ブラバム()は、1962年から1992年まで存在したレーシングチーム・コンストラクターである。F1を中心に活動し、フェラーリやロータス同様、名門チームのひとつに数えられていた。マシンのシャーシ名に付けられていたBTは共同創設者であるジャック・ブラバムとロン・トーラナックの頭文字から取られたものである。・のF1チャンピオンに輝いたジャック・ブラバムがクーパーから独立。同郷出身のマネージャー兼マシンデザイナー、ロン・トーラナックとともに、1962年にモーターレーシング・ディベロップメント ("Motor Racing Development Ltd." ) を設立し、競技用スポーツカーやフォーミュラカーの製造・販売を始めた。当初はマシンに社名を略した"MRD"と付けたが、すぐに"ブラバム"を用いるようになった。F1には開幕戦オランダGPよりブラバム・レーシング・オーガニゼーション ("Brabham Racing Organization" ) として参戦。当初はロータスの量販マシンで出走し、ドイツGPから自製のBT3を投入した。参戦3年目の、フランスGPにおいて、ダン・ガーニーがチームに初優勝をもたらした。はレギュレーションの変更により、エンジン排気量の制限が1.5リッターから3リッターになる。多くのチームが苦戦する中、ブラバムは信頼性の高いレプコエンジンを選択したことが的中。ジャック・ブラバムが4勝を挙げ、自身3度目のチャンピオンに輝く。これはF1史上、自身の設立したチームでドラーバーズチャンピオンを獲得した唯一の例である。翌、今度はチームメイトのデニス・ハルムがチャンピオンに輝く。どちらの年もコンストラクターズタイトルを獲得しており、2年連続の2冠を達成することとなった。には市販化されたフォード・コスワース・DFVエンジンにスイッチし、ジャッキー・イクスの活躍でコンストラクターズ2位となった。また、この時期ブラバムはF1以外のカテゴリーでも活躍していた。当時F1と掛け持ちで参戦するドライバーが多数を占めたF2においても、1966年にホンダエンジンを搭載したマシンで、ジャック・ブラバム、デニス・ハルムの2人の手により開幕11連勝を達成。最終戦ではジャック・ブラバムが2位となり惜しくもシーズン全勝は逃すものの、圧倒的な強さを見せた。ただし最終戦では、ジャック・ブラバムは理由も示さずに予選を欠場したため規定により最後尾スタートとなっており、このため「業界内での余計な軋轢を避けるためにわざと勝たなかった」と語られることがある。ブラバムのシャーシは日本にも輸出され、創成期の国内4輪レース界に影響を与えた。国産初のプロトタイプレーシングカーである日産・R380はBT8Aを参考に開発された。また、鈴鹿サーキットが大量購入したブラバム製フォーミュラマシンがプライベーターに放出され、日本のフォーミュラレース振興に貢献している。ジャック・ブラバムは1970年に引退し、トーラナックにチームを任せ帰国するが、ヨッヘン・リントのマネージャーだった実業家バーニー・エクレストンがチームを買収し、より新オーナーとなる(トーラナックはその後ラルトを設立する)。チーフデザイナー、ゴードン・マレーの個性的なマシンが徐々に戦闘力を発揮し、にはカルロス・ロイテマンとカルロス・パーチェの南米コンビで、フェラーリに次ぐコンストラクターズ2位に浮上した(ロイテマンは1972年にデビュー戦でポールポジションを獲得している)。エクレストン体制では量販モデルの製造を止め、F1のみに活動を絞った。また、マルティニやパルマラットの支援、アルファロメオエンジンの獲得など、イタリアカラーが混じるようになった。しかし、からスイッチしたアルファ・ロメオエンジンの過大な燃料消費等に悩まされ、成績はしばし低迷する。には表面冷却構造(レーサー的な航空機において既存のシステム)のマシンに興味を示した前年度のチャンピオンニキ・ラウダを迎え、ファン・カーとして知られるBT46Bで勝利を挙げたものの、1戦のみで使用禁止となった。、シーズン終盤にラウダが引退したことを受け、新加入のネルソン・ピケがエースに昇格する。またエンジンもアルファ・ロメオを諦め、フォード・コスワース・DFVエンジンに戻った。ピケは翌のアメリカ西GPで初優勝を挙げると一気に才能を開花させ、ウィリアムズのアラン・ジョーンズとチャンピオン争いを繰り広げた。この年はランキング2位に終わったが、翌はロイテマンを破って初のドライバーズチャンピオンに輝いた。からは、BMWのターボエンジンの供給を受ける。この年は初期不良に苦しんだが、レース中に燃料給油・タイヤ交換を行うピット作戦をF1に持ち込んだ。にはアロウシェイプを纏ったBT52をドライブしたピケがアラン・プロストを下して再びチャンピオンとなり、ブラバムで2度王座に着いた唯一のドライバーとなった。その後は熾烈なターボ開発競争の中、予選こそ好走するものの、レースでは勝利に届かない状況となる。には挽回を期し、BMWエンジンを傾けて搭載することで空力の向上を狙ったBT55を投入したが、当時としては革新的過ぎるコンセプトゆえにマシンの熟成に苦しみ、最高位6位2回に終わった。シーズン中盤にはピケの後任エリオ・デ・アンジェリスがポール・リカールでのテスト中に事故死し、悲劇のマシンになってしまった。その後、エクレストンはF1製造者協会(FOCA)会長職に専念し、マレーの離脱でチームは弱体化する。はアンドレア・デ・チェザリスとリカルド・パトレーゼ活躍もあり数回入賞するなどまずまずの成績を収めたものの、は資金難で1年間活動を休止。エクレストンは新しいプロカー選手権を立ち上げるためチームをアルファロメオに売却した。しかし、プロカー・シリーズの立ち上げは頓挫し、チームは新オーナー、ヨアキム・ルーティーの手に渡った。はメインスポンサーが付かないままF1に復帰。セルジオ・リンランドの手によるニューカーBT58は、前年度にリジェが使用した中古のジャッドV8エンジンを搭載するものの、ピレリタイヤの特性にも助けられ、予備予選組ながらモナコGPでステファノ・モデナが3位表彰台を獲得し、マーティン・ブランドルもモナコGPイタリアGP日本GPでそれぞれ5位に1回、6位に2回入賞した。しかし、ルーティーが脱税容疑で逮捕され、チームは存続の危機に陥るより、リライアント・シミターGTの生産やクラシックカー収集などで知られていた日本人実業家の中内康児が率い、国際F3000に参戦していたミドルブリッジレーシングがチーム運営にあたった。レイトンハウス、フットワーク、ラルースに続く日本人オーナーチームとなり、以後は伊太利屋、カルビー、オートバックス、住友海上火災、三越、マドラス、山善などの日本企業がスポンサーとなった。ドライバーとして創始者の三男デビッド・ブラバムがF1デビューしたが成績は振るわず。(チームメイトは引き続きステファノ・モデナがアメリカGPで5位入賞1回を記録)にはヤマハV12エンジンを獲得したが、前半は予選落ちを喫した。しかし後半になるにつれ性能が上がり、最終的には新人マーク・ブランデルがベルギーGPで6位1ポイント、2年ぶり復帰のブランドルが日本GPで5位2ポイントと計3ポイント獲得。ヤマハとブラバムは良好な関係を築いていたため、一時はヤマハがブラバムをチームごと買い取る話も浮上するが、オーナーの中内が難色を示し、関係は1年で解消となった。また、バブル景気の崩壊と、後述の中谷明彦の参戦白紙化が影響して、このシーズン限りで多くの日本企業のスポンサーが撤退した。また中内康児は、自身が運営するミドルブリッジF3000チームの活動を優先させ、ブラバムF1チームには殆ど力を入れていなかったという説もあった。には当時全日本F3000選手権で活躍していた中谷明彦の起用を発表したものの、中谷に対し国際自動車連盟(FIA)がスーパーライセンスの発給を認めなかったため、代役にジョバンナ・アマティを起用した。F1史上5人目の女性ドライバーの参戦とあって話題にはなったが、アマティは参戦した3戦全てで予選不通過に終わり、また契約不履行(指定された期日に資金を入金しなかった)で解雇となった。その後はアマティの後釜として加入したデーモン・ヒルの名前繋がりで、デーモン小暮率いる聖飢魔IIがスポンサーに付くなど、なりふり構わぬ姿勢で参戦を継続した。しかし、日本のバブル景気の終えんで資金難に陥り、ミドルブリッジレーシングの資金も枯渇し、いよいよ深刻となった資金難に伴い、ヒルのみが参戦した(この年の開幕からドイツGPまで在籍したエリック・ヴァン・デ・ポールはハンガリーGPからフォンドメタルに移籍していた)ハンガリーGPを最後にF1から撤退した。別のオーナーによる1993年の復帰を企図するも叶わず、結局そのままチームは消滅した。ブラバムの名はしばらくF1から遠ざかっていたが、2009年に再び聞かれることとなった。翌年の参戦可能台数が一挙に6台、3チーム分増加したため、その枠を狙い新チームとなるべく申請した15の候補のひとつが「ブラバム・グランプリ」だった。しかし申請したのはドイツのツール設計・製造会社フォームテックで、2008年撤退のスーパーアグリF1チームの固定資産を買収していた。チーム代表はフランツ・ヒルマー。つまり1992年まで参戦していたブラバムとの関係はない。FIAによる審査の結果、参戦が認められることはなく、プロジェクトは終わった。ウェストロンドンのチェシントンにあるブラバムの旧ファクトリーは、2007年よりイギリスF3の名門カーリン・モータースポーツが使用している。創設者ジャック・ブラバムの三男であるデビッド・ブラバムが復活プロジェクトを立ち上げた。ブラバム・レーシングとして2015年から世界耐久選手権(WEC)のLMP2クラスに参戦予定。2018年からはコンストラクターとしてLMP1クラスへの参戦を目標としている。バーニー・エクレストン時代のブラバムのシンボルマーク「ヒッシング・シド ("Hissing Sid" ) 」は、頭が「ライオン」・胴が「コブラ」・尾が「サソリ」という架空の怪物だった。1981年のシーズンオフにエクレストンとマネージャーのハービー・ブラッシュ、デザイナーのゴードン・マーレーらがロンドンの行きつけのパブで、「何かインパクトのあるシンボルマークをマシンに着けよう」と話し合い、このマークが生まれた。名前の「ヒッシング・シド」は当時シルバーストン・サーキットにいた口うるさい (=Hissing) 有名なコースマーシャルの「シド」という人物から付いたとも言われている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。