京阪60型電車(けいはん60がたでんしゃ)は、1934年(昭和9年)に京阪電気鉄道が製造した電車の一形式である。日本で初めて連接構造を採用し、また1930年代の世界的な流線型ブームに乗っていち早く流線型車体を用いたことで、日本の鉄道史に足跡を残した電車である。使用された列車の名前および車体側面に貼付された愛称銘板にちなみ、「びわこ号」の名でも呼ばれる。現在の京阪京津線・石山坂本線は、前者が京津電気軌道、後者が大津電車軌道および琵琶湖鉄道汽船が建設したものを、京阪が大正時代から昭和時代初期にかけて買収して成立したものである。琵琶湖鉄道汽船の下で高速電気鉄道として建設された石山坂本線の三井寺-坂本を除くと、両線は完全な路面電車規格であり、しかも、京津線については蹴上-九条山には国鉄最急勾配の信越本線碓氷峠に匹敵する66.7‰の急勾配が存在した。加えて、建築限界は明治期の開業以来変更されておらず、小車体断面のままであった。このように、既に本格的な高速電気鉄道への脱皮を遂げた京阪本線とは、全く異質な路線群であった。当時の京阪と京津の両路線は直流600V電化、1435mm標準軌という基本規格こそ共通していたものの、実際には直通運転は容易でなかった。一方、京阪本線の五条以北は、京都市が市電建設を企図して特許を取得した区間を20年契約で、それも琵琶湖連絡を目的として京津電軌との連絡を円滑に行うことを条件に借り受けて開業したという経緯があった。1920年代初頭に京津側から持ちかけられた合併要望の受け入れは、京阪にとっても三条を京都側ターミナルとして維持し続ける重要な補強材料となる筈であった。ところが、ここに鉄道事業も兼営している有力な電力会社の京都電灯が関わってきた。京津電軌は軌道事業だけでなく沿線での電力事業も併せて経営しており、京都電灯は自社のサービスエリアに隣接する京津の電力事業の獲得を画策したのである。また当時、京都電灯は傘下の叡山線(現・叡山電鉄)について出町柳-三条大橋延長線を計画しており、これと京津線の直通、ひいては京都電灯との合併を主張する一派が京津電軌社内にも存在した。この結果、京阪・京津両社の合併成立に当たっては、京阪と京都電灯との間で京津の争奪戦が生じたが、最終的には電力事業を京都電灯が、軌道事業を京阪がそれぞれ分割継承することで決着が付けられた。この後、京都電灯による鞍馬電鉄の創設に当たって京阪が出資するなど、京阪と京都電灯の間には提携関係が成立し、この一件は叡山電鉄を後年になって京阪が配下に置くに至る遠因ともなった。当時は電力会社が戦時統制によってブロック化・専業化される以前であり、電鉄会社の電力事業経営、電力会社の電鉄事業経営が珍しくなかった時代故の逸話と言える。「琵琶湖連絡」・「阪津間直通」というキーワードは、このときの京阪の軌道事業取得に際しても大きな説得力を持った。このため、京津との合併が成立した1925年以降、京阪・京津線の直通運転は京阪にとっての重要な責務という意味合いを持つに至った。京阪と京都市の間の三条-五条間借り入れ契約は1934年に失効するため、京阪はそれまでに契約を更新する必要があった。ところがこの際、京都市議会の一部議員から「京阪電鉄は京阪間連絡に限定すれば必ずしも三条にターミナルを置く必要性はない」・「五条以北は京都市電に置き換えて市内交通の一元運営を図るべきである」という趣旨で、契約更新に反対する意見が主張されるようになった。このような事情もあって、京阪線の路線維持の観点からも、大阪から京阪本線と京津線を直通運転する琵琶湖連絡列車の運行は急務となった。かように複雑かつ政治的な背景の下で計画・製造されたのが、60型電車であった。1934年に、日本車輌製造本店工場(名古屋市熱田)で61 - 63の3編成が製造された。2車体3台車の固定編成で、日本で初めて連接構造を採用した。急曲線の通過と輸送力確保の両立を図ったものである。2車体固定編成で番号は編成単位で与えられており、車体毎の番号区分は特に存在しなかった。1928年頃、当時京阪電鉄車両課長であった佐藤一男は欧米を視察旅行した。彼はアメリカの大手車両・台車メーカーであるブリル社(J.G.Brill & Company)見学に際して、同社が1926年に製作し1927年にへ10組納入した20形連接車の情報を得、私費で滞在を延長して同車の調査を実施した。全鋼製リベット組立車体で全長97フィート4インチ(約29.7m)、自重116.770ポンド(約53t)、そしてポール集電のこの2車体連接車は、メーカーカタログにおいて「Brill High-speed Articulated Cars(ブリル高速連接車)」と謳われたハイスピードインタアーバン向け高床車であるが、通常型の高床扉と、路面からの乗降用としてステップ付の低床扉の2組を併設していた。なお、同様の設備を有する車輌として有名なエレクトロライナーは京阪60型より7年遅い1941年の製造である。京阪60型の基本デザインコンセプトはこのブリル社製連接車に多くを負い、寸法や重量を京津線の条件に適合させる形で設計されている。こうして、運転台寄りの高床扉(京阪線用)と、連接部寄りのステップ付低床扉(京津線用)で高低2組の乗降扉を設ける、独特の扉配置が決定された。ところが、計画が進められつつあった1929年、同年10月に起きた、ウォール街株価大暴落をきっかけとする世界恐慌によって、京阪の財政状況は急激に悪化した。当時京阪は太田光凞社長の下、新京阪鉄道の創設による淀川西岸経由による第2の京阪間高速電気鉄道建設、自社京阪線の大阪方複々線建設、阪和電気鉄道への出資、信貴生駒電気鉄道への出資、名古屋急行電鉄計画など、と第一次世界大戦に伴う好況を背景として、近畿一円で大規模な電力・電鉄事業にかかる大型設備投資や関連各社への出資を多数実施しており、この世界大恐慌によって被った損失は甚大であった。このため、恐慌後は人員整理を含む極端な財政緊縮策が採られるようになり、この種の新規設備投資を伴う計画の実現が困難となった。その結果、施設の改良に手間取って京阪・京津線直通車の製造計画は大幅に遅れ、1932年になってようやく本形式が日本車輌製造へ正式に発注された。だが、この計画遅延は本形式に一つの幸運をもたらした。技術の進歩に応じて設計の全面的な見直しが図られ、当時日本車輌が気動車の分野においていち早く手がけていた軽量構造車体を採用することで大幅な軽量化に成功した。まだ溶接技術も発達途上にあったこの時代に、車体長が約1.5倍のワシントン・ボルチモア・アンド・アナポリス電鉄20形と比較して、約半分に当たる26t強にまで自重を削減したことは特筆に値する。前述の通り、日本車輌製造本店による、気動車用車体の構造を取り入れた軽量構造半鋼製車体を備える。車体前面は、当時欧米で流行しつつあった流線型を取り入れたスタイルに改められたが、これは1935年竣工の国鉄52系電車に先駆けた日本の電車でも最初の例で、日本車輌技術陣による意欲的な試みであった。前面に緩い曲線を与えつつ僅かに後傾させ、屋根布は前面窓直上まで車体全幅に渡って垂下させた。ヘッドライトは通常品の上部にポール降下時の破損を防ぐガードが付いたものを屋根前面中央部を切り欠いて半埋め込みとする、独特の形態になっており、流線型を採用した車両にありがちな実用性の欠如とは無縁の、独創的かつ合理的なデザインであった。2車体共に片隅式運転台を備えており、乗務員扉は設けられていない。このため、窓配置はいずれの車体も運転台寄りから(1)D3D(1)3(D:客用扉、(1):戸袋窓)とされ、運転台の向きを揃えた場合の前後2車体の車内レイアウトは同一である。車体幅が京津線の車両限界にかかる制約から2,200mmに抑えられたため、座席はクロスシートの採用が断念され、奥行405mmの浅いロングシートで妥協されている。また、通常の幌では逢坂山付近の急曲線区間に対応できなかったため、中間台車と回転軸を同じくする円筒状の特殊な構造の金属製貫通路を装備しており、ここも前例のないデザインとなっている。なお、本形式で採用された流線型の前頭形状は、その実用性の高さと形状の斬新さからメーカーである日本車輌製造の代表作の一つとなり、以後数年間、浜大津で京津線と連絡する江若鉄道に導入されたC9形をはじめとして、同社が各地の地方鉄道に供給した気動車にアレンジされた形で多用された。また日車と同仕様で江若向け気動車を製作した川崎車両(現・川崎重工業)にも影響を与え、西大寺鉄道キハ7にその意匠が流用されるなど、このデザイン様式は燃料統制に伴う事実上の気動車増備禁止期まで類例が多数見られた。それ故、屋根布を前面で垂下させるデザイン処理を用いたこのスタイルについては、始祖となった本形式の愛称から「びわこ形」という呼び方がベテランの鉄道ファンの間で通用するほどである。非常に特徴的であった車体デザインとは対照的に、本形式の走行機器は至ってオーソドックスな設計となっており、多少のモデファイはあったものの、京阪線の在来車と同様の機器が採用されている。もっとも、軽量車体に比しても非常な重装備となり、平軸受の台車3台を備える連接車ということで走行抵抗も大きかったため、500型以降の京阪本線主力車群に互して本線で特急運転を行うには出力不足であった。主電動機は東洋電機製造TDK-517-SA1を両端の台車に2基ずつ吊り掛け式で装架する。歯数比は66:23=2.87である。制御器は東洋電機製造ES-517-SB電動カム軸制御器を搭載する。これも京阪線で初代1500型(後の500型)以来標準的に採用されていたES-517系のバリエーションモデルである。ただし、高速鉄道路線と急勾配の軌道線それぞれで求められる異なった走行特性の両立を目的として、様々な改良が実施されており、京阪線で優等列車としての高速運転を実現するため、京阪では子会社である新京阪鉄道のP-6形で初採用された弱め界磁が追加されている。また京津線内での連続急勾配における発電ブレーキ常用対策として、大容量の抵抗器が限られた艤装スペースに可能な限り搭載されている。台車は日本車輌製造製の帯鋼リベット組立イコライザー台車であるD-12を装着する。これも設計当時の京阪線1580型(後の初代700型)で採用された日本車輌製造NS84-35と同系の設計であるが、併用軌道で運転されることから端梁部分に排障器の装着が必要となり、このためこの部分の構造が相違する。集電装置についても、京阪本線と京津線の架線構造の違いから2種併設で、特異な外観を呈した。京阪本線用としては、既に同線がパンタグラフ化(1932年)されていたため東洋電機製の菱形パンタグラフを搭載、また軌道線の京津線・石山坂本線は埋設水道管等の腐食防止を目的として当時の軌道線にしばしば見受けられた複線式架線であったことから、これに対応したダブルポールを各車体の屋上運転台寄りに搭載した。このため前面窓下には2個のレトリーバーが装備されている。連結器は並形自動連結器が装備され、牽引回送用にブレーキ用エアホースが用意されていたが、他車との併結による総括制御運転を考慮せず、ジャンパ栓は設置されていない。1934年4月に、予定通り60型を使用して(大阪)天満橋-三条-三条大橋-浜大津間で特急「びわこ号」の運転が開始された。途中停車駅は、転線や集電装置の切り替え等の必要から停車が不可避である三条大橋(京津線)のみであった。事実上のノンストップ運転で、さらにのちには三条大橋のみ停車に変更されている。つまり「びわこ号」は純然たる大阪-浜大津直結列車として運行されたのである。停車駅を最小限に留めた背景には、軽量化に努めたとは言え、特殊装備満載で総重量のかさんだ60型の場合、ノンストップ運転でなければ速力を確保できなかったという苦しい事情があった。当初全区間所要は72分に設定されたが、運行開始してみると高速性能の不足を露呈してダイヤ維持に困難を来たし、後発の京阪本線急行に追い着かれかけたという証言すらある。このため、のち所要77分へとスピードダウンされた。当時利用した乗客によれば、乗り心地はあまり良くなかったという。「びわこ号」は定期列車1往復に加えて不定期列車2往復を加えた最大3往復が設定された。もっとも3往復運転は60型全車の稼動が必要であり、繁忙期以外は定期検査もあるため最大2往復が限度であった。冬は太湖汽船のスキー船に連絡する「スキー列車」として、またそれ以外のシーズンは同じく太湖汽船の竹生島航路に連絡する観光列車として運転されたという。しかし太平洋戦争開戦で、この種の観光列車は不要不急の存在とされて廃止された。1944年には戦時体制下の資材・人員不足で故障した機器修繕に困難を来たし、61・62が長期休車する事態に追い込まれた。60形は、所属車庫が京阪本線の守口車庫であったことから、残された可動編成である63が、終戦頃まで主に京阪本線天満橋-守口間の区間運転を中心に運用されていた。年表戦後になると京阪本線では乗客増に伴って編成両数延伸が図られ、60型のサイズでは収容力不足となった。それでも京津・石山坂本線用としては収容力が一般車より大きくなおかつスピードも出たことから、60型は1946年の63以降、1948年までに全編成が順次京津線四宮車庫へ転出した。この間、京津線の架線がシングル化され、2対あったポールのうち1対を取り外している。1949年8月7日深夜、京津線四宮車庫で火災が発生し、入庫車26両中22両が全焼した。これにより最終的に17両が修理不能で廃車解体されるという大被害が生じ、京阪本線や(当時同一会社であった)阪急系の車両が大挙転用されて京津線の車両構成を一変させた椿事であったが、60型は幸運にも全車被災を免れている。62は団体客輸送のため深草車庫に入庫していて難を逃れ、四宮車庫に入庫中だった61・63は、避難に有利な停車位置から職員の機転と近隣住民の協力によって脱出に成功したのであった。本形式はその後も京津線を中心に運用され、前期は速力を活かして急行運転に、後期は四宮車庫火災で希少化した低床扉付き、しかも京津線では大型な連接車という特長を生かして京阪三条 - 四宮・浜大津間の各停運用に重用され、本線所属時代には入線実績がほぼ皆無であった石山坂本線へも頻繁に入線するようになった。また、京阪本線への直通運転も、初詣、初午、あるいは「ひらかたパーク」で開催される「ひらかた大菊人形」展への観覧列車などといった臨時列車扱いで実施されていた。しかし京津線規格の小さな車体に加え、戦後京阪本線に導入された1700系以降の新型特急車群と比較すれば、発展的ではあるが、低性能の部類となった本形式は、臨時ダイヤであっても京阪本線での運行が次第に困難となり、直通運転は1961年(昭和36年)11月23日の浜大津-枚方公園間の「菊号」を最後に運用停止された。その後も片町駅で搬入された80型の引取りのため回送運用が行われた。三条の連絡線も大津線の新車搬入などに利用されたが、最終的には1969年11月に撤去されている。京津線への自動列車停止装置(ATS)導入に伴い,老朽化の進んだ60型はATS取付け対象から外れることとなり、三条 - 四宮・浜大津間の各停運用専用車として新造された80型に代替される形で、1970年までに順次廃車となった。最後まで残ったのは63で、最晩年は当時の関西の鉄道各社でよく見られた、EXPO'70のステッカーを扉部に貼付した姿で運行され、廃車直前にはさよなら運転が実施された。60型は、京阪本線の主力車であった1000系(2代)に先行して登場し、その搭載機器の先行試作的な役割を果たした存在でもあった。従って機器類の互換性が高かったことから、電装品及び台車は廃車に伴い、主に2代目1000系を種車として京阪本線向けに製造が進められていた700系車体更新車(2代目)に転用された。連接車故に3編成で台車が9台発生するため、電動車3両と付随車1両の計4両に更新されることになった。このとき流用されたD-12台車には、枕バネのコイルバネ化やオイルダンパの追加といった、主として乗り心地改善を目的とする改造が施されている。700系更新改造に際して余剰となった中間台車1台と、最後まで残っていた63の車体は、錦織車庫の片隅に長期にわたって保管されていた。700系は、架線電圧1500V昇圧に備え、1977年から翌1978年にかけて車体のみを流用した機器新造で1000系(3代目)に更新された。この際に不要となった60型由来の機器や台車は抽出されて大切に保管されており、1980年に京阪電鉄創業70周年事業の一環として、これらを使用して63を新造時の姿へ復元する工事が実施された。ただし、この時は700系への改造時にコイルバネ化されていた両端のD-12(NSD-12)台車の枕バネや排障器まわりは復元されず、廃車時に1基余って車体ともども保管されていた中間台車だけが原型通りで、ちぐはぐであった。またポールはシングルのまま、前面で特徴的だった通風器は復元されず最終期のまま、と、全般にいささか考証を欠いた姿での展示となった。ポールについては、公開開始後しばらくして、京福電鉄から寄贈されたポール2基とそのトロリーレトリーバーを用いて復元された。このため復元された63のポールは2本ずつ異なった形状となっている。以後長らく、京阪の歴史的車両として「ひらかたパーク」に静態保存されていたが、1995年から1996年にかけて実施された同園リニューアルに際し、補修を兼ねた再修復工事が実施され、D-12台車の枕バネ回りなど、前回手が付けられなかった部分について形状のみながらもかなり正確な復元工事が実施された。その後、「ひらかたパーク」の再度のリニューアルで保存スペースがなくなったため、現在では寝屋川車庫(萱島駅近く)へ移され、屋内保存されて「鉄道の日」などのイベント時などに公開されている。年表長年静態保存されてきた63であるが、2010年(平成22年)3月25日に、京阪と沿線自治体である寝屋川市が主体となり「『びわこ号』復活プロジェクト」と銘打って、同車を動態に復元することが報道および公式発表された。車庫内において自力走行を実施することを第一段階とし、最終的には京阪本線においてイベント列車等として走行させることを目指すとされた。必要となる資金については募金で集める予定とし、発表当時、プロジェクト実施についての枠組みおよび復元に際しての課題洗い出しなどについては、2011年3月を目途として明らかにするとしていた。その後、2011年9月に寝屋川市と京阪は復活プロジェクトが本格的に始動したことを発表した。それによると、総工費の概算は8000万円を見込み、「寝屋川市びわこ号復活基金」を創設するとともにふるさと納税等による寄附を募って資金を集めた上、平成26年度(2014年)の寝屋川車両基地内の走行を目指すとしていた。2012年10月から2013年3月まで、2200系の1編成を、本形式の復活プロジェクトへの協力の一環として「ギャラリートレイン」(写真やイラストなどを車内に掲示)として運行した。車内にはほかに「応援ポスター」として、橋爪紳也・中川礼二(中川家)・向谷実・斉藤雪乃によるメッセージも掲示されていた。2014年9月、京阪と寝屋川市は同年11月9日に60型電車を寝屋川車庫構内で構内入替車(旧京阪70型電車)の牽引により走行させることを発表した。走行の際には公募の客(応募者多数の場合は抽選)を乗せるとされた。京阪からのプレスリリースによるとこのイベントが復活プロジェクトの「フィナーレ」とされている。修復資金の寄付は2014年7月に目標としていた2500万円に到達し、2014年9月末で受付を終了した。2014年11月9日、告知の通り、事前の応募者から抽選で選ばれた招待客を乗せ、寝屋川車庫構内を旧70型に牽引・推進される形で走行した。第二次世界大戦後、京阪では琵琶湖周辺の開発に乗り出した西武グループへの対抗・自社営業圏の防衛策として1961年に浜大津で京津線と接続する江若鉄道の株式を取得、1963年の淀屋橋延長線の開業を見据えて淀屋橋から三条・浜大津経由で江若鉄道の終点、近江今津までの約112kmを走破する直通列車の運転計画に乗りだした。道路交通がまだ十分に発達していなかった1960年代初頭の段階では、夏は水泳場、冬はスキー場と季節を選ばず行楽客を期待できる湖西地区への直通運転には大きな需要が見込まれたのである。だが、計画当時の京阪は直流600V電化・軌間1,435mm、江若鉄道は非電化・軌間1,067mmと規格が全く異なっていた。そのため、動力方式の相違については江若鉄道および南海電鉄天下茶屋工場の協力を得てディーゼルカーとすることとされたが、軌間の相違の問題は解決が難しく、浜大津 - 膳所間で実績のあった3線軌条方式をはじめ様々な案が検討された。最終的には軌間変換装置を気動車に搭載、この気動車で京阪の全線を自力走行し、浜大津の地上設備で車輪をスライドさせて江若鉄道線へ入る案が選択された。しかし、この案では淀屋橋地下線内での騒音・排ガス問題や、京津線の66.7パーミル勾配区間での再起動で動軸数が50パーセント以上を確保できないことなど、当時の技術では解決が困難な問題が多かった。そのため、軌間可変ディーゼルカーによる江若鉄道直通計画は早々に断念され、本形式で切り開かれた特殊車両による異種規格路線間直通運転のさらなる拡大は実現を見ないままに終わった。
出典:wikipedia
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