


光道小学校(こうどうしょうがっこう)は、明治10(1877)年から昭和20(1945)年にかけて広島市猫屋町に存在した私立小学校である。闡教社(のちの崇徳教社闡教部)が経営していた。明治10(1877)年、明教寺信徒で無名講(のちの闡教社)を結んでいた発起人の大高十郎が猫屋町(現広島市中区)にある同寺の一部を借り受け、子弟に仏教を説くとともに読書や習字、算術などを教えていたのが機縁となって、明治12(1879)年4月に私塾として.000光道館と改称し闡教社が経営することとなった。闡教社は福間浄観を総理とし、本部及び光道館校舎を明教寺の末寺である万福寺へ建築することとなった。幹事(校主)には武田霊巌が就任した。明治14(1881)年に進徳教社設立の動きが起こると本願寺の1国1社の方針に従い、闡教社は進徳教社闡教部と改名する。以後、進徳教社と密接な関係は持ちながらも牛乳会社(のちのチチヤス)を設立し光道館の経営資金に回すなどの独自の活動を続け、明治32(1899)年に闡教部は財団法人として独立している。明治18(1885)年には広島最初の二階建て洋館の建設も行われた。大正11(1922)年に土居愈吉が校長に赴任し再び校運も盛んとなるが、同年5月17日に火災によって校舎と失った。翌大正12(1923)年に光道小学校と改称し、同年9月6日より校舎の再建工事に着手する。広島市からの補助金2万円を含む10万5000円の総工費をかけて、翌大正13(1924)年6月14日に竣工した。さらに同年9月21日には新たに附属幼稚園の園舎も完成して竣工式を迎えることになったと大正13年9月18日付の『芸備日日新聞』で紹介されている。この新築校舎は全国で14番目の鉄筋コンクリート建て校舎で、神戸以西では初めてのものであった。光道小学校は昭和20(1945)年8月6日の原爆投下の被害により廃校となった。光道小学校は、当時では珍しい男女共学や宗教教育、自由教育など特色ある試みが行われていた。同校は男女共学の私立学校で、1学年1学級、クラス定員40人、月謝が2円(他校の約10)という高額であった。校舎の設備についてはスチーム暖房付きという豪華な学校であったとされる。百余坪の屋上運動場、教室中に張られた黒板、理科教室・手工教室・児童図書室等の完備、色調を工夫した校舎の内装など、教育的配慮が行き届いた学校建築であった。
出典:wikipedia
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