伝書鳩(でんしょばと)は、カワラバト(ドバト)などの鳩を飼い馴らし鳩の帰巣本能を利用して遠隔地から鳩にメッセージを持たせて届けさせる通信手段の一種、あるいはその媒介として使われる鳩。伝書鳩(レース鳩)は、飛翔能力と帰巣本能が優れ、1000km以上離れた地点から巣に戻ることができるといわれる。使い方としては、遠隔地へ伝書鳩を輸送し、脚に通信文を入れた小さな筒(現在ではアルミ製が多い)を付けて放鳩(ほうきゅう)する。飼育されている鳩舎に戻ってきたところで通信文を受け取る。通信文だけでなく、伝書鳩が持てるような小さな荷物を運ぶこともあり、その場合は背中に持たせることも多かった。中でも僻地医療で血清や薬品等の輸送に重要な役割を担った。伝書鳩が迷って戻れなくなったり、猛禽類などに襲われて命を落とすこともあったため、通信目的を確実に果たせるよう、同じ通信文を複数の伝書鳩に持たせて放されることも多かった。伝書鳩(レース鳩)は上述の通り1000km以上離れた地点から戻ることができるが、通常は200km以内での通信・運搬等に使われていた。電気が必要ない、フィルムや薬品・血清・家畜の精子等、軽量な物資を素早く運搬できるなど、無線通信などに比べて利点もあるため、通信用をはじめ、軍事用(伝令や偵察)・報道用(主に新聞社や通信社)・医療用・畜産用等の通信ならび運搬手段として1960年代ごろまで広く使われたが、近年は交通や通信手段の発達によってその役目を終え、現在では実際に物資の運搬に使われることはまれである。呼称も伝書鳩からレース鳩へ移り、主にスポーツとして開催されるへ参加するため、愛好家が品種改良や訓練を行うことを農林水産省が統轄する使役動物となっており、脚環の装着と所有権登録、迷い鳩の引き取り、ワクチンの接種などが義務化されている。飛行は帰巣本能を利用したものであり、鳩舎へ帰還するため、一方通行が基本。通常、伝書鳩は再び放鳩地点に戻ろうとはしない。往復通信を行うためには双方に鳩舎が必要であり、あらかじめ鳩を輸送しておかなければならない。1羽の鳩は1つの目標にしか対応しないため、通信先が複数の場合はその数だけ鳩を用意しなければならない。また、移動目標に向かって伝書鳩を送ることはできないため、船舶から陸上へ向かって鳩を飛ばすことはできても、陸上から船舶へ向かって飛ばすことはできない。ただし、特殊な例として「往復鳩」と戦時中の日本軍の「移動鳩」が存在する。「往復鳩」は、文字通り2つの地点の鳩舎を往復するもの。寝場所とエサ場の棲み分けによって現在でも訓練できる。一方「移動鳩」は、一般にはあまり知られていない。これは、戦場において移動式の鳩舎を探し、そこへ鳩が帰ってくるもの。放鳩後に原隊が移動しても、訓練された軍用移動鳩は、移動先の鳩舎(車輌)へ帰巣することができた。移動鳩の実録や訓練法等は、古い書籍でのみ、かいま見ることができる。しかし現在では、その高度な技術やノウハウはほとんど失われてしまった。したがって、上記の説明文に矛盾しない。とはいえ、伝書鳩の底知れないポテンシャルを推し量ることができる歴史的事実である。伝書鳩の歴史は非常に古く、紀元前約5000年のシュメールの粘土板にも使用をうかがわせる記述があるという。確実な記録では、紀元前約3000年のエジプトで、漁船が漁況を知らせるために利用していたらしい。このころのエジプトでは、様々な鳥で通信することが試みられたが、人によく馴れて飼いやすく、飛翔能力、帰巣本能に優れるカワラバト(ドバト)が選ばれ、定着したようだ。ただ、この当時ハトは主に食用として飼育されており、伝書鳩としてはあまり広く使われていなかった。また、ギリシャのポリス間の通信に使われた。特に各ポリス代表が参加して行われた競技会の覇者は、鳩の足に赤いリボンを結び付け、故郷への勝利と栄誉の便りとした。ローマ帝国で通信手段として広く使われ、各地に広まった。ローマ帝国以降は主に軍事用の通信手段として広く使われ、産業革命期以降に最盛期を迎えた。第二次世界大戦時のイギリス軍は、約50万羽の軍用鳩を飼っていたという。第二次大戦中は伝書鳩が広く使われたため、ドイツ軍は対抗手段として、タカを使って伝書鳩を襲わせた。また、近代になって報道機関が発達すると、通信用に使われた。例えば、1850年のロイターの創業時は伝書鳩が主な通信手段だった。現場の写真(フィルム)の最速の通信手段が伝書鳩だった時代は1960年代後半に電送写真が発達・普及するまで続いた。現代ではレース鳩と呼称も変り、世界各地で行われる鳩レースいう形で愛好されている。日本には、カワラバトは飛鳥時代には渡来していた。なお、伝書鳩としては江戸時代に輸入されたことが記録として残っている。この伝書鳩は京阪神地方で商業用の連絡に使われた。1783年に大阪の相場師・相屋又八が投機目的で堂島の米相場の情報を伝えるために伝書鳩を使ったのを咎められ、幕府に処罰された。明治時代に入ると、軍事用として伝書鳩が本格的に様々な系統の品種が輸入され、飼育されていった。大正時代には、南部利淳伯爵がベルギー外遊中に日本公使館を通じて当時の優秀なレース鳩を直接導入された話は、つとに有名。南部系は現在もレースで活躍しつづけている。レース鳩は、このように長期にわたって優秀な血が脈々と受け継がれ、改良が続けられている。戦前に日本に導入された系統を鳩界では在来系と呼称するが、南部系は在来系の一つ。他に「今西系」「勢山系」「松風系」「ときわ系」「渡海系」「津軽系」「白雪系」「広島系」…等々、連綿と受け継がれ飛んでいる在来系は枚挙に暇がない。これを受けて昭和時代に入ると、民間でも報道用・趣味として飼育することが増えていった。東京有楽町に集まる新聞社本社には、各社とも屋上に鳩舎が設置された。第二次世界大戦中は、食糧難・軍用に献納されるなどで民間の飼育者は一時的に激減した。戦後になると飼鳩は若年層の間でブームとなった。1950年には日本鳩レース協会が設立されたのに続き、1954年には日本伝書鳩協会が創立された。岩田孝七・誠三兄弟(マドラス (企業)の経営者一族)は岩田輸入系を確立するなど、戦後日本の伝書鳩の系統の発展に大きな足跡を残した。中でも源鳩777号×619号は黄金のカップルと呼ばれ、現在でも銘鳩の誉れが高い。1964年の東京オリンピックの開会式での放鳩行事の影響もあり、1969年ピーク時の年間脚環登録羽数は400万羽弱に達した。その後、漫画『レース鳩0777』等の影響で一時的なブームがあったものの、漸減傾向にある。また、新型インフルエンザ発生地域のレース自粛といった新しい問題も起きており、日本の飼鳩環境はますます厳しくなっている。21世紀に入り、脚環に電子チップを内蔵して帰還を自動的に記録する自動入舎システムが普及したため、子供の頃にハトを飼っていた団塊の世代がリタイア後にレース鳩の飼育を再開し、鳩レースを楽しむことが小ブームになっている。また、2010年以降は情報IT関連の新しい試みとして、レース鳩にマイクロSD(合計2TB程度)等の超小型メモリーチップを運ばせたり(200km程度の短距離で所要時間約2時間)、GPSユニットやCCDカメラ等を取り付け、より詳細な生態や飛行コースを追跡する実験も行われている。1988年6月にフランスから英国へ向けて行われた国際伝書鳩レースは、たまたま強い磁気嵐が起きている日に行われてしまったので、放たれた5000羽の鳩のうち2日後のレース終了までにゴールに到着したのはわずか5%程度、ほぼ全滅という悲惨な結果が記録された。日本では、1970年代を境に鳩レースの平均帰還率は明らかな低下傾向をたどり、数千羽規模の登録レースでも最終レースを待たず全滅することが、各地で頻発している。イギリスでも、帰還率は5割を切っている。原因の探求がなされ、謎の一部が解明されつつある。主に猛禽類の大増殖説・携帯電話の電磁波影響説(1990年代後半からいわれるようになってきた)・育種上外来種偏重かつスピード重視の改良が横行した結果の3つが有力説である。
出典:wikipedia
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