多田 駿(ただ はやお、1882年(明治15年)2月24日 - 1948年(昭和23年)12月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。宮城県仙台市生まれ。生家は旧仙台藩(伊達藩)士である。仙台陸軍地方幼年学校(1期)、陸軍士官学校(第15期成績順位35番)砲兵科、陸軍大学校(第25期成績順位12番)卒業。1937年(昭和12年)7月に盧溝橋事件が起き、支那事変が始まった。翌月の8月に今井清のあとをうけ、参謀本部次長となる(石原完爾作戦部長の推挽)。事変については石原と同じく不拡大派であり、蒋介石との和平交渉継続を唱えていた。1938年(昭和13年)1月15日の連絡会議ではトラウトマン和平工作の打ち切りを主張する広田弘毅外相に対し、この期を逃せば長期戦争になる恐れがあるため交渉継続を主張した。多田は結論を参謀本部に持ち帰って協議し、参謀本部は政変回避のために不同意であるが反対はしないこととなったため、和平工作は打ち切られた。多田の在任した一年強の期間、参謀本部は不拡大方針でいた。また、杉山元陸相の更迭を盛んに主張している。拡大派の陸軍次官東條英機と対立したため、両者更迭となった。多田は皇族総長の下で一切を取り仕切る次長として、カウンターパートである陸軍次官を飛ばして直接陸相(杉山の後任である板垣は陸士の1期後輩であり、仙台幼年学校の同窓であるという親しい関係にあった)と接触することが多く、これが東條次官から不快に思われた側面もあった。平沼内閣総辞職の際、後継内閣の陸相として新聞に名が挙がっていた1939年(昭和14年)8月、阿部内閣の組閣時には板垣陸相の後任として陸軍三長官会議で一度は陸相候補に決定した。しかし、第3軍司令官の多田がいた牡丹江へ飯沼守人人事局長が承諾を取るために派遣され、満州軍に足止めされているうちに昭和天皇より陸相には畑か梅津との思し召しがあった。陸軍三長官会議のやり直しで後継陸相を畑としたため、多田陸相は実現しなかった。東条英機により軍事参議官在任2か月で予備役へ編入された(同期の梅津美治郎や蓮沼蕃は現役続行)。東條が陸軍の実権を握り首相となってからは太平洋戦争中も予備役から呼び戻されることなく、館山市に居を構え、帰依する良寛の書を読むなど自適の生活を送り、終戦を迎えることになった。1945年(昭和20年)12月、A級戦犯容疑者に指名を受け、逮捕される。不起訴となるも、健康上の理由で巣鴨プリズンの入所延長が認められたが、1948年(昭和23年)12月に胃癌により死去した。死の一週間後に戦犯指定は解除された。1936年、多田駿は冀察政務委員会の委員長・宋哲元と防共協定を結んでおり、田代皖一郎、橋本群と共に対中穏健派であった。1937年7月の盧溝橋事件に端を発して日中戦争が始まったが、多田は蒋介石政権よりもソ連の脅威を重視しており、参謀本部作戦部長の石原莞爾少将・陸軍軍務課長の柴山兼四郎大佐らと、戦線不拡大を唱えていた。1937年末、蒋介石との講和のタイミングと見て、ドイツ仲介よる和平工作(トラウトマン和平工作)を展開する。1938年1月15日 大本営連絡会議に参謀本部次長として出席。「トラウトマン工作打ち切り」を唱える政府側(近衛文麿首相・広田弘毅外相・杉山元陸相・米内光政海相)に対し、参謀本部側は和平工作継続を主張しており、多田は1人蒋介石との和平交渉継続を唱えるも押し切られる。翌日、近衛首相は「以後蒋介石は交渉相手としない」旨を宣言する(第一次近衛声明)。
出典:wikipedia
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