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スプリングフィールドM1903小銃

スプリングフィールド1903小銃()は、アメリカ軍のボルトアクション式ライフル(制式名M1903)である。公式には1903年6月19日から支給が開始された。M1903は第一次世界大戦および第二次世界大戦を通して使用され、1936年にセミオートマチックのM1ガーランドが制式化されるが、不具合と配備の遅れにより1942年初期頃まで第一線で運用された。M1ガーランドへの代替後も、朝鮮戦争およびベトナム戦争まで狙撃銃として使用された。M1903小銃の採用までには約30年にわたる政治的な争いや、クラッグ・ヨルゲンセン・ライフル(リー小銃に似たボルトアクションライフルで、1894年から製造、以下クラッグ小銃と表記)が直前に採用されたことなどの事情があり、さらに世紀の変わり目に採用されたいくつかの新機構から学ぶ点がいくつか存在した。M1903小銃はクラッグ小銃を置き換えるだけでなく、海軍や海兵隊で使用されていたレミントン・リーM1885小銃や、リーM1895小銃、さらに残っていたレミントン・トラップドア・スプリングフィールドM1873小銃も置き換えた。クラッグ小銃は古い小銃を置き換えつつあったが、1898年の米西戦争やその他の紛争の期間中に貴重な経験を得た。クラッグ小銃には長い歩兵銃とカービンの両方のサイズがあったが、M1903には後者に相当する一種類しかなかった。これは、それまでの流れを打ち破るものだった。クラッグ小銃には主要な二つの欠点があった。マガジンの構造と高初速のための高い薬室圧力のために取り扱いが難しいという点である。M1903はこれを改良し、さらに多くの特徴を持つものだった。もっとも議論の争点になるのは、1898年の米西戦争でモーゼル小銃の影響を受けたかという件である。1890年代の競作(トライアル)の時にモーゼルのクリップ装填式弾倉の設計はよく知られるようになったが、クラッグ小銃(や、他の小銃)は、一発ずつロータリー式弾倉に装填するというものだった。クラッグ小銃のマガジン用にストリップ式リローダーが後から登場したのである。さらに競作の際、モーゼルの試作品はクラッグ小銃と同じぐらいの銃口初速を持っていた。さらに、クラッグ小銃が採用された後になって高威力の弾薬が主流になってきた。たとえば、スペインでクラッグ小銃の後継として採用されたモーゼルM1893小銃(スパニッシュ・モーゼル、以下モーゼルM1893)は、独自の7x57mm スパニッシュ・モーゼル弾を用い、その初速は約700m/sに及んだ。しかし、スペインの小銃は考慮にとどめるべきである。アメリカ軍は1890年代後半には、スペインや他の国が高威力な弾薬に移行すること、クラッグ小銃に高威力な弾丸を使用することを考えていた。これはモーゼルM1893に対抗するもので、サン・ファン・ヒルの戦いで試され、戦闘を解析した結果、実証された。陸軍は既存のクラッグ小銃のために、高威力弾を導入することを試みた。しかし、クラッグ小銃のシングル・ロッキング・ラグは、高圧力に耐えられなかった。ちょうど時を同じくして新小銃の競作が始まったが、M1903は高威力弾の圧力に耐えることができた。興味深いことにクラッグ小銃もM1903も、個々に弾薬を装填するため弾倉から給弾を止める事ができるマガジンロック機構を持っていた。他の理由もあるが、空砲を要求するライフルグレネードを発射する時に、この機能はきわめて有効であった。空砲を発射した後でも、通常弾が給弾されないからである。双方の弾道は一致せず、特に近距離のそれは全く一致しなかったが、無煙火薬を使用したことは両方の小銃の特徴だった。また、円頭弾を使用していた。フランス軍とその後の他の小銃は尖頭弾を使用していた。後にモーゼル弾も尖頭弾(spitzer)になった。無煙火薬は当時の二つの戦争で、義勇軍や現地の民兵のように旧来の黒色火薬を使っている敵との実戦において有利に働いた。アメリカ以外の他の国家においても新しい小銃に移行しつつあったので、アメリカ軍の新型小銃の開発・採用にこのような年数を要したことは特に珍しいことではなかった。M1903が採用されるまでの道のりは30年近く遡り、1870年代が端緒となる。1870年代の後期から陸軍はトラップドア式のスプリングフィールドM1873小銃(前装式だったスプリングフィールド銃を後装式に改造したもの)のような一般兵用小銃の後継品を探していた。陸軍ではこの期間、予算を減少させており、一般兵に対してはM1873を支給し続けており、様々な種類のボルトアクションライフルとカービンが混在して使われていた。裕福な兵士は、しばしば自分で市販の銃を購入して使っていた。陸軍は1865年には100万ドル以上を出費したが、南北戦争の終結と共に急速に先細りとなり、1892年の予算は5万ドル程度であった。新型小銃の要求はこのような状況下で明白になった。特に装薬の黒色火薬から無煙火薬への切り替えが急務であった(この流れは既に、フランスが1886年に採用したレベルM1886小銃から始まっていた)。リーM1879小銃は脱着可能な箱形弾倉を備え、少数ではあるものの海軍に納入された。また、数百丁のレミントン・リーM1882小銃が1880年代の競作の末、陸軍に納入されたが、公式には採用されなかった。海軍はレミントン・リーM1885小銃に移行し、後に異なる形式のリーM1895小銃(ストレート・プル方式)を調達した。M1885とM1895は、ともに米西戦争で陸軍小銃としても使われた。ジェームス・パリス・リーがリー小銃用に開発した、脱着可能式箱形マガジンは、後の小銃などに多大な影響を与えた。他の前述した特徴(たとえば無煙火薬)も、新型小銃が必要であることを明らかにした。1890年代にコンペが行われ、40を超える小銃(モーゼル小銃も入っていた)の中からクラッグ小銃が選ばれた。クラッグ小銃への交換は1894年後期から遅れて行われたが、10年後には公式にM1903と置き換えられた。新しいM1903小銃が使用可能になり次第、クラッグ小銃は10年ほどかけて緩やかに交換された。開発がモーゼル小銃ベースで行われたことには、複数の原因がある。この銃は米西戦争での実戦においての観察を元に製作されたと言われているが、スペインの正規兵はモーゼルM1893を装備していた。言及されているように、これはクラッグ小銃よりも優れていると考えられた。小銃の開発においては、しばしば実戦での観察が開発に反映されると言われるが、この場合も米西戦争でスペイン兵が装備していたモーゼルM1893が参考にされた。さらにクラッグ小銃は、その弾倉の設計と弾道学上の見地から、これらよりも優れていると見られていた。これら他国の小銃はみな弾倉への装填がクリップ式であり、新兵にも素早く装填できた。アメリカが実戦において着脱可能な弾倉をもった小銃を使ったのは19世紀初期に入ってからである(スペンサー小銃や、リー小銃の一部のバージョン)。しかし、クラッグ小銃は使われ続け、これは5発しか入らない固定式弾倉式となっており、再装填には時間がかかった。この弾倉はベテラン兵士にとっては装填数の少ないクリップ式弾倉を再装填するのとあまり変わらない早さで再装填できたが、十分に訓練されていない兵士にはそれは不可能だった。他に、1890年代にモーゼルM1893が選定のため試験された時、銃口初速は約600m/sを記録したが、これはクラッグ小銃に近い値である。他の国における後期の設計では、高威力弾薬を使えるようにしたが、前述の通りクラッグ小銃でこれを行うことはできなかった。実戦におけるモーゼル小銃とその効果については論議の争点となるところである。例えば、スペイン軍の正規兵にはモーゼルM1893が支給されていたが、他の兵士達には古い小銃が支給されていた(範囲はどうあれ、スペイン陸軍は新しい小銃の支給に尽力した)。M1903の基礎的な開発スケジュールは、モーゼル小銃を参考にした高威力弾薬を使えるようにした新型小銃を開発するという観点で、世紀の変わり目にスプリングフィールド国営造兵廠で始まった。プロトタイプは1900年に完成し、量産が始まったのは1903年である。スプリングフィールドには、ほとんど量産にさしかかっていた暫定的な1901年式小銃の製造計画があり、これが制式受理されるものと確信していくつかの部品を作り始めていたが、これは受理されず、さらなる変更を求められた。改善された設計は受理され、1903年に制式化され量産に入った。命名法から「M1903」の名前を得た。1905年2月までに、8万挺を超えるM1903がスプリングフィールドで製造された。しかしながらセオドア・ルーズベルト大統領は、白兵戦に使うにはスパイク型の銃剣が貧弱であるとして反対した。全ての小銃はナイフ型のM1905銃剣に切り替えられ、工具も入れ換えなければならなかった。新しく改善されたM1904照準器も採用された。これらの決定が行われた時には、製造設備機械の改善を実施することもほとんど完了していた。それは量産後に行われた実験の結果を反映するためでもあった。大きな改善点として弾薬が上げられる。1890年代にフランスや他の国で開発された尖頭弾とした。アメリカ軍でのこの弾薬は、スプリングフィールドにより "Cartridge, Ball, Caliber .30, Model of 1906"(1906年型.30口径通常弾型弾薬)と命名された。これは.30-06弾薬として、現在にいたるまであらゆる小火器類で用いられたため、特に有名である。照準器も、この弾薬により改善された初速と弾道を補うために、再び改修された。この弾薬は、220グレーン(約14.2g)の弾頭を初速約700m/sで発射できる.30-03弾を元にしているが、.30-06弾では150グレーン(約9.7g)の弾頭を初速約813m/sで発射できる。薬莢のネック部分は少しだけ短くなった。さらにテスト結果は、騎兵スタイルの短銃身(610mm)設計が有効であることを実証した。歩兵側からの短い小銃の要求に応える形で決定されたが、長い歩兵用小銃が標準的だった時代にあって、これは革新的なことだった。公式には4タイプの派生型があるが、副派生型もある。基本的には以下の通り。これらの他に、主要な2タイプがある。一つは訓練用で、もう一つは国際競技などで使用する競技用銃である。加えて、いくつかの民間用、試験用などがある。長期間に渡る製造・支給の結果、ある期間や製造者による細かい違いが多数存在する。重要な点は、M1903シリーズのうち.30-06用として製造されたものも、.30-03弾を撃つことができたが、逆は不可能だったということである(コンバージョンが必要)。この銃の軍用としての特徴で重要なことは第一次世界大戦においてアメリカ軍制式ライフルとして使用され、第二次世界大戦の初期、特に太平洋戦線でも使用されたことである(これらは可能な限りM1ガーランドに置き換えられたが、他の用途として残った。主に狙撃銃と、ライフルグレネード発射用である)。アメリカ軍が第一次世界大戦に参入した時、843,329挺のM1903が生産された。しかし、戦場の要求、即ち兵士全てへの支給と訓練に充足するために、さらに265,620挺が追加された(これは250万挺に及ぶ)。同様に.30-06口径であるイギリス(エンフィールド)の設計となるリー・エンフィールドM1917小銃の生産に影響を及ぼした。M1903のモーゼル小銃との類似点は、第一次大戦の間中マウザー・ヴェルケ社(モーゼル)へのロイヤルティーの支払を強いられたことである。この問題は休戦後に解決に至った。皮肉なことに、モーゼル小銃の設計自体もフランスやイギリスの設計を盗用したように見える。第一次大戦後は、数千挺に及ぶ無用となったスプリングフィールド小銃が戦場から集められ、交換可能な部品を組み直され、その内のいくつかはフランスの武器庫や、その他の国へ送られた。第二次世界大戦は、スプリングフィールド国営造兵廠の生産に別の兵器を割り込ませた。この結果、スプリングフィールドは生産体制としてロックアイランド兵器製造所と、民間のレミントン・アームズ社、スミス・コロナ・タイプライター社を加えた。そして、M1903A1を改良し、より量産に適した構造としたM1903A3が製造された。外見上の相違点として、リアサイト(後部照準器)が単純かつ小型な環形構造にされ、ボルト・アッセンブリの近くに移されたことがあり、これはM1ガーランド小銃の方式に合わせたものであった。増産に対応するために、銃床の用心鉄や床尾板などの部品は、鍛造や切削からプレス加工に変更された。また、銃身のライフリングが2条に減らされ(射撃の精度に悪影響は出ないものとされた)、銃身や機関部の素材が戦時規格鋼に変えられたほか、金属部の表面処理も簡略化された。M1903は開戦後の1942年始めまで第一線で使用され、その後は急激な早さでM1ガーランドに代替された。海兵隊や陸軍レンジャー部隊の一部では、M1903やM1903A3が精度が高く、長距離でも威力が落ちず、M1ガーランドが持つ欠点を持たないという点から、M1ガーランドが支給された後でも使い続けた。M1ガーランドに関する執拗な誤解は、8発クリップ装填の8発目を撃ち終わった時に自動的に大きな「ピーン!」という音とともにエンブロック式クリップも排出される点である。下が硬い場所やコンクリートであれば、さらに大きな音となる。これは、敵に再装填をしていると教える結果になるため潜在的に致命的な音であり、特に接近戦では非常に大きな問題となる、と考えられた。実際のところ、通常は一対一など少数同士で戦闘を行うことは一般部隊においては稀であり、実弾を発射する音で排出音はかき消されてしまう。このため「ピーン!」という音は、コマンド部隊、隠密作戦、偵察作戦以外では、あまり問題とならなかった。これにもかかわらず、M1903及びM1903A3はアメリカ軍部隊により使用され続け、ヨーロッパ戦線、北アフリカ戦線および太平洋戦線で広範囲な使用がみられた。狙撃兵用にはM1903A4狙撃銃として使われ、ライフルグレネード発射用としても、M1ライフルグレネードランチャーを用いて活用された。M1903A4狙撃型ではちょうど5発クリップ装弾をする位置にスコープが支障を来すため、一発ずつ手で弾丸を込めるしかなかった。M1903A4は、朝鮮戦争の頃には次第に使われなくなっていったが、海兵隊ではM1941狙撃銃として広範囲に使用された。この新しい狙撃銃は、長くて明るいユナートル(Unatl)7.8倍バーミット型スコープを備えており(M1903A4のM73B1 2.5倍スコープと比較の結果)、目標への距離が、海兵隊M1CまたはM1D狙撃銃の有効射程(500ヤード=約457m)を超えるような場合に重用された。稀なケースでは、海兵隊でM1941を用いた場合、1,000ヤード(約914m)以上での命中例も報告されている。また、地雷の爆破処理用としても用いられた。少数がベトナム戦争でも用いられた。そのバランスの良さから、軍音楽隊や儀仗隊で使用されている。陸上自衛隊も狙撃用にA4を装備した。M1903小銃は、長さ1,098mm、重さ3.95kgである。銃口付近に銃剣を取り付けることができる。M1905銃剣の刃渡りは406mmで、重さは450g。1906年式.30口径(7.62mm)弾を使用する。最大射程は2,500ヤード(約2,286m)で、有効射程は500ヤード(約457m)か500メートルである。それぞれのクリップには5発を装填でき、通常は12個のクリップを弾帯に収めていた。弾帯にすべて収めた場合の重さは約1.76kg。弾帯用弾薬は20組(1,200発)が1箱となっており、重さは45kgとなる。次の表は、様々な素材に対してのおおよその貫通力を示す。200ヤード(約183m)先からの単射でも、150発を集中発射すれば、23cmのレンガ壁を壊すことができる。ライフルの滑腔部は直径7.62mmで、ライフリングの厚みは0.1mmである。銃身の先端から反対側までの間で、7.82mmのライフリングを形成している。この銃の後部照準は、射程に合わせて調整できるリーフを持っていた。リーフが一番下にセットされている時、銃身の照準はリーフの上に現れる。これは調整していない状態で、かつ500ヤード(約457m)先を射撃するのに最適な位置である。リーフは4段階に調整できる。一番上にセットした時の状態は、2875ヤード(約2,630m)先を射撃するのに最適な位置となる。ドリフトサイトの上端のオープンサイトは、1,400-2,750ヤードまでを調整できる。オープンサイトの下端の三角形の開口部は、100-2,450ヤードまでを調整できる。各照準距離は、リーフの横に一覧として刻んである。それぞれの目盛りは「ポイント」と呼ばれた。照準に向かって右側の照準基部には、照準自体を左右に調整するための偏流ねじがある。照準校正の時、および風力が強い時はこれが有効に使える。外部リンクに上記の照準に関して詳細な写真を掲載したサイトがある。

出典:wikipedia

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