露の 五郎兵衛(つゆの ごろべえ)は上方落語の名跡。初代は京落語(上方落語)の祖とされる。現在は空き名跡となっている。初代 露の五郎兵衛(しょだい つゆの ごろべえ、1643年?(寛永20年)- 1703年秋?(元禄16年))は、江戸時代前期の落語家。京都の人で、元は日蓮宗の談義僧。還俗して辻咄(つじばなし)を創始し、京都の北野、四条河原、真葛が原やその他開帳場などで笑い咄、歌舞伎の物真似、判物演じた。故に京落語(上方落語)の祖とされる。号は雨洛。晩年に再び剃髪し、露休を号す。著書に『軽口露がはなし』『露新軽口ばなし』『露五郎兵衛新ばなし』などがある。北野天満宮境内には記念碑が建てられている。2代目 露の五郎兵衛(2だいめ つゆの ごろべえ、1932年3月5日 - 2009年3月30日)は、落語家、大阪仁輪加の仁輪加師。本名: 明田川 一郎(あけたがわ いちろう)。上方落語協会会長、日本演芸家連合副会長、番傘川柳本社同人、日本脳卒中協会会員などを歴任した。生前の所属事務所はMC企画、五郎兵衛事務所。祖父母が京都市下賀茂の映画撮影所の裏で芝居や舞踊の稽古場を営んでいた縁で、1938年12月、7歳のときに羅門光三郎主演の映画『暴れだした孫悟空』に小さくなった孫悟空役で出演し、子役俳優となる。その後も、端役などで映画に出演。その後、一家で中国・汕頭市に渡り、汕頭日本東国民学校高等科卒業。中国にて終戦を迎える。1946年に家族で京都に引き揚げた。同年、生活の糧を得るため、芦乃家雁玉の主宰する「コロッケ劇団」に所属し、芦の家 春一を名乗る。同劇団は軽演劇を標榜していたが、その実は仁輪加を売り物にしていた。地方巡業や、京都の富貴にて前座修行する。1947年11月、戎橋松竹の楽屋で2代目桂春団治に「落語家にならへんか」とスカウトされ、雁玉や林田十郎のすすめもあり、正式に入門して桂 春坊を名乗った(彼は入門まで落語を聞いたことがなかった)。落語家としての初舞台は京都座だという。以降、2代目春団治の側近として修業を重ねた。晩年の三遊亭志ん蔵にかわいがられ、志ん蔵が怪談噺を演じる際に、客席に乱入する幽霊役を演じたという。1953年、上方若手落語家が戎橋松竹派と宝塚落語会派に分裂した際に、宝塚へ行く。しかし、そのまま軽演劇の宝塚新芸座に入団し、俳優として活動。しかし1958年に舞台から転落する事故に遭って大怪我を負い、休業。1959年、上方落語協会に入会し、落語界に復帰(3代目桂春団治の襲名に乗じて、3代目門下に入り協会末席の香盤という条件で、一一(かずのはじめ、のちの3代目林家染語楼)と共に入会を許される)。松竹芸能に所属。道頓堀角座等に出演した。1960年10月、2代目桂小春団治を襲名。1963年、日本ドリーム観光へ移籍。千日劇場で公開収録された関西テレビ『お笑いとんち袋』(3代目桂米朝司会)の回答者として活躍。1967年4月、吉本興業に移籍。1968年4月に吉本側から改名を促され、前述の初代露の五郎兵衛の流れを汲む2代目露乃五郎を襲名した。本業の落語のかたわら、俳優としてテレビドラマに多く出演した(後述)。1980年、吉本興業を離れてフリーとなった。1987年に亭号の表記を「露の五郎」に改める。1994年、上方落語協会会長に就任し、2003年まで務めた(後任は桂三枝(現:6代目桂文枝))。2005年10月、前名「五郎」の由来である大名跡「2代目露の 五郎兵衛」を襲名。同年には歌舞伎の4代目坂田藤十郎の襲名披露もあり、両界そろって数百年ぶりの名跡復活が話題となった。晩年は病に苦しみ、2002年9月に脳内出血、同年11月には奇病の原発性マクログロブリン血症を患った。2009年3月30日、多臓器不全のため77歳で死去。次女(後述)の影響で、2003年に妻と共に洗礼を受けたキリスト教徒であり、教会やキリスト教テレビ伝道番組の『ハーベスト・タイム』等で落語や講演をおこなった。信仰生活に関する著書を上梓した(下記)ほか、次女との共作の「福音落語」(別名「神方噺(かみがたばなし)」)も演じた。双子の娘がおり、そのうちの姉は女優の綾川文代。綾川は「露のききょう」を名乗る落語家でもある。妹は一般人で単立・西宮北口聖書集会の牧師と結婚。この娘婿はのちに滋賀県栗東市の栗東キリスト教会の牧師として、五郎兵衛がキリスト教徒になるきっかけを作った。前座時代は初代桂春団治を踏襲するなど爆笑派だった。やがて中国の古典文学を題材にとった『西遊記』『水滸伝』などの新作落語や、『猿飛佐助』『淀川堤夢川竹』などの講談・歌舞伎の翻案を手がけるようになり、長じると古典の艶笑噺、怪談噺を得意とした。怪談は「怪談の五郎」の異名をとるほど高く評された。艶笑噺については、小咄の研究や収集に関する複数の著書を持つ。音源が残る演目に、赤穂城断絶、あみだ池、浮世床、うなぎや、延陽伯、近江屋丁稚、正本芝居噺・加賀見山、真景累ヶ淵の通し、蛸坊主、大丸屋騒動、大名道具、筍手討、鉄砲勇助、猫の災難、ねずみの耳、初天神、羽根突き、深山隠れ、村芝居、めがね屋盗人、目薬、雪の子守唄、雪の戸田川、夢八、四谷怪談などがある。若い頃から東京の落語界との交流を持ち、落語協会の客分となって、定期的に東京の寄席に出演していた。2代目三遊亭百生(元は上方落語家で、師匠・2代目春団治の兄弟子で3代目桂梅團治を名乗っていた)に私淑し、大家・8代目林家正蔵(後の林家彦六)からも、芝居噺や怪談噺をいくつか授かっている。やがてそれら東京のネタを改作し、上方にもたらした。2代目五郎時代より、『東の旅』の欠落していた部分(『鯉津栄之助』『天狗の酒盛り』など)の復刻に尽力した。晩年の五郎兵衛時代に全篇演じ、またその名所を巡るという壮大な計画を立てていた。大阪仁輪加の数少ない伝承者の一人であり、2代目一輪亭花咲に師事し「2代目大阪屋町人」や「3代目一輪亭花咲」を襲名した。一輪亭花咲の名跡は、のちに弟子の露の団四郎に譲り、自ら初代露の五郎兵衛が晩年名乗った「一寸 露休」(ちょっと ろきゅう)を「一寸 露久」という字で襲名した。「久」を用いたのは、「休」を用いて引退すると勘違いされるのを避けたためという。
出典:wikipedia
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