分部 光謙(わけべ みつのり、文久2年11月3日(1862年12月23日)- 昭和19年(1944年)11月29日)は、近江大溝藩の第12代(最後)の藩主(厳密には藩主は4日間でほとんどの治世期間は知藩事として)。分部家13代。第11代藩主・分部光貞の次男。正室は溝口直溥の娘・銀姫。官位は従五位、従四位。幼名は竹之進、または掃部助。初名は光明といった。1870年4月25日、父光貞の死去により家督を相続した。同年4月28日、従五位を授けられる。後に従四位に昇進する。すでに版籍奉還後であり、同年4月29日に大溝藩知事に就任する(ただし、藩主としては4日間のみ在任した)。1871年6月23日、廃藩置県に先立ち廃藩願いを受理されて、知藩事免職となる。大溝藩の財政は、負債が年収の数倍に達し、極めて悪化していた。大溝藩は大津県に編入された。なお、狭山藩(北条家)や鞠山藩(酒井家)といった小藩も財政悪化によって廃藩置県以前に廃藩を行っている。知藩事を辞した後、光謙は東京へ移って学習院へ入学し、学士の資格を取得した。1884年7月、華族令により子爵を授けられた。その後の光謙は競馬にのめり込んでしまい、当時最強の名馬とも言われた「岩川」など多数の馬を所有する日本最大の馬主となる。こうした浪費により、分部家は経済的に行き詰まっていった。1886年11月8日、東京始審裁判所で身代限りを申し渡されている。さらに1887年7月4日、家産の浪費により華族の品位を汚したため、謹慎10日の処分を受けている。1902年7月11日、光謙は子爵を返上し大溝に戻った。その後も光謙は高島で余生を送り、太平洋戦争も末期にさしかかった1944年11月29日、83歳で死去した。法号は普宏院殿心源宗徹大居士。明治10年代の日本は軍事的な要請や外交的配慮から馬の改良や馬術の奨励が必要になり、上から模範とするために華族には馬術、競馬が推奨されていた。しかしながら、光謙は競馬に度を過ぎてのめり込み謹慎処分を受けることになった。光謙は明治10年代の個人としては日本最大の馬主である。一例では1885年(明治18年)秋の上野不忍池競馬では全23レース(番外レースを含む)の中で分部所有馬は12勝している。明治15-20年にかけての最強の日本馬「岩川」を光謙は1885年(明治18年)700円という当時としては非常な高額で購入している。光謙の厩舎は横浜外国人居留地民たちのや団体のを合わせても当時の4大厩舎の一つともいわれるほどだった。また、自ら賞金を出して特別レースを出したりもしている。共同競馬会社の籤馬(抽せん馬)を購入するために東北に出張もしている。光謙は多数の競走馬を所有する馬主としてばかりではなく、自ら騎手として各地の競馬で多数回騎乗している。横浜競馬場1886年5月の婦人財嚢競走では分部は日本人としては初めての勝利騎手となっている。光謙は翌年の横浜競馬場婦人財嚢競走でも勝利騎手になっている。このように明治10年代の日本の競馬界では光謙は非常に目立った存在だった。前述したようにこの時期の華族や上流階級には乗馬や競馬は推奨されていた。しかし、光謙は程度問題を逸脱し度を過ぎて競馬にのめり込んだことで「家産を浪費し華族たる品位を失った」として1887年(明治20年)7月に華族会館から謹慎処分を受け、その後は競馬を止めてしまう(少なくとも馬主・騎手として表に名が出ることは無くなっている)。藩主および知藩事(大名)に就任した者として、光謙は昭和時代まで生きた最後の人物であったが、「幕藩体制の最後の藩主は、上総請西藩の林忠崇(戊辰戦争で幕府側に就いて改易、1941年死去)」と紹介されることが多い。その理由として下記の諸事情が挙げられる。光謙は光貞の代理で事実上の藩主として行動していたものの、実際の藩主であったのはたった4日間であること、その上に光謙が就任したのは既に版籍奉還が行われた後であり、幕藩体制が事実上瓦解していたこと、また廃藩置県直前に知藩事を辞任していることが理由に挙げられる。更に、藩主に就任した時に既に元服しており、自ら藩兵を率いて積極的に行動していた林忠崇に対し、光謙は辞任時ですら9歳という幼年であり、その後、旧藩主家としての爵位も返上している。これらの事情から、光謙は最後の藩主と見なされない場合が多い。林忠崇についても石高が低い上、戊辰戦争後に廃藩置県を待たずして改易され、本人は爵位を受けていない。忠崇をも除くと、大藩の元藩主で長命だったのは広島藩主で後に侯爵となった浅野長勲(1937年死去)である。
出典:wikipedia
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