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鮎川信夫

鮎川 信夫(あゆかわ のぶお、本名・上村隆一(うえむらりゅういち)、1920年(大正9年)8月23日 - 1986年(昭和61年)10月17日)は日本の詩人、評論家、翻訳家。戦後の詩壇で一貫して重要人物とされる。別名・二宮佳景(にのみやよしかげ)。大正9年に東京小石川の高田豊川町に生まれる。父・上村藤若(「帝国文化協会」主催の出版者・文筆家)は農本主義的なナショナリストで、世間的には温厚な人格者でありながら、家庭内ではすこぶる冷淡な人間であったため、鮎川にとってのモダニズムは〈父親イメージへの反逆から始まった〉と後に語っている。母の幸子は幕末の大野藩の蘭学医・土田龍湾の孫。16歳で詩作を始める。筆名「鮎川信夫」は雑誌『若草』への投稿作「寒帯」(1937年)で名乗り、佳作掲載されて以来用いたが、初期には様々な筆名を用いた。1937年(昭和12年)秋に神戸で中桐雅夫が刊行していた同人誌『LUNA』に加入(筆名・伊原隆夫)。その後、詩誌『LE BAL』へ投稿。一方、1938年11月には森川義信らと第一次『荒地』を企画し、翌年3月から2年間に6冊を刊行する(後の鮎川の代表作のひとつである「死んだ男」の詩中に登場する「M」とは森川を指し、戦争で死んでいた者たちの「遺言執行人」としての立場を生涯貫く)。1942年(昭和17年)早稲田大学文学部英文科3年次在学中、卒論『T・S・エリオット』を提出。これは審査に当たった教授が舌を巻くほど優れた出来だったというが、軍事教練の出席時間不足で卒業を認められずに早稲田大学中退。同年10月に青山の近衛歩兵第4連隊に入隊。1943年3月、三好豊一郎編集の詩誌『故園』へ遺書のつもりで「橋上の人」を書き残す。同年5月、スマトラ島に出征したが、マラリアや結核を発症し、1944年5月に傷病者として帰還。1945年2月、福井県の傷痍軍人療養所で午後9時の消灯後、家族への手紙を書くふりをしながら、わずかな電灯の明かりをたよりに「戦中日記」を書く。同年4月に外泊先の岐阜県より退所願いを出す。8月、福井県大野郡石徹白村で終戦を迎える。1947年(昭和22年)田村隆一らと詩誌『荒地』を主催し、「死んだ男」「繋船ホテルの朝の歌」「アメリカ」「姉さんごめんよ」などの代表作品と共に「Xへの献辞」「現代詩とは何か」などの詩論を発表。その終刊まで見守る。1951年(昭和26年)頃には、それまで持ち歩いていた未発表作の大方を焼却。多くの詩人と対談を行い、鮎川への詩評や言及は数多い。他にエラリー・クイーン、コナン・ドイルなどの推理小説やウィリアム・S・バロウズの翻訳を手掛け、時に二宮佳景の筆名を用いた。また、晩年は詩作よりも批評に重きを置き、その評価も高い。弟子には牟礼慶子などがいる。二人目の妻は年上の英文学者・最所フミ。しかしこの結婚の事実については親戚知人にも明かさなかったため、友人たちは独身だと信じており、鮎川の葬儀の際に最所が名乗り出て、みな驚いたという(宮田昇『戦後翻訳風雲録』)。なお、それ以前に、荒地派の詩人・佐藤木実と、籍は入れなかったが内縁の夫婦であった。上記の例に見られるように、鮎川は私生活に関して完全な秘密主義を貫いており、連絡先は母の家、晩年は甥の家にする徹底ぶりだった。1986年10月17日、甥の上村佑の家に郵便物を受け取りに行き、甥の家族とスーパーマリオブラザーズに興じている最中に脳出血で倒れ、搬送先の病院で死去。。

出典:wikipedia

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