『レット・イット・ビー』("Let It Be")は、イギリスにおいて1970年5月8日に発売されたビートルズの13作目のオリジナル・アルバムである(1987年のCD化においてイギリス盤公式オリジナル・アルバムと同等の扱いを受けたアメリカ・キャピトルレコード編集アルバムの『マジカル・ミステリー・ツアー』が、2009年9月9日にリリースされたデジタルリマスター盤において発売日順に従い9作目に順番付けられたため、現在は13作目とされているが、イギリス盤公式オリジナル・アルバムとしては12作目である)。本作は映画『レット・イット・ビー』のサウンドトラック・アルバムとされる。しかし実際に映画に使われたものと同じテイクを収録したケースは多くなく「トゥ・オブ・アス」、「ディグ・ア・ポニー」、「ディグ・イット」、「アイヴ・ガッタ・フィーリング」、「ワン・アフター・909」の5曲と、全12曲中半数にも満たない。本作はアルバム『アビイ・ロード』制作前に行われたいわゆる「ゲット・バック・セッション」を基にして制作されていることから、そのセッション後にレコーディングされた『アビイ・ロード』がラスト・アルバムという見方がなされていた。しかし1990年代に入りビートルズのレコーディング記録の詳細が公にされたことによって、1970年1月にも「ゲット・バック・セッション」は続けられ、なおかつ3月23日~4月2日にフィル・スペクターによって再制作されたことが判明。本作が名実共にビートルズのラスト・アルバムであることが明らかになった。なお前作『アビイ・ロード』に続いて、本作もステレオ盤のみで制作された。1969年1月、ビートルズは原点に返って過剰なオーヴァー・ダビングを排したアルバムを制作するというコンセプトの下、16mmフィルムで映画撮影しながらレコーディングするというプロジェクトに取んだ。手始めに1月2日から1月16日にかけてトゥイッケナム映画撮影所において映画撮影およびリハーサルを行い、その後1月22日から1月31日にかけてはアップル・コア本社ビル(及びその屋上)において映画撮影およびレコーディングを行った(「ゲット・バック・セッション」)。アルバムのプロデューサーはデビューから前作『イエロー・サブマリン』まで一貫してジョージ・マーティンが務めたが、発売されなかったアルバムである"Get Back"のプロデュースに関してはポール・マッカートニーの推挙によりエンジニアのが担当した(ただし「ゲット・バック・セッション」のレコーディングに関してはジョージ・マーティンが参加した日もあった)。しかしビートルズはアップル・コア本社ビルにおけるセッションおいてもトゥイッケナム映画撮影所でのリハーサルと同様に真面目にレコーディングすることは少かった。彼らはリハーサルに興じたり私語を交わしたりスタンダード・ナンバーを採り上げたり即興演奏をするなどしており、「ゲット・バック・セッション」の音源をカタログ化することはビートルズ解散後においても不可能であるとされている。その中で1月30日、31日には2年5ヶ月ぶりのライヴ・パフォーマンスも行った(ルーフトップ・コンサートおよびスタジオ・ライヴ)。撮影されたセッションは後に映画「レット・イット・ビー」として劇場公開されている。なお、アップルでのセッションにはキーボーディストのビリー・プレストンが参加している。4月11日に先行シングル盤「ゲット・バック」(1969年1月28日録音)がリリースされたものの、「ゲット・バック・セッション」をアルバムにまとめる作業は難航した。5月28日、難航した作業のなかグリン・ジョンズによってアルバムは作成され"Get Back"のタイトルで完成され、テスト盤まで作成され関係者内に流布した。しかし"Get Back"はそれまでのビートルズのアルバムと比較し不出来なアルバムであったためリリースは延期されることとなった。2月以降もビートルズは断続的にレコーディングを続けるが「ゲット・バック・セッション」への熱意は冷め、徐々に次作のアルバム録音へと移行しはじめる。7月1日には新アルバムのレコーディングが本格的に始められ、同アルバムは8月25日に完成し、アルバムは『アビイ・ロード』と題され9月26日にリリースされることになった。しかし契約上さらなるアルバムの発売義務があったこと、および録画されたフィルムのサウンド・トラック・アルバムのリリースが必要であったため「ゲット・バック・セッション」をアルバム化すべく、翌1970年1月3日から8日までジョン・レノン不在のまま追加レコーディングが続けられ、セッションなかばの1月5日にはグリン・ジョンズによって再度アルバムが編集された(第2ヴァージョン)。しかし、第2ヴァージョン"Get Back"も不出来であることからリリースは見送られ、ビートルズは自身によるアルバムの完成を放棄する(結局のところ「ゲット・バック・セッション」は1970年1月8日を以てレコーディングは頓挫し、編集作業も1970年2月28日の「フォー・ユー・ブルー」のミキシングを最後に中断された)。1970年1月8日を最後にビートルズはグループとしての音楽活動を止め(後述の通り、最終レコーディングはそのあと1度だけ1970年4月1日のオーケストラおよびコーラスのオーヴァー・ダビングのセッションに際しリンゴ・スターのみドラムスで参加している)それぞれソロ活動に重点を置くようになる。プラスティック・オノ・バンドの3枚目のシングル曲のレコーディングに際し、ジョージ・ハリスンはプロデューサーとしてジョン・レノンにアメリカ人プロデューサーのフィル・スペクターを推挙、ジョージ・ハリスンの推挙に応じたジョン・レノンはフィル・スペクターのプロデュースのもと1月27日に新曲「インスタント・カーマ」をレコーディングする(その際、ジョージ・ハリスンもギター奏者として参加)。フィル・スペクターの仕事に満足したジョン・レノンとジョージ・ハリスンは1970年3月23日、頓挫した「ゲット・バック・セッション」のテープをフィル・スペクターに託すことにした。フィル・スペクターは、音源にオーケストラやコーラスなどのオーヴァー・ダビングを施し、本来のコンセプトとはまったく違った形でアルバムを完成させた。前述の通り1970年4月1日に行われたオーケストラおよびコーラスのレコーディング・セッションにリンゴ・スターがドラムスで参加しているが、再プロデュースに際してのフィル・スペクターの仕事ぶりは非常に独善的であり「スペクターは考えもなしに『こういう音にしろ!』『ああいう音にしろ!』『こうでなくちゃダメだ!』って駄々っ子みたいにわめくばかりさ。リンゴが見かねて彼を脇へ連れていき、『そんなの無理だよ。みんな精一杯やってるんだ。少しは冷静になってくれ』と言ってた」というエピソードが残っている。ビートルズがオーケストラを起用する際にはプロデューサーのジョージ・マーティンがオーケストレイションを行うことを常としていたが、フィル・スペクターによる再プロデュースに際してはをアレンジャーに起用した。ただし「レット・イット・ビー」にオーヴァー・ダビングされたブラス・アンサンブルはフィル・スペクターによる再プロデュース前の1970年1月4日にレコーディングされたもので、ジョージ・マーティンによるアレンジである。ジョン・レノンとジョージ・ハリスンは、頓挫した「ゲット・バック・セッション」の音源を短期間のうちにアルバムとしてまとめあげたフィル・スペクターの仕事を高く評価し、それぞれのソロ作品で彼をプロデューサーとして起用している。しかしポール・マッカートニーは「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」に加えられたオーケストラ・アレンジ に強い不満を持つなど、フィル・スペクターの仕事を評価しなかった。ポール・マッカートニーはアルバム発売の中止を求めて訴訟を検討したが、アルバムリリース契約が1枚残っていたため、不本意ながらも発売を認めざるを得なかった。ジョージ・マーティンはフィル・スペクターの再制作したアルバム『レット・イット・ビー』を聴いてショックを受け驚きあきれたという。またジョージ・マーティンは「『レット・イット・ビー』はいい曲も入っているが、失敗作だった。我々がやろうとしていたこととは全く違う形でアルバムにされてしまった不幸な作品だ」と語った。なお2003年11月にフィル・スペクターの施したオーヴァー・ダビングを取り除き、本来の演奏にデジタル・テクノロジーによる修正を施したものが『レット・イット・ビー...ネイキッド』として発売された(新たな加工も加えられているという点では「ネイキッド(裸)」ではない)。イギリスの「ミュージック・ウィーク」誌では3週連続1位を獲得。アメリカの「ビルボード」誌では4週連続1位を獲得し、1970年度年間ランキング31位だった。「キャッシュボックス」誌では6週連続1位、1970年度年間ランキング14位。アメリカだけで400万枚以上のセールスを記録し、全世界では1,000万枚以上のセールスを記録している。『ローリング・ストーン誌が選ぶオールタイム・ベストアルバム500』に於いて、392位にランクイン。
出典:wikipedia
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