁石から外れてバネの力で立ち上がり、回答後に解答者が自分で「?」マークを倒して電磁石に付けていたが、第2回以降は「?」マークが自動で立ち上がったり倒れたりするソレノイド方式になった。当初は「?」マークがゆっくりと立ち上がり、「?」マーク自体もビニール紙でできていたが、第5回以降は「?」マークも金属製になり、立ち上がりもシャープになった。当時のクイズ番組で一般的だったランプやパトライト(回転灯)形式にしなかったのは、ウルトラクイズの場合、クイズの大半が昼間の屋外で行われる為、太陽光でランプやパトライトの光が見えにくくなり、回答者の判別が困難になる可能性を考慮した為である。「?」マークが立ち上がる駆動部のみをテーブルに直接付けたり、パトライトを使用する事もあったが、基本的には頭に被らない場合でもハットのままの状態で使用していた。ハットは毎回新しい物が作られていて、1個あたりの製作費用は開催当時の値段で約95,000円前後と後に紹介された。第14回大会の第7チェックポイントのソルトレークで、黄のハットの「?」マークが立たなくなる不具合が起きてしまう。しかも列車を使ったタイムレースクイズで、その列車の発車のタイミングを逃すとクイズが行えなくなる大ピンチに、焦った担当スタッフが「黄色が立たない!!」と絶叫した事から、以降スタッフの間では「黄色が立たない!!」は呪いの言葉として語り継がれている。早押しクイズで使用されるボタンは、ハットと同色(第4回までは白のみ)のボックスに小さなクリックボタンが付いたものであった。このボタンは早押しテーブル上の挑戦者の右手の位置に固定されていたため、左利きの挑戦者に対しては考慮されておらず、不自然な体勢で左手でボタンを押す挑戦者もいた(第15回の準優勝者等。左手の肘をテーブルに乗せてボタンを押す挑戦者が多かった)。第7回から手のひら全体で押すタイプの新型ボタンが登場した(第7回では全編でこのボタンが使われ、ボタンは右側でなく、テーブルの中央に配置されていた。更にボタンを押すまでは両端のバーを両手で握っていなくてはならなかった)。この新型ボタンは第7回以降も、ダイビングクイズやマラソンクイズなどの、ボタンを押す体勢が定まりにくいクイズや、遠方から走ってきてボタンを押すような、体力系の早押しクイズ等で使われた。ウルトラクイズ終了後にこの新型ボタンは、押す部分全体がゴムで覆われている防水性タイプに発展し、現在の『高校生クイズ』などでも使用されている。クイズを行う場所や形式の関係上、早押しテーブルを設置することが困難な場合は、早押しボタンのボックスを挑戦者の手に持たせる、多人数が参加する国内予選の敗者復活戦や、第15回ハワイの対決早押しクイズで、早押しボタンを頭の上部にくくり付ける、第12回のアラスカ鉄道の列車内での早押しクイズで、早押しの大型ボタンをベルトで太ももにくくり付けるなど、体の一部に早押しボタンをくくりつける方式があり、主に団体戦などの特殊なクイズ形式では、ボタンの代わりに足で踏むことによって解答権が得られるマット式のものが使われることもあった。本番組では、○×クイズ、早押しクイズ、三択クイズなど様々な形式のクイズが行われた。グァムにおいて恒例化した「○×どろんこクイズ」、空から問題がばら撒かれる「バラマキクイズ」、大声を発して解答権を得る「大声クイズ」など本番組独特のクイズも毎回行われた。このほか、訪れた土地にちなんだクイズ形式やロケ地にちなんだご当地問題など、多種多様なクイズが出題された。クイズ形式によっては体力や運も試され、知力だけでは勝ち進むことができず、まさに「知力・体力・時の運」であった。問題の正誤判定基準は時に甘めであったり厳格であったりすることがあり、この基準が勝敗を分ける決定打になったこともある。主にグァム以降のチェックポイント(決勝戦は除く)で敗れた敗者に対し、様々な罰ゲームが行われた。一般的には演出上の理由だが、挑戦者の個人的な都合で早く日本に帰りたいがために安易に負け抜ける者が出ないようにという理由もあった。罰ゲームの放映時間は一般的に、1つのチェックポイントにつき1分から10分ほどだが、収録にはおよそ2時間以上の時間が費やされていた。基本的に福留/福澤(第10回南米ルートでは日高)も罰ゲームに立ち会ったが、行程上の理由でスタッフと敗者だけで罰ゲームを行ったこともある(第9回のドーバー)。そして最後にテロップが「○月○日(第6・7回は表記されず。) 第○チェックポイント(第1回・第2回1週目では第○次と表記) 失格者(今世紀最後のみ敗者) ○○ 帰国」( 「○○」の部分は失格者が単独または2名の場合は失格者の氏名。ただし第4回までは1人でも「失格者○名」と氏名を両方表記していた。多数の場合は失格者の人数) と出る。砂漠や迷路、荒野、海洋を使った罰ゲームで、終わる(帰国する)のが何時か分からない場合には、「帰国?」とハテナマーク付きで出される場合もある。大半の罰ゲームでは失格者は行方不明もしくは消息不明、生死不明という演出をしているが無論、番組は責任を持ってちゃんと日本へ帰国させている。まれに「帰国予定」「やっと帰国」や帰国中の敗者が画面に映った時には「帰国中」の表記も使われた。なお、今世紀最後では高齢者の参加があったことに配慮し、スカイダイビングの罰ゲームでは強制ではなく、直前に行うか否か確認をしていた。罰ゲームには以下のようなものがあった。決勝戦では敗者(準優勝者)に対する罰ゲームは"今世紀最後"を除き無かった代わりに、準決勝までの敗者のようにインタビューや労いの言葉などといったものがかけられることは一切無く、敗れ去って呆然とした姿や、クイズ王として称えられる勝者を虚ろな表情で見つめる姿などが、優勝者へのインタビューや表彰の合間に映し出される。視聴者には、決勝戦の敗者の姿はクイズ王として称えられる勝者とは全く対照的に映ることになる。第13回・第14回・第16回を除く各回ではスタジオパートがあった。スタジオでは、総合司会(“今世紀最後”ではスタジオ司会)がルートの紹介をするなど番組全体の進行を担当した。第12回までの総合司会の服装は基本的に本番組特製のブレザーを着用し(第1回・第2回は黄色、第3回-第6回は白、第7回-第10回は水色、第11回は藍色、第12回は青)、高島忠夫は常に蝶ネクタイだった。しかし第15回では小倉淳が常にタキシードだったのに対し、永井美奈子はドレスだったり洋服だったりした。スタジオでのルート紹介は、第1回から第12回までと第15回では電飾が配置された地図のセットが使用された。総合司会の2人が地名とキーワードを順次読み上げ(総合司会の男性が地名、女性が説明+αの形で紹介、これはスタジオがある回では毎回共通)最後は「ここまでたどり着けるのはたったの2人」の決まり文句で締めるのが恒例となった。第1回のみ賞品地の場所も記され、第3回以降では各チェックポイントのイメージがイラスト(第5回以後はくどう昭が担当)によって紹介された。回が進むとルートが壮大になり、第12回ではブラジル、アルゼンチン、チリの南アメリカルートが床の部分に伸びていた。また、第10回の南北ルートや第11回の一足飛びルートは、それぞれ雲や竜巻の形をしたセットでルートを隠し、視聴者や観客に興味を持たせた。第13回、14回は衛星写真をもとにCGルートが構成され、“今世紀最後”では電飾ではなくCG画像を使って行われた。チェックポイントの合間や番組ラストには総合司会の2人による、ジョークを交えたトークが行われ(例えばハワイ行きが決まった時には、高島が「これがハワイ〈早い〉者勝ちですね」とダジャレを言った)、時にはそのチェックポイントでのクイズ形式の実演を行うこともあった。挑戦者に対してツッコミが入ることもあった。また初期ではチェックポイントのOA後に敗者がスタジオに呼ばれることもあった。現地で罰ゲームがなく、スタジオでびっくり箱による罰ゲームがあったこともあった。また第12回までは、別室においてコンピュータを使用しての敗者(または勝者)予想が行われた。コンピュータ予想は主に挑戦者の正解率のデータを用いて行われたが、正答率順で上位の挑戦者に落選マークをつけて実際にその通りになったことや、それまでの挑戦者たちの傾向やジンクスから予想したり、何のデータも示さずCGで特定の挑戦者のアニメーションを流すこともあった(例えば、第8回準決勝では、フィラデルフィアを舞台にした映画『ロッキー』にちなんでボクシングをするアニメーション、第9回決勝ではパリにちなんで挑戦者がフレンチカンカンを踊るアニメーション)。第8回では挑戦者と予想対決もした。第5回以降は、番組終了時に、総合司会の2人で「勝てば天国!」「負ければ地獄!」「知力体力」「時の運」「早くこいこい」「木曜日」「史上最大」「第○回」「アメリカ横断」「ウルトラクイズで」「お会いしましょう!」という決まり文句を発していた(「木曜日」の部分は第5回最終週では「1年後」、第6回最終週では「また来年の木曜日」、“今世紀最後”の1日目では「月曜日」2日目では「21世紀」)。決勝戦終了後は、クイズ王が出題者とともに優勝旗を持ってスタジオに登場し、総合司会からインタビューを受けた。クイズ王のほか、準優勝者や上位まで残った挑戦者(主に準決勝進出者)、クイズ王の親族などが登場することもあった。“今世紀最後”では決勝戦を生放送(衛星生中継)で行ったため、現地のクイズ王がスタジオに招かれた家族と会話した。第1回では、アメリカ本土上陸者が決まった時点でスタジオの観客が優勝者を予想し、当たった人で賞金を山分けした。“今世紀最後”のスタジオパートは1日目は収録だったが、2日目は決勝戦を衛星生中継で行うことから生放送で行われた。なお、第13回・第14回はスタジオパートがなかったが、CG画像を使用しての全体ルート紹介や、現地でのスタッフや挑戦者、敗者による敗者予想が行われた。第16回では、2週目以降の各放送の冒頭で前週までのルートをCG画像で紹介したのみで、全体のルート紹介は行われなかった。優勝賞品の多くはほとんど、あるいは全く役に立たないものであった。中には「ほとんど罰ゲームみたいな優勝賞品」と評されたものもある。第16回のブドウ畑のように、税金などの経費負担が重く結局手放さなければならない場合もあった(課税される商品の固定資産税などの税金は初年度のみ日本テレビが負担していた)。しかし、中には第11回の島のように、その後長期に渡って保有している(固定資産税を納付している)例もある。第15回の温泉は特に珍しいものではなく、地元の人々も自由に作って入っている。優勝賞品の発表は、残り人数が6-7名と少人数になった頃のチェックポイントで行われることが多かった。例外として第1回では参加申込規約に発表されており、第8回と第13回では第一次予選会場で発表された(第13回では3つのヒントのみが発表されただけで賞品の概要は優勝者のみに明かされた)。本番組の優勝賞品はあくまでも「おまけ」であり、優勝を果たすまでの長い旅路の過程、アメリカなど各国の広大な景観・自然、一緒に長い旅をすることで得た世代を超えた友人達や普通では体験することができない人生経験、「ウルトラクイズのクイズ王」という名誉自体が「本当の優勝賞品」という認識をされている。これは優勝者だけでなく、準優勝者以下の敗者たちにとっても同様である。実際に、大多数のクイズ番組では当たり前のように出る「賞金」が本番組にはない。第2回のリノで行われたルーレットクイズで、勝ちぬけに必要なドル数(6ドル)以上を勝ち抜け時に取ったときは、その取り分が現金として挑戦者に渡されたことがある(もっとも、ほとんどの勝者は3-4ドル位の獲得で、当時のレートで1000円前後だった)。これが本番組で唯一明確に出された「賞金」だった。このほか、賞品と銘打たれてはいないものの、クイズの勝者に対するボーナスとして、あるいは敗者に対して記念品として食事が振る舞われたり、クイズで使用した道具、ペナルティとして獲得した品物が譲渡されることがあった。優勝賞品は、当初はまともな賞品にする予定であった。第1回大会では、申込の時から「アメリカの土地2000坪(実際は1226坪の1エーカーに変更)」を賞品にすると告知していた。ところが公正取引委員会の指導で、賞品は100万円相当を限度にしていたため(景品表示法の規定による当時の賞金商品の最高額。現在は廃止されたが、1997年より民放連の自主規制として一人200万円相当、5人チームならば1000万円相当を限度としている)、砂漠のど真ん中の土地しか買えなかったという。これがきっかけで、以降も風変わりな賞品を出すようになった。これらとは別に、裏賞品として第11回開催時、歴代クイズ王にトロフィーが渡された。これは、第一次予選のエキシビションマッチでクイズ王サイドから提案されたもの。第一次予選時に各クイズ王にトロフィーが渡され、エキシビション不参加のクイズ王には郵送で贈られた。この年のクイズ王である稲川良夫にも優勝後渡された。全部で12個作られたが、残りの1つの行き先は不明(翌年の第12回優勝者・瀬間の手には渡っていないとのこと、その翌年以降のクイズ王に関しては不明)。番組では、メインテーマ曲を初めとする様々なBGMに、ハイセンスな洋楽や当時放映の洋画音楽を使用していた。しかしながら、メインテーマ曲のように複数の楽曲を繋ぎ合わせて使用していたり、大幅に長さを編集、一部だけを切り取って使用しているケースも多く、このような背景がこれらの楽曲の著作権の問題を複雑化させており、ゲームなどでの再使用が困難となっている。ここでは、パロディ版は除外する。日本テレビ系列のNNN、NNS各局では本番組の亜流ともいうべき大人数参加のクイズ大会が制作、放送されていた。ウルトラクイズを名乗り、各系列局のアナウンサーやタレントではなく福留や福澤が司会を担当するなど(例として、福井放送『福留功男のウルトラクイズ福井版』、テレビ岩手『福留功男のウルトラクイズ岩手版』など)、ルールやセット、BGMなどに関しても本家を踏襲したものとなっていた。1994年(平成6年)から2001年(平成13年)までに福島県岩瀬郡天栄村で行われた「ウルトラクイズinてんえい」は本格的なイベントとして反響を呼んだ。当初は村制施行40周年記念として開催され、その後も村おこしとして続いたが、日本テレビと福島中央テレビの協力を仰ぎ、司会こそ地元アナだが、ウルトラクイズ名物の泥んこ飛び込みクイズならぬ不正解だと粉まみれになるシロンコ飛び込みクイズや、ウルトラハットなどのセットに本物を使ったりと本家に近い形式になり、評判となった。1983年(昭和58年)3月には、ラジオ番組としても制作されたことがある。日本テレビの系列局でもある青森放送が開局30周年記念番組として企画、同局のみで放送された。当初、青森放送から企画を打診され協力を要請された日本テレビは、番組タイトルも含めて難色を示したとされているが、最終的には実験として制作に全面的に協力、問題の提供や早押しハットなどの機材も貸し出し、福留やスタッフが青森に赴き、福留が司会を務めた。青森放送でも、当時ラジオ制作部に所属していた佐藤元伸(伊奈かっぺい)がディレクターを務め、地元にちなんだ問題の作成や台本づくりなどの放送作家的な仕事もこなした。併せて、当時アナウンサーだった大友寿郎がラジオ放送向けの実況(カゲの声)を務めている。収録は、青森市内の中央3丁目にあった青森県営体育館(現在は取り壊され、跡地には青森県男女共同参画センターと青森県子ども家庭支援センターの2つの機能を併せ持つ複合施設「アピオあおもり」が建っている)で行われた。第一次予選は4回に分けて行われ、のべ3,650名が参加した。このときの優勝賞品は、アメリカ西海岸旅行であった。多摩地域が東京都に編入されて100周年を記念して1993年(平成5年)に行われたイベント「TAMAらいふ21」の一環として、同年夏に自治体とのタイアップによる、ウルトラクイズ同様の形式のクイズ番組「80大学対抗クイズ選手権」が制作された。この模様は日本テレビで深夜にローカル放送された。司会は福澤が務め(この時の福澤のかけ声は「ジャストミート」ではなく「タマ王」だった)、ウルトラクイズのスタッフも多数参加した。大学生2人1組での参加による大会であった。収録は2日間にわたり、多摩の名所を巡った。優勝チームには「タマ王」の称号が与えられた。本番組からパロディ化されたものは大小合わせて数えきれないほどある。例えば番組そのもののパロディには『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』のほか、その他各局の番組にて「○○ウルトラクイズ」なるコーナーが登場したり、本番組とほぼ同様の小道具やBGM・テロップなどを用いたパロディも登場した。このほか、「ニューヨークへ行きたいか!」の掛け声、「罰ゲーム」「勝ち抜け」「敗者復活戦」などの言葉、番組での、どろんこクイズやハットなどのアイデアやセットが後のテレビ・ラジオ番組で使用されたり、日本各地の大小イベント(オンラインゲームなどでも)で「ウルトラクイズ」と銘打った企画が行われるなど、『ウルトラクイズ』の存在がクイズ界にとどまることなく影響を与えている。フジテレビの「クイズ!ヘキサゴンII」においても、合宿スペシャルなどでウルトラクイズのような企画がある。また乗り物で移動しながらクイズを行う番組として、週レギュラーのTBS『クイズ列車出発進行』や続く『日本縦断クイズ合戦』がある。不正解者が脱落するコンセプトも同じだった(現在、乗り物を使うクイズ番組ではNHK総合テレビの『クイズでGo! ローカル線の旅』が放送されている)。2003年(平成15年)には、日テレの汐留移転にちなむミニイベント「シオドメ横断ウルトラクイズ」が開催された。2006年(平成18年)からは、スポンサーの広告コラボレーション企画として、突撃○×泥んこクイズバージョンのテレビCMが関東地区でのみ放映された。出題役は『全国高等学校クイズ選手権』の3代目司会者である鈴木崇司。飛び込み役は各社共通は長州小力とバナナマン(2006年)、コージー冨田とスピードワゴン(2007年)、髭男爵とザブングル(2008年)、それ以外はスポンサー関係者などだった。スポンサー関係者が正解に、芸人が誤答(泥)に飛び込む趣向だった。また、2008年版は、視聴者からの飛び込み役も公募していた。2010年には、ロフト渋谷店および、セガ(後のセガ・インタラクティブ)のアーケードゲーム『ネットワーク対戦クイズ Answer×Answer Live!』との当番組公認のコラボ企画「夏休み横断!ウルトラクイズ」を開催した。ロフト渋谷店では番組グッズの販売とともに、番組で使われた小道具・美術(早押しハットや早押しテーブルなど)が展示された。また『Answer×Answer』と日本テレビの携帯サイト『日テレクイズ』によるクイズ大会が8月16日より行われ、『Answer×Answer』決勝大会の成績優秀者2人と『日テレクイズ』の成績優秀者1名の計3名による「クイズ王決定!イベント」が、9月4日に汐留・日テレの公開スタジオ「テレビバ」で開催された。他局でも、本番組で初めて登場した「クイズ王」の称号をタイトルに使用した、『FNS1億2000万人のクイズ王決定戦』(フジテレビ)や『史上最強のクイズ王決定戦』(TBS)などの大型視聴者参加型クイズ番組が生まれた。本番組の反響は、世界各国でも紹介された。また、日本テレビの了解を得て同様の番組が日本国外で制作された。他国から企画を利用するクイズ番組が多かった当時の日本では、珍しい例である。本番組は回数を重ねる毎に、大学クイズ研究会関係者の出場が増えて行くようになった。初期の優勝者や上位進出者にも、クイズサークル等に所属する「クイズ番組荒らし」と呼ばれる参加者は多かったが、本番組は社会人が主流であり、同じクイズ修練者とはいえ年齢層に違いがあった。また初期は本番組以外にも視聴者参加型クイズ番組が多く、その様々な「常連」が自然に本番組にも足を向けたため、挑戦者のバラエティも豊富だった。しかし、本番組がクイズファンの人気を集める一方で、1980年代中盤から視聴者参加型クイズ番組は次第に減っていった。その結果、本番組に影響されてクイズファンになったという若い世代が増え、大学クイズ研究会も本番組に向けて対策を特化させていった。本番組のために旗揚げされた大学クイズ研究会も少なくなかった(「ウルトラクイズ愛好会」を名乗るサークルもあった)。中期には序盤のチェックポイントにおいて大学クイズ研究会対抗戦の図式を作り上げて場を盛り上げる演出が行われたこともあった。特に私立の立命館大学や国立の名古屋大学からは成績優秀な挑戦者が多く出場しており、立命館大学からはOBを含めて5人の優勝者を輩出している一方、名古屋大学からは優勝者こそ出ていないものの、機内ペーパークイズ1位を1人輩出したほか、秋利美記雄らが番組後半まで勝ち残るなどの実績を残している。第一次予選の○×クイズでは集団で問題の検討・行動を行い、彼らの研究成果である「法則」(多くの問題は真偽を知らなくても、問題パターンなどの外部要因から○×解答を導けるというもの)を駆使。これにより大学クイズ研究会のメンバーは、正解率も一般個人参加者より必然的に高くなり、結果的に彼らは第一次予選突破者の中でかなりの数を占めることとなった。定員に近くなるとクイズの問題検討よりも定員内に残るための作戦(多数の集団についていき、安全策をとる)を実行したり、さらには都合上第二次予選以降に参加できないメンバーがわざと目立つように誤答することで他の参加者を道連れにし、ライバルを減らすことを試みるといった戦略も行われていたことが日本テレビ側の反感を買っている(後述参照)。本番組に出場した大学クイズ研究会は、早押しクイズを特に得意としており(知識以上の反応速度で解答権を得るために、問題文の癖読みを研究するなど)一部の視聴者から人気を得た。一方、クイズ研究会の活躍が増えた時期から、後半のチェックポイントに正統派早押しクイズが多くなったため、クイズ研究会関係者が後半まで勝ち残ると、優勝者が大方予測できてしまい、番組視聴の興味を削いだ点も指摘された。第13回の第一次予選の○×クイズで「自分の意思で決めてください」というアナウンスを無視して集団行動し、相手を罠に嵌める作戦も行う大学クイズ研究会への対策として、第14回以降の○×クイズでは4問目・7問目・9問目辺りに「クイズ研殺し」という問題を出すようにした。これは「問題集や資料などでは予習しようのない内容で、かつ素直に考えることで正解しやすく、○×クイズのパターンを研究している者は余計な深読みをして間違えるような問題」を指す。これを初めて採用した第14回では大学クイズ研究会の大量予選通過を阻止することに成功。またこれにより、第14回では現役の学生による決勝進出者が久し振りにいなくなったが、第15回では再び現役の学生が決勝に進出している。司会の福留は著書『葬らん!』で、「ウルトラクイズには社会人が出てきて喜怒哀楽をみせてほしい」という内容を書いているが、大学クイズ研究会の急速な台頭によって思惑とは違う方向に進んでいく。社会人が長旅で仕事や家庭などのしがらみを気にしながらそれでも旅する様を描くことが番組名物の一つであったが、まさにそれゆえ社会人は参加しにくく、番組が有名になるにつれ、1980年代中盤からは応募者の大半を学生が占め、チェックポイント通過者の多数も学生が占める結果になった。福留が第15回で司会を降りた理由は体力の限界だった。しかし前掲『葬らん!』によると、他の理由として「人生経験を積んだ社会人を中心に扱いたいのに、学生や大学クイズ研究会ばかりが勝ち残ることに嫌気がさしたため」もあるという。福留は、「視聴者に番組をハイジャックされたようなもの」と述懐している。“今世紀最後”で設けられた公式サイトでは、冗談半分とはいえ「クイズ研究会は書類審査で落ちるとトイレの裏で聞いた」などと日本テレビ側が公式サイトに書き、大学クイズ研究会側を不快にさせた。国内第2次予選や機内ペーパークイズにおける形式変更(ジャンケン→ピカイチ芸(一発芸)、400問三択→漢字書き取り)についても、没個性を淘汰するというクイズ研究会対策ではないのかとされた。特にピカイチ芸の導入に含め、福留の著書『ウルトラクイズ伝説』の「クイズマニアを落とすのは簡単だ」については、大学クイズ研究会員などから非難を浴びた。ただし、日本テレビが1991年(平成3年)に発行したムック本『絶対ニューヨークへ行きた〜いッ! アメリカ横断ウルトラクイズ 攻略技術と対策問題』においては「クイズ同好会訪問!」と題した企画があり、企画冒頭では「この本の柱になっているのは『クイズ同好会』」と明記し、いくつかの大学クイズ研究会の紹介をしている。さらに同ムックの第11回-第13回の海外脱出者の討論会の席においては、インタビュアーが「この本の柱はクイズ『同好会』なんですが」と話題を振り、その後にクイズ研究会についての話が展開されている。また、番組の企画創設メンバーであり全17回全てのクイズ問題を担当したスタッフが、「むしろ感謝こそすれ、大切なクイズファンを嫌ったり、警戒したりなどありえない」とブログに表記しており、メインスタッフでも福留とは正反対の見方をしていたことが明らかとなった。当初の企画は、1969年の東名高速道路の開通時に、沿線を移動しながらクイズを行うというものだった。この企画は陽の目を見なかったが、舞台をアメリカ大陸に変えることで実現した。日本テレビ開局25年企画候補の1つとして「世界をバスで横断・大クイズ大会」という企画があった。スタジオで200人の挑戦者にクイズを出し、勝ち残った人は香港へ行き、バス移動の道中でもクイズ、脱落者を出しながら行ける所まで行くというものであった。結局「ピラミッド再現計画」に決まったため開催されなかったが、これがウルトラクイズの原型となる。内容および規模的に、日本テレビ職員だけでは出来ない企画だったが、第1回放送の前年、1976年7月4日に、日本テレビでアメリカ合衆国独立200年を記念して放送された番組「夢と冒険!アメリカ大横断」で、日本人の老若男女男女7人がキャンピングカーを利用しアメリカ大陸を横断するという内容を企画制作し、グループ海外移動のノウハウを持っていたテレビマンユニオンに声を掛け、同社の参加が決まったという。本番組が最初に企画された際の仮タイトルは「ジャンボクイズ」だった。しかし、1977年(昭和52年)当時、『木曜スペシャル』のスポンサーの一社だった全日空は「ジャンボジェット」ことボーイング747を保有しておらず、一方ライバルの日本航空は既に747を保有していた(全日空が747を導入したのは1979年(昭和54年))。「ライバル会社を連想させる名称は良くない」とのことで「ウルトラクイズ」に名称が変更されたという(当時は「航空憲法」こと45/47体制のため全日空は国際線を運航しておらず、第1回はパンアメリカン航空、第2回から第10回は、および"今世紀最後"ではコンチネンタル航空を利用、実際に番組内で全日空を使うようになったのは、同社がグアム路線を運航し始めた1986年(昭和61年)の翌年、第11回大会以降である)。また、「ウルトラクイズ」のタイトルは、特撮番組「ウルトラマン」に由来するとしている。しかし第二次予選で使われた成田エアポートレストハウスは放送当時は日本航空グループであった。当初の計画では、日本テレビ側がアメリカ横断を、TBS側が「ヨーロッパ横断ウルトラクイズ」としてヨーロッパ大陸横断を担当し、両方の優勝者がニューヨークで決勝を行う予定であった。しかし、TBSがこの企画を拒否したため、アメリカ横断のみの開催となった。ウルトラクイズが始まった頃、ホノルルの空港の税関で「早押しハット」が不審尋問にかかってしまったことがあった。スタッフが身振り手振りで税関係官に説明するもなかなか通じず、電源を繋いで実演する事によって何とか通関した。次のようなハプニング・トラブルもあった。本番組におけるホテルや飛行機などの手配など、旅行部分のコーディネート業務は、番組開始から終了まで一貫して近畿日本ツーリストが担当していた。番組の全盛期には「ウルトラクイズの仕事がしたい」という理由で同社を志望し実際に入社する学生が多数存在したという。スタッフに支給される1日の食費手当は当時のアメリカの食費1食分くらいだったが、福留は「1年かかって覚える仕事を1か月で覚えるから、志願するスタッフも多い」と挑戦者に話をしていた。スタッフはほとんど挑戦者と交流を持たないとされており、交際も禁じていた。これは、挑戦者に情が移ったりクイズの情報が漏れたりすることを防ぐためや、スタッフのモラル向上のためであった。ただし、挑戦者が10名前後の時点で、司会の福留/福澤、主要スタッフ(萩原津年武など)と挑戦者の夕食会が設けられ、そこで初めて福留/福澤と挑戦者が一緒に食事をし、個人的な話もできた。これには挑戦者個々の性格を把握しておき、それをその後の番組演出に生かす目的もあったとされている。なお、スタッフがホテルのゴミ箱に捨てたデータから機内ペーパークイズの順位が漏れたこともあった。決勝が終わると、ニューヨークの日本料理屋を借り切って盛大な打上げパーティが行われる。その際、頑張ったスタッフを表彰するイベントが第1回大会から行われており、選ばれたスタッフは嬉しさの余り、声を上げて泣きながら選ばれた事を喜ぶ姿も見られたという。挑戦者は第一次予選を通過すると後楽園球場・東京ドームの近くにある建物に集められ、通称「勝者弁当」を支給されて渡航説明会を受けた。その際大まかなクイズルート・予定などの概要を説明されるが、実際の行程は一部変更されることも珍しくなかった。また、グァムのクイズを通過した挑戦者は誓約書を書かされた(ただし強制ではなく任意)。挑戦者の宿泊費・交通費・食費といった旅費は日本テレビが負担した。挑戦者の数が10名前後の時点からはアルコール代なども負担してもらえた。失格後も成田(第1回は羽田)空港までの旅費と食費を負担してもらえたが、挑戦者のものよりランクが下がっていた。敗者はクイズが終わると、番組上では罰ゲーム後、「東京直行」として即強制送還という演出がされていたが実際は必ずしもそうではなかった。日本方面の飛行機の日程の都合や現地の天候、各チェックポイントの周辺施設の警備上の問題等の理由で、実際には敗者がその地に一泊してから帰るというケースもあった。例えば、グァムまでの機内テストで敗者になった場合、番組ではタラップ最後の一段でグアムの地を踏めずに機内に戻されるというシーンがあったが、実際にはそのままグァムで一泊することもあった。また、ハワイでは敗者を乗せたバスに福留が乗り込み、「敗者の皆さんも番組を盛り上げてくれたので、特別にハワイの夜をプレゼントしましょう」と言い、勝者と共に敗者も同じホテルに一泊してから帰国したこともあった。なお、敗者は失格地の宿泊所から空港までは残置されたスタッフが連れて行くが、それ以降乗継ぎなどがあった場合、もしくは途中で別の土地で一泊する場合にはチェックインや搭乗手続きなどを全て自分1人で、しかも自己負担で行わなければならなかった(中継地に近
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。