近衛兵(このえへい)とは、君主を警衛する君主直属の軍人または軍団をいう。近衛府・御親兵・親衛隊・近衛師団・禁衛府・衛兵など、時代や国によってさまざまな名称がある。君主制が廃止された国でも、歴史的経緯などから近衛兵や親衛隊などの名称が存続した例がある。ただし日本語では、「近衛」とは主に世襲の元首を警衛するものを指し、世襲ではない元首を警衛するものには通常この語を充てない。本記事では、君主を警衛する近衛兵のほかにも、そこから派生した制度などについても紹介する。また過去においては兵権と警察権の区別が必ずしも明確でないことから、軍に属する兵卒以外についての記述も含まれる。元来、大王家と並ぶ氏族であった臣系豪族と違い、連系の豪族は古くより大王家に仕えてきた言わば譜代の氏族であって、大王家からの信頼も厚く、特に大伴氏や物部氏などは軍の中核であると同時に、近衛兵的な役割を担ってきたと考えられている。5世紀又は6世紀頃に舎人の制度が確立した。屯倉が集中し大君家の経済的・軍事的基盤となっていた東国の国造の子弟を中核として、大君家に従属する舎人は大伴氏・物部氏の軍よりも更に天皇親衛軍の側面が強かった。舎人は後に、身辺警護は中務省の内舎人(うどねり)に、直轄軍事力は兵衛府(つはものとねり)に引き継がれる。靭負は西国の国造の子弟を中核として、宮城門の守衛に当たる軍である。また、門部(かどべ)とは、宮城門を守衛する伴部のこと。宮城門にはその門の守衛を担う門部の名が冠せられてきたが、818年(弘仁9年)に殿門改号が行われて、唐風門号へ変更される。中務省に属する内舎人(うどねり)が、天皇の最側近で身辺警護にあたり、帯刀宿衛、供奉雑使、駕行時の護衛も行った。日本の律令制においては、5つの衛府(えふ)が設置されたが、後に整理・再編成が行われた。 職員は以下の通りを有した。(その後は兵部省に移管)職員は以下の通り職員は以下の通り令外官の三衛府は令制五衛府より官位が高かった。中衛府の職員は以下の通り(「近衛府」も参照のこと)職員は以下の通り(この他、儀礼進行役として人長や駕輿丁などがいる)職員は以下の通り以下は御所を警備したが、近衛兵とはいえない。1871年(明治4年)2月に出された御親兵召集の命令に応じて、薩摩藩、長州藩、土佐藩の三藩から差し出された6000人~10000人の兵によって、政府直轄の御親兵が置かれる。この兵力を背景に、廃藩置県が行われる。1871年9月3日には、「兵部大少輔御親兵少佐以上ヘ勅語」が下され励精尽力が命ぜられる。内舎人明治以降、陸軍に近衛師団、次いで宮内省に皇宮警察が創設されたが、天皇・皇族の身辺警護は宮内省侍従職に所属する内舎人が担当した。終戦後の1948年(昭和23年)、皇宮警察の侍衛官が天皇・皇族の身辺警護を担当することになり、警護担当の内舎人には皇宮護衛官としての身分が付与された。近衛・近衛師団1872年(明治5年)2月に近衛条例を制定して、天皇に直隷する近衛都督の下、壮兵からなる近衛兵を創設した。1873年1月に制定された徴兵令に基づく徴兵は鎮台にのみ配備されることとなり、近衛の壮兵制は維持された。1878年に近衛砲兵の一部が騒動を起こす(竹橋事件)。近衛都督は、初代が山縣有朋、2代が西郷隆盛であった。明治13年10月5日達乙第62号による改正後の「近衛条例」によると、近衛兵は、専ら輦下を護衛し、特旨によらない限り、他の徴発に応じるものではない。上旨を奉戴し、千軍万馬の中といえども、整々独歩の勇を持ち、平常にあっては信義を本とし、先進を敬い、後進を教導し、全国諸兵の模範となることが求められた。(近衛参照)その後、明治23年3月25日に近衛司令部条例(明治23年3月25日勅令第46号)が制定され、原則として、近衛都督の職務権限は師団長と同一となった。更に、1891年(明治24年)12月12日に近衛も師団制を採用して近衛師団となる。近衛師団に改編後の詳細は近衛師団参照。門部・皇宮警察竹橋事件により、近衛兵以外の宮城警備組織として宮内省に、古代の宮城門を守衛した伴部の称を復活し「門部」を設置した。明治19年、門部は皇宮警察に改編された。皇宮警察は主に宮殿屋内の警衛と防火・消防を担当した。大正時代には天皇及びその他の皇族の警護を強化するため、全国の警察から文武両道に秀でた警部や警部補を集め特別警衛掛が設置された。やがて特別警衛掛は、来日した国賓の身辺警護も担当するようになった。禁衛府1945年(昭和20年)、終戦に伴い近衛師団と皇宮警察を統合して、宮内省に禁衛府が発足。近衛師団は禁衛府皇宮衛士総隊に、皇宮警察は禁衛府皇宮警察部に改組される。1946年(昭和21年)に、GHQよりの命令で解体された。皇宮警察の警察への移管禁衛府は解体されたものの、禁衛府皇宮警察部のみは皇宮警察署として分離して存続する。1946年末には宮内省から内務省に移管され、1947年(昭和22年)には警視庁皇宮警察部として移管される。旧警察法の施行に伴い、1948年3月に国家地方警察本部に移管され皇宮警察府とされたが、6月には皇宮警察局と再び改称される。1954年(昭和29年)に現在の警察法が施行されるに伴い、警察庁の附属機関となり、警察庁皇宮警察本部と改称される。英名は近衛兵を意味する「"Imperial Guard"」である。皇宮警察の紋章は五三の桐である。皇宮護衛官の制服は、一般の警察官と同様のものを着用する(皇宮護衛官の服制に関する規則(昭和31年12月19日国家公安委員会規則第5号))。もっとも、制服の上衣、活動服及び防寒服の両襟部に皇宮護衛官章(金色で五三の桐の紋が描かれた金縁付き赤紫色の丸バッジ)を着用する。また、それ以外に、宮殿で儀式が行われる場合等には特別の「儀礼服」を着用する。隋朝では禁軍(近衛軍)として、十二衛が置かれた。2代皇帝・煬帝は宇文化及らが率いる禁軍によって殺害された。唐朝では禁軍(近衛軍)として、皇帝を護衛する北衙禁軍(左右羽林軍・左右龍武軍・左右神武軍・左右神策軍)と首都を警備する十二衛が置かれた。この他に皇太子を護衛する六率府もあった。明朝では、首都に駐屯する京軍のうち上十二衛を侍衛親軍(近衛軍)とした。永楽帝は禁軍を増強し、侍衛親軍は12衛から22衛に増強したほか、投降したタタール人を基盤に編成した騎兵部隊である三千営や火器を運用する部隊である神機営を設置した。清朝では、領侍衛府が紫禁城の警備を担任した。そのほか、北京八旗が警備に当たった。李氏朝鮮時代に禁軍(近衛軍)として禁衛営、御営庁、訓錬都監が設置され、王宮の警備のため内禁衛や武芸庁が置かれた。 孝宗の代に内禁衛は他の王宮警備組織と統合されて内三庁となり、その後、紆余曲折を経て龍虎営となった。武芸庁は李氏朝鮮末期に武衛所に統合された。 李氏朝鮮末期に、禁軍は大幅に再編され、武衛所、訓錬都監、扈衛庁が統合され武衛営に、禁衛営、総衛営、御営庁、龍虎営を再編して親軍3営となった。李氏朝鮮時代に行われていた王宮守門軍の交代の儀式を再現したという王宮守門将交代儀式が、観光スポットとなっている。1907年(隆熙元年)軍隊解散にともない近衛歩兵隊及び近衛騎兵隊が置かれる。1909年7月30日に宮中に親衛府が設置される。近衛歩兵隊及び近衛騎兵隊は、日韓併合後も存続して朝鮮歩兵隊・朝鮮騎兵隊として1930年(昭和5年)まで韓国近衛兵の栄誉を守る。日韓併合後、旧大韓帝国軍人でなお在職中の者は、「朝鮮軍人ニ関スル件」(明治44年勅令第36号)の定めるところにより、同階級の陸軍軍人に相当するものとされ、一般の朝鮮軍人は、朝鮮駐箚軍司令部附又は朝鮮駐箚憲兵隊司令部附とされた。ところが、先に設けられていた韓国近衛歩兵隊及び近衛騎兵隊は、朝鮮駐箚軍司令部附又は朝鮮駐箚憲兵隊司令部附とされるのではなく、朝鮮歩兵隊・朝鮮騎兵隊と改称されたのみで、そのまま李王家と昌徳宮警護のために存続されることになった。これらの部隊は、「近衛」の語こそ使わないものの、朝鮮人によって構成されるもので、李王家の事実上の近衛兵である。但し、儀礼的な役割を担うものに過ぎないことや、同様の任務は一般の陸海軍及び朝鮮総督府警察によって充分に担えることから財政負担の軽減のため、1913年(大正2年)3月に朝鮮騎兵隊が廃止され、また朝鮮歩兵隊の規模を2個中隊324名の定員とされた。1929年(昭和4年)に朝鮮歩兵隊を202名の定員とする。1930年(昭和5年)には朝鮮歩兵隊も廃止された。イギリスでは現在でも、バッキンガム宮殿やウィンザー城等において英国陸軍の近衛兵が衛兵勤務に就いている。衛兵は直立不動の姿勢で警衛を行い、衛兵交代式は観光名所の一つである。歩兵部隊の正装は赤い上着に熊の毛皮の帽子()で有名であり、連隊によって制服のボタンの配列と帽子の飾りに差異がある。騎兵部隊はジャケットの色が連隊により異なる。またこれらイギリス陸軍所属の近衛連隊の他に、儀式の際に国王・女王の護衛を務めると呼ばれる部隊が存在する。ローマ教皇庁にはスイス衛兵が置かれている。スイス衛兵は、ローマ教皇ユリウス2世によって、1506年に創設される。1527年のローマ略奪に際して、スイス衛兵が自らを犠牲にして、教皇クレメンス7世を守護したことから、爾来ローマ教皇庁の衛兵はスイス人に限られることとなる。スイス傭兵#バチカンのスイス衛兵隊参照。フランス革命後の混乱を収拾して皇帝となったナポレオンは、自身の執政親衛隊をさらに強化拡大して、皇帝近衛隊()を編成する。皇帝近衛隊の中でも、最精強の歩兵部隊として第1近衛擲弾兵連隊・第1近衛猟歩兵連隊、近衛擲弾騎兵連隊、近衛猟騎兵連隊などが編成された。また、特にナポレオンに忠誠を誓う古参兵によって編成された部隊は古参近衛隊()と呼ばれた。これらは部隊名誉称号であり、精鋭部隊の証である。一方で、実際に、宮廷の警備のみならず、戦場で活動する皇帝の警衛も、皇帝近衛隊の一部所、近衛猟騎兵連隊やエリート憲兵騎兵が担当した。現在でも、国家憲兵隊(、ジャンダルムリー)によって、共和国親衛隊(、ギャルド・レピュブリケーヌ)が編成されている。共和国親衛隊第1連隊は大統領の警護を、共和国親衛隊第2連隊は国会議事堂や政府高官等の警備・警護に当たる。スウェーデン王国においても近衛兵が王宮を警護している。その創始は、スウェーデンが独立した16世紀に起源を持つ。かつてはスウェーデン君主の近衛としてのスウェーデン軍戦闘部隊の一つだった。18世紀のスウェーデン王グスタフ3世は、近衛連隊を用いクーデターを起こしている(1772年)。現在のスウェーデンの近衛兵は、一般的な近衛連隊と、主に王室と宮殿を警護する近衛兵がある。ロシア連邦では、ソビエト連邦時代から、戦時に卓越した戦果を上げた部隊、平時の演習・訓練時に優れた成績を収めた部隊(艦艇)に対して、親衛()の称号が授与されている。ただし、これは部隊名誉称号でしかなく、制度上のいかなる優遇措置もないが、親衛部隊(艦艇)配属の将校の階級呼称には、「親衛」()の文字が付く(例えば、親衛少佐()等)。ソ連崩壊後に行われた軍縮では、新参の部隊が廃止され、輝かしい戦歴を有する部隊が残される傾向が強く、必然的に現在のロシア連邦軍では、「親衛」部隊の割合が大きくなっている。クレムリンの警備は、ロシア連邦警護庁の大統領連隊(旧クレムリン連隊)が担当している。下記には、国家を代表して儀仗を担う部隊と又はそれに加えて元首等の警護を平時の任務とする部隊とが含まれている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。