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イナリワン

イナリワン(1984年5月7日 - 2016年2月7日)とは、日本の競走馬、種牡馬である。公営・大井競馬所属時に東京王冠賞と東京大賞典に優勝、1989年に中央競馬へ移籍したあとにGI競走で3勝を挙げ、同年のJRA賞年度代表馬および最優秀5歳以上牡馬に選出された。1980年代後半に勃興した第二次競馬ブーム期において、オグリキャップ、スーパークリークとともに「平成三強」と称された。※馬齢は、2000年以前に適用されていた旧表記(数え年)で記述する。1984年、北海道門別町の山本牧場に生まれる。幼駒の頃から小柄な馬であったが、非常に身体のバネが強い馬であった。2歳時に大井競馬場所属調教師・福永二三雄に見初められ、福永の勧めで保手浜忠弘が購買(名義は保手浜弘規)、その所有馬とされた。その後、千葉県の和光育成牧場で調教が積まれたのち、競走年齢の3歳に達した1986年6月、福永の元に入厩した。12月9日、大井競馬場の3歳新馬戦でデビュー。宮浦正行を背に、2着に4馬身差を付けて初戦勝利を挙げる。続いて翌年の正月競馬に登録を行ったが、競走当日、ゲートに頭を強打し、前頭骨打撲で出走を取り消す。大事を取ってそのまま休養に入り、春の目標とした羽田盃、東京ダービーの断念を余儀なくされた。5月に復帰、緒戦の条件戦を2馬身差で勝利すると、以後連勝を重ねる。秋には南関東三冠の最終戦・東京王冠賞に出走、チャンピオンスターに1馬身差を付けて優勝し、重賞初制覇を果たした。年末には船橋競馬場の新設重賞・東京湾カップに勝利。8連勝でシーズンを終えた。翌1987年、緒戦の金盃は苦手の重馬場となり、3着と初の敗戦を喫する。続く帝王賞も当日の降雨で重馬場となり、7着と大敗。その後態勢を立て直すために休養、8月に関東盃で復帰するも、三度の重馬場で5着に終わった。これを受けて再び休養。復帰後の東京記念は3着、笠松に遠征して臨んだ全日本サラブレッドカップでは、当時東海地方の最強馬であったフェートノーザンの2着と、復調を見せた。保手浜はイナリワンを「芝コースに向く馬」と考え、年末のグランプリ競走・東京大賞典勝利の場合、中央競馬へ移籍する計画が立てられた。迎えた東京大賞典は良馬場となり、アラナスモンタを半馬身抑えて勝利を収める。これにより中央競馬への移籍が正式に決定し、翌1月には美浦トレーニングセンターの鈴木清に移った。以後も福永はアドバイザーとしてイナリワンへの関与を継続する。中央移籍後は、まず春の天皇賞を目標に関西に入った。しかし環境の変化に適応できず馬体が細化し、注目を集めた初戦・すばるステークスは4着。続く阪神大賞典はスルーオダイナに進路を塞がれる不利もあり、5着に終わった。次走に天皇賞を迎えるに当たり、陣営は移籍後二走に見られた掛かり癖を是正するため、癖馬の騎乗に評価の高かった武豊を鞍上に迎えた。体調も戻して迎えた天皇賞(春)当日は4番人気の評価であったが、武の手綱で落ち着いたレース運びを見せる。最後の直線では後続馬を突き放し、5馬身差の圧勝。走破タイム3分18秒8というコースレコードで、移籍後初勝利を天皇賞で挙げた。表彰式ではイナリワンの左右で鈴木と福永が共に轡を取り、優勝レイは福永に贈られた。続く宝塚記念では安田記念優勝馬フレッシュボイスをクビ差で退け、GI競走2勝という成績で春のシーズンを終えた。休養を経て、秋は東京競馬場の毎日王冠から始動。同日開催の京都大賞典で、武が主戦騎手を務めていたスーパークリークが故障休養から復帰。武が同馬への騎乗を選択したため、本競走から柴田政人を鞍上に迎えた。当日は稍重の馬場であったが、「怪物」オグリキャップと直線一杯に競り合い、ハナ差の2着。敗れたものの、その競走内容は史上の名勝負と称えられた。しかし、この競走の反動から再び体調を崩し、次走の天皇賞(秋)は6着、評価を大きく落としたジャパンカップは11着と精彩を欠いた。しかし徐々に体調を戻し、年末に迎えた有馬記念では、レース最後の直線で武騎乗のスーパークリークをゴール寸前で交わし、2度目のコースレコードとなる2分31秒7で優勝。宝塚記念と合わせ、スピードシンボリ以来29年振りの春秋グランプリ連覇を達成した。この年、GI競走3勝の実績が評価され、翌1月には当年の年度代表馬に選出された。翌1990年も競走生活を続行したが、緒戦の阪神大賞典は62kgの斤量を背負い5着、天皇賞(春)はスーパークリークとの競り合いに敗れ2着、宝塚記念は荒れた馬場に脚を取られ、4着に終わった。休養後、秋の再起を目指して調整が進められるも、脚部不安を生じてレース出走は叶わず、そのまま引退。有馬記念当日の12月23日、中山競馬場で引退式が執り行われた。引退後は種牡馬として日高軽種馬農協門別種馬場に繋養された。共に「平成三強」と呼ばれたオグリキャップ、スーパークリークと同年の種牡馬入りであったが、サンデーサイレンスをはじめとする輸入種牡馬の前に、両馬ともども大きな成功を収めることはできなかった。しかし、福永厩舎に入った初年度産駒ツキフクオーが、東京王冠賞親子制覇など大井で活躍。ほかイナリコンコルド(大井記念・東京記念など)、シグナスヒーロー(日経賞2着など)といった活躍馬も輩出し、「三強」の中では最も目立った成績を残した。2004年を限りに種牡馬から引退し、以後は門別町のポニーファームで功労馬として過ごす。2007年には大井で「里帰り」イベントが開催され、東京大賞典以来20年振りに大井競馬場を訪れた。翌2008年6月22日には、北広島市の乗馬施設ホースフィールドワッツで行われたイベント「第5回ワッツワンダフルワールド!」に参加。その後繋養先が何度か移転し、2010年7月には茨城県北茨城市のオールドウェスト乗馬クラブで繋養されていると報じられた。2014年12月からは功労馬繋養展示事業の助成を受け、北海道占冠村のあるぷすペンションで過ごした。2016年2月7日に馬齢32歳で死亡した。日常生活から蹴癖があり、対策として馬房の壁に畳が貼られるなど、非常に気性が激しい馬だった。こうした気性から、コースで走る際には極めて強い掛かり癖を見せた。武豊が調教で初騎乗した際には、武が手綱をがっしりと抑えながら、これを無視して全速力で2周を走り、「レースでも御し切れないのでは」という不安を抱かせている。小柄ながら力も非常に強く、後年武は、数々の騎乗馬の内で「一番気の強い馬」「一番パワーのあった馬」として本馬の名を挙げている。一方、騎手との呼吸が合った時に見せる能力は素晴らしかったとされ、武は「良くも悪くも、凄まじい推進力を持った馬でしたね。軽くてコンパクトなボディーに、超ハイパワーのエンジンを積んでいた、という感じ」と評し、柴田政人は「体全体を使うフォームで、体の小ささを感じさせなかった」と述べ、自身が騎乗した内の最強馬に挙げている。また、イナリワンの調教を行った調教助手の堤敏夫は、騎乗した時の印象について「キャンターに入るまでの感触はガクンガクンとしてあまり良くないが、加速してからの乗り味はすごくいい」と述べている。東京大賞典、東京王冠賞を勝利という実績を掲げて中央入りし、 GIを3勝し年度代表馬にまでなった名馬であったが 中央での11戦において単勝オッズ1番人気には一度もならなかった。なお、武騎乗で天皇賞(春)と宝塚記念を連勝した際、馬主の保手浜はその功に報いるため、武がかねて希望していた渡米を実現させ、現地で自身の所有馬に騎乗させた。これ以降、武は毎年のアメリカ遠征が叶うようになり、「イナリワンは僕に幸運をプレゼントしてくれた馬だった」との謝辞を送っている。父ミルジョージは地方から中央まで幅広く活躍馬を輩出。イナリワンが年度代表馬を受賞した1989年には、全日本リーディングサイアーを獲得している。母テイトヤシマは仔出しが悪く、イナリワンの出産を最後に繁殖から用途変更となった。直近の近親に活躍馬はいないが、四代母・神正の子(三代母ヤシマニシキの全弟)に二冠馬ボストニアン、子孫にイナリワンと同時期に活躍したバンブーメモリーがいる。

出典:wikipedia

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