LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

本間雅晴

本間 雅晴(ほんま まさはる、1887年(明治20年)11月27日 - 1946年(昭和21年)4月3日)は、日本の陸軍軍人。陸士19期、陸大27期(優等)。最終階級は陸軍中将。栄典は従三位勲一等。太平洋戦争(大東亜戦争)においてフィリピン攻略戦を指揮した。英国通の人道主義者であったことは米軍にも知られているものの、戦後はバターン死の行進における部下の行為の責任を問われて処刑された。本間賢吉の長男として新潟県佐渡郡畑野町(現:佐渡市畑野)に生れる。佐渡中学、陸軍士官学校(19期)を経て、1915年(大正4年)陸軍大学校(27期)を優等で卒業。1933年に連隊長となるまで、下記の経歴に見られるように、実戦部隊の指揮をした経験がなかった。太平洋戦争においてフィリピン攻略戦時、軍司令官として第14軍を指揮した。当初の攻略は順調で、第14軍はマニラ市を占領に成功する。マニラ進駐にあたり将校800名をマニラホテルの前に集めると1時間に渡り「焼くな。犯すな。奪うな。」を徹底し違反者は厳罰に処すると訓示を行った。バターン半島では米比軍の頑強な攻撃を受け多数の損害を出し攻勢が停滞する(第一次バターン半島の戦い)。結果、大部隊の増援によりバターン、コレヒドール島は陥落した(第二次バターン半島の戦い)。一方、敵将ダグラス・マッカーサーは日本軍に追い詰められ、自らが捕虜になりかねない状況にまで追い込まれていた。フランクリン・ルーズベルト大統領は個人的にはマッカーサーを嫌っていたが、万一マッカーサーが戦死したり捕虜になるようなことがあれば国民の士気に悪影響が出ると考え、マッカーサーとフィリピンのマヌエル・ケソン大統領にオーストラリアへの脱出を命じた。マッカーサーは家族を連れてパイナップル畑の秘密飛行場からB-17でオーストラリアへと飛び立った。マッカーサーがコレヒドール島を脱出した後、日本軍はバターン半島を占領し米比軍の約7万6千名を捕虜としたが、オドンネル基地に移送する時に、移送計画の不備により多数の捕虜が死亡した。バターン戦ののち、バターン攻略の不手際をとがめられ予備役編入となり、終戦まで第一線には復帰しなかった。終戦後、「バターン死の行進の関係者が処罰されるのでは」という話を陸軍が聞きつけ、「先手を打って処罰すれば刑が軽くなるのではないか」(いわゆる『一事不再理』の発想)と考え、本間の陸軍中将としての礼遇を停止した。しかし、結局マニラ戦犯裁判で、バターン死の行進の責任者(戦犯)として召喚された。本間は前述のとおり人道主義者であり、バターン死の行進での捕虜への非人道行為は本間の責任ではなく、部下の責任であった。しかし、結果的に責任をとることとなり、有罪判決が下り、本間は死刑と決まった。有罪判決が下ると本間の弁護団はアメリカ連邦最高裁判所に人身保護令を求めたが、6対2の判決で却下された。処刑は、1946年(昭和21年)4月3日午前0時53分、ちょうど4年前に第14軍司令官であった本間の口より総攻撃の命令が下された同じ月日、同じ時刻にあわせて執行された。当時、ほとんどの将校の死刑が囚人服で絞首刑であったのに対し、本間の場合は、略式軍服の着用が認められ、しかもその名誉を重んじて銃殺刑であった。(同じくマニラの軍事裁判で死刑判決が下された山下奉文の場合は囚人服を着せられたままの絞首刑であった。)辞世の句は次のとおりであった。1945年(昭和20年)12月19日審理開始、1946年2月11日判決、同年4月3日銃殺という早さで処刑されたのは、この裁判がコレヒドールで屈辱的な敗北をしたマッカーサーの本間への復讐劇であったと言われている。温厚な性格であり、陸軍きっての英語堪能者といわれていた。また詩歌も奏で、『朝日に匂ふ桜花』『台湾派遣軍の歌』などといった多くの軍歌の作詞も手かげている。今村均陸軍大将とは同期であり、陸士の試験当時や駐英武官時など長年の付き合いがあり、親友として深く交流を交わしていた。身長は180cm強で堂々たる体躯を持ち、かつ日本人離れの彫りの深い顔をもつ美男子の本間は秩父宮附(皇族附武官)当時、上流階級のサロンではよく噂になったという。秩父宮が奔放な人柄だったために、その行動に周囲から煩い声が聞こえている折であり、本間も口では「困ります」と言いながらテニスの相手をしたり気を使っていたという。予備役編入後、比島攻略戦の敵将であるマッカーサーをこう評した。「文武両道の名将だね。文というのは文治の面もなかなかの政治家だ。この名将と戦ったのは僕の名誉だし、欣快だ」皮肉にも、本間はその「文武両道の名将」の恨みを買い、処刑されることになる。本間は二度の結婚を経験している。はじめの妻智子とは、1913年に結婚した。参謀次長をつとめた田村怡与造中将の娘であったが、非常に自由奔放の生活を送り、女優を真似て舞台に出たり、多くの男と浮名を流すなど周囲から顰蹙を買う行動が目に余った。海外駐在中に破局を知り失意のあまり窓から飛び降りようとした際には今村に止められている。二度目の妻である富士子は戦犯裁判に証人として出廷した際、と陳述、その毅然とした姿に本人はもちろん、裁判官や検事も感動の涙を流したといわれる。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。