T-33A入間川墜落事故(T-33Aいるまがわついらくじこ)は、1999年(平成11年)11月22日に起きた航空機墜落事故。航空自衛隊のベテランパイロット2名がT-33Aによる年次飛行(デスクワークパイロットなどが年間に定められた飛行時間を確保し技量を維持するための訓練)からの入間基地への帰投中にエンジントラブルが発生した。墜落の直前まで2名は基地手前にある入間川沿いの住宅地や学校を避けるために操縦を続けた結果、脱出が遅れ共に殉職した。民間人の死傷者が全く出なかった一方、墜落直前に送電線を切断したため首都圏の大規模停電を惹起したうえ、T-33Aを「練習機」として報道されたため経験の浅い訓練生の技量不足により事故が生じたとの誤解も広まり(実際には航空学生の中等訓練はT-4の使用に切り替わっている)、当初一部から批判が出た。しかし、実際には技量に優れたベテランパイロットが服務の宣誓通り「危険を顧みず」に被害の極限に努めたことが次第に明らかになり、反響が広がった。事故の経過は次の通り。Faust38は事故機のコールサイン。2000年(平成12年)4月に防衛庁は航空事故調査委員会による事故調査結果の概要を公表し、事故原因を燃料ホース又はフィッティングの一部から漏洩した燃料が発火しユニットが溶損しエンジンへの燃料供給が絶たれたことによる推力低下とした。事故調査では燃焼による器材の著しい破損により燃料の漏洩原因及び発火源については特定に至らなかったが、発火源として電気配線の漏電又はコネクターの短絡の可能性を指摘している。自衛隊における教育内容・事故の目撃証言などから、中川二佐および門屋三佐は、近隣住民への被害を避けるべく限界まで脱出しなかったことが確実視されている。航空事故調査委員会も以下の点から、事故機操縦者は脱出によってコントロールを失った航空機が民家等に被害を与える可能性の局限を図ろうとしたと推定している。なお、T-33Aの射出座席は高度0速度0の状態からでもパラシュートが十分開くいわゆる「ゼロ・ゼロ射出」の能力はないものの、1回目のベイルアウト通報が出された13時42分14秒時点ではパイロットの生還は可能であったといわれる。このとき飛行していたのは狭山市の柏原ニュータウン及び西武学園文理中学校・高等学校付近の上空であった。また、両パイロットは必要な高度および速度の余裕を失いかつ適切な脱出姿勢がとれないまま射出され、そのまま命を落としたが、この脱出は自己の生命を守るためでなく、射出座席を担当した整備士が責任を感じないようにした配慮ではないかという意見もある。T-33シリーズは、世界30か国以上で採用され多くの軍用機パイロットを輩出した練習機のベストセラーであるが、初飛行は第二次世界大戦直後の1948年であり、搭載しているのはアナログ計器だけのコックピットと旧式化していたエンジンであった。そのためパイロットにとってはグラスコクピットが導入されたT-4や主力戦闘機よりも操縦が難しかったといわれる。特に着陸では安全に接地可能な速度域が95~100ktと極めて狭いため、高い技量を求められる。また、脚下げ時に機体が左に滑る特性があるといわれ、脚下げ後の降着装置による空気抵抗に加えてそのような機体特性が墜落直前の操縦を一層困難にしていた可能性がある。墜落した機体(機体番号:51-5648、製造番号:580-9186)は航空自衛隊が発足した1954年(昭和29年)にロッキードで生産され、同年に米軍から無償供与を受けたものであり、航空自衛隊が保有する中でも特に古いものであった。一時、余剰機として岐阜基地の第2補給処でモスボール保管されていたが、後に配備されたライセンス生産機の退役に伴い再度整備のうえ復帰し、年次飛行や連絡任務等に使用されていた。当機の耐用命数は1,068時間残っており、2002年まで運用して耐用命数を使いきって退役を迎える予定であった。なお、当時航空自衛隊が運用していた同型機(当機含めて9機)はいずれも米軍から1954年から1955年にかけて無償供与されたものであり、古い機体のほうがモスボール保管により損耗が抑えられ最後まで残るという逆転現象が起きていた。T-33Aは機体が丈夫で運用期間が長かったこともあり、航空自衛隊が保有した全278機のうち、59機が事故による喪失で除籍されている。事故翌日の11月23日に、残存している全T-33A及び入間基地の緊急用を除く全機の飛行停止命令処分が課される。11月29日に入間基地の航空機飛行停止命令は解除されたがT-33Aの飛行停止命令は継続され、そのまま翌年2000年(平成12年)6月に全機除籍された。殉職した2名とも1999年11月24日付で1階級特別昇任した。入間基地近隣にある狭山ヶ丘高等学校校長の小川義男が、1999年12月1日付の学校通信「藤棚」に本件に関して「人間を矮小化してはならぬ」と題する文章を掲載。2000年(平成12年)年4月13日の衆議院安全保障委員会で、自由党の西村眞悟が上記文章を引用。同じ委員会で日本共産党の佐々木陸海が事故の原因究明と周辺自治体への説明が終了するまで、全ての訓練を中止すべきと主張したのに対し、防衛庁長官瓦力は「周辺の自治体の首長にも(中略)パイロット二名も、人家を避け、都民並びに埼玉県民の多くに停電等の御迷惑をおかけいたしましたが、命を捨てて、いわゆるそれらの事故を避けたわけでございまして、これらの事情も御勘案をいただきたいと思います」と発言している。同年に社会貢献支援財団が両パイロットを表彰。2001年3月18日の防衛大学校卒業式で、富士通名誉会長の山本卓眞が来賓祝辞で本件に触れ、自衛隊の活動の成果が国民の理解と支持をもたらしていることを述べた。最終的に、乗員および整備員に過失はなかったとして、2002年(平成14年)9月に埼玉県警および狭山署は被疑者不詳のまま航空危険容疑で書類送検した。この時点までに、両パイロットともさらに1階級特進し、それぞれ空将補・一等空佐となっている。2014年3月22日の防衛大学校卒業式で、安倍首相が訓示の中で本件での両パイロットの行動に触れ、自衛隊員としての使命感と責任感について説いた。
出典:wikipedia
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