紀 比呂子(きの ひろこ、1950年4月11日 - )は、元女優である、本名、福田 博子。旧姓、佐藤。女優三条美紀(三條美紀)の娘として東京都世田谷区に生れる。お七夜記念に初めて雑誌「平凡」のグラフを飾る。芸名は、母親の芸名から最後の字を姓とし、名前は本名を音読み漢字で並べたものである。4歳から6歳まで東京・成城の聖ファチマのマリア幼稚園に通う。セーラー服姿を早く見たいという母・三条美紀の希望で、入園式にはセーラー服姿で臨んだ。幼稚園の発表会では、竜宮城の乙姫様を好演し、蛙の子は蛙と評判だった。このころからピアノも始め、小学校3年生の時の発表会では「エリーゼのために」を見事に演奏した。幼稚園時代、先生が「比呂子ちゃんのお母さんは、比呂子ちゃんが起きる時、なにをしてますか」と聞くと、胸を張り、大声で「寝てまーす」と答えた。母・三条美紀は生活がかかっていたため仕事を辞めることができなかったが、育児を祖母任せにしていたことについて「こんな母親でいいのだろうか、母親とはこんなものだと思って育ったらどうなるのだろう」と悩んだという。小学校から短期大学まで成城学園。幼稚園から高等学校まで、三船敏郎の長男である三船史郎と一緒だったが、1度も同じクラスになったことはなかった。小学生のころは坂本九のファンで、母親である三条美紀に頼んでブロマイドにサインをしてもらったことがある。中学・高校では馬術部に所属、世田谷の馬事公苑に行っては乗馬を楽しんだ。中学になると芸能界にあこがれ、芝居は中学の頃からの念願だった。高校二年の時に劇団若草に入団。短大在学当時の趣味は油絵。フィハギア・スケート、ホッケー、水泳、テニス(コートにかける青春をきっかけとしてやり始めた)などスポーツが得意。子ども時代は貧血症だったため、レバーのステーキが好物となる。18歳て免許を取得。当時の愛車はサニー・クーペGL。1972年からはアルファ・ロメオ-750GTV。成城大学短期大学部生活文化コースを仕事が忙しくなり、やむなく中退。在学中の得意な科目は英語だった。かつてはバーボンを1本くらいは軽く空けたという酒豪であったが、胆嚢炎に罹患し一時禁酒する。母親・三条美紀のしつけで裁縫や家事は得意。動物好きで若い頃の独身時代はチョコというペルシャ・チンチラやシャム猫を飼っていた。シャム猫のチャイはアテンション・プリーズで親しくなった范文雀から譲り受けたものである。高等科在学中の1966年、母親の縁で日本テレビにスカウトされ、1969年のテレビドラマ『風の中を行く』に新任教師役の吉永小百合の教え子役で初出演。同年に高校を卒業し、熊井啓監督に抜擢され『地の群れ』(1970年公開)に準主役として出演、瑞々しい演技で注目を浴びた。『時間ですよ』(TBS)の第1シリーズ15回から出演、16回から降板した川口晶に代わり堺正章、悠木千帆(後の樹木希林)とともにトリオ・ザ・銭湯の一員としてレギュラーとなる。第2シリーズでは、堺正章に片思いするラーメン店の出前持ちを演じ好評を得る。1970年、田舎で卓球に夢中だった少女が国際線の客室乗務員になるまでを描いた人気ドラマ『アテンションプリーズ』に主演し、平均視聴率30%を獲得、一躍お茶の間の人気者となり、三条美紀は、送り出す時や深夜ひとりで帰りを待つときは「女優にするんじゃなかった」と思ったという。その後も『コートにかける青春』、『マドモアゼル通り』『青春をつっ走れ』などの数多くの青春ドラマに主演して人気を博し、テレビ、舞台を中心に多くの作品に出演した。『コートにかける青春』では、母・三条美紀と共演。それまでは紀の方がてれくさいと断っていたものを、スタッフのたっての願いで実現。青春をつっ走れ』の際の劇中のアダ名はアンパン。台本ではクリーム・パンとなっていたが森田健作が発案し、郷ひろみらがそれを後押ししたためアンパンに決定。本人にとっては不本意なアダ名だった。1982年、中学の先輩との結婚を期に芸能界から引退し、富山に移住して2年を過ごす。その後夫の故郷の金沢市に移り1女1男をもうけた。金沢在住当時は、町会の班長を務め、町会費を集めたり回覧板を回したりと地元に馴染んでいた。2002年に世田谷区砧に金沢家庭料理の小料理屋「はく」を開業し、女将となっている。
出典:wikipedia
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